第2話 生活の音

朝。

 まだ薄い光がカーテンの隙間から差し込むころ、私は目を覚ます。

 私は佐伯絵奈(さえきえな)。二十七歳。大阪・堺市の住宅街に暮らしている。


 外からは、始発電車の遠い走行音と、近所のパン屋のシャッターが開く金属音がかすかに届く。

 街がゆっくりと目を覚ます音。

 それを聞くと、私の一日も静かに動き出す。


 私の仕事はグラフィックデザイナー。大阪市内のデザイン事務所で働いている。

 広告の色や形を整える日々は、地味だけれど、確かに「誰かの目に届く」仕事だ。

 けれど、そんなことを考えるより先に――まずは朝の家事が始まる。


 キッチンの方から、包丁のリズムが聞こえてくる。

 トントン、トントン。

 その音は、目覚まし時計よりも正確に私を起こす。


 私の夫、佐伯廉(さえきれん)は三十歳。

 自宅の一角を改装して、洋食レストランを営んでいる。

 朝から仕込みをする彼の姿は、いつ見ても不思議と絵になる。

 白いシャツの袖をまくり、玉ねぎを刻む姿。

 フライパンが温まると、バターが溶ける音がジュッと鳴り、オリーブオイルの香りが部屋に広がる。


 あの香りが立ちこめる瞬間、私の中にも「朝」が訪れる。

 それは、仕事のスイッチを入れるよりも早い、心の合図のようなものだ。


 私はキッチンの脇でコーヒーを淹れる。

 ドリップから立ちのぼる蒸気の中に、静かな音楽のような香りが漂う。

 茶トラの猫――マイケル、通称“マイコ”が、足もとにすり寄ってくる。

 柔らかな毛並みが足首に触れ、くすぐったい。


 日当たりのいいリビングで、マイコはゆっくりと毛づくろいを始める。

 窓辺には朝の光が帯のように伸び、カーテンの影を床に描く。

 私はその光景を眺めながら、小さく息をつく。

 特別なことは何もないけれど――それが、いちばん好きな時間だった。


 通勤は、スクーター“アドレス”でオフィスまで行く日もあれば、電車に揺られる日もある。

 天気のいい日には、スクーターのエンジンをゆっくりと回しながら走るのが好きだ。

頬をなでていく風は、まるで誰かが「今日は大丈夫だよ」と囁いてくれるようで、胸の奥に溜まっていた曇りまでひとつずつ吹き飛ばしていく。

信号待ちのあいだ、ふと見上げる空はどこまでも澄んでいて――その青さに包まれながら走る時間だけは、私が私に戻れる気がした。

電車の日は駅のホームに立つと、風が髪を揺らし、アナウンスの声が頭上を抜けていく。

 朝の車窓から見る空は、日によって表情を変える。

 曇りの日は、街全体が静かに沈んで見え、晴れた日は光が建物の窓に反射してまぶしい。

 そのわずかな違いが、なぜか心に沁みる。

 同じ通勤路でも、空の色一つで、世界が少し違って見えるのだ。


 オフィスに着くと、タイピングの音、プリンターの作動音、同僚たちの笑い声が交じり合う。

 それは街のざわめきとは違う、仕事という名のリズム。

 デザインの仕事は、形のないものを形にする行為だ。

 線を引き、色を選び、配置を整える――ただそれだけの繰り返し。

 けれど、完成したデザインが街角の看板になったり、駅のポスターになったりする瞬間。

 そのたびに、画面の中で描いた世界が、現実に息を吹き込む。

 その瞬間が、何よりうれしい。


 帰り道、駅前のスーパーで夕食の食材を買う。

 人々の話し声やレジの音、ビニール袋の擦れる音が混ざり合う。

 外に出ると、夜風が頬に触れる。昼間の喧騒が静まり、街が呼吸を整える時間だ。


 家に帰ると、私はキッチンに立ち、サラダやスープを作る。

 トマトを切る音、煮立つ湯の音、調味料の香り――それらが、今日一日の終わりを告げる音楽になる。

 マイコはテーブルの下で丸くなり、ときどき尻尾を揺らして眠そうにあくびをする。

 その穏やかな姿を見ていると、心の中のざらつきがすっと消えていく。


 夜になると、廉が店の片付けを終えて帰ってくる。

 玄関の扉が開く音、足音、そして少し冷たい外気と一緒にスープの匂いが部屋に流れ込む。

 「今日も満席だったよ」と笑う彼の声は、少し疲れていて、それでもどこか誇らしげだ。

 「すごいね」と私が返す。

 たったそれだけの会話でも、心が満たされる。


 私たちの毎日は、そんな小さな音や香りの積み重ねでできている。

 包丁のリズム、コーヒーの香り、猫の寝息、夫の背中。

 それらが一つ一つ、確かに“生きている時間”を形づくっている。


 けれど――その穏やかな生活の奥に、誰にも語っていないもう一つの世界がある。

 私の心のどこかに、あの日、公園の高台で感じた“重さの消えた世界”が、今も静かに息づいている。

 その記憶だけが、現実と夢のあいだで、消えずに残っていた。

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