第1話 初めてのアナザーワールド

夕暮れの空気が、ひんやりと肌を撫でた。

 日中の熱をわずかに残した街の空気の中で、その冷たさだけが異質だった。


 気がつくと、私は見覚えのない公園に立っていた。

 まるで夢の途中で突然、違う場面に切り替わったように――気づけば、そこにいた。


 誰もいない。

 遠くで、葉の擦れる音と、カラスの鳴き声がする。

 夕陽はすでに傾きかけ、空はオレンジから赤のあいだで揺らいでいた。


 なぜここにいるのか。

 どうやって来たのか。


 頭の中は問いでいっぱいだったが、不思議と恐怖はなかった。

 むしろ、現実よりも現実らしい“静けさ”に包まれていた。

 私は深呼吸をしながら、公園の奥へと歩き出した。


 足元には、乾いた砂と落ち葉が積もっている。

 靴が地面を踏むたび、かすかな音が響く。

 公園の中央には、水の枯れた噴水があった。

 底には枯れ葉がうず高く積もり、ひび割れたタイルの隙間からは草が顔を出している。


 ――ここは、本当に現実なの?


 周囲を見渡すと、高い木々が等間隔に並び、まるで見えない柵のように公園を囲んでいた。

 風が通り抜け、葉が静かに揺れる。

 その動きひとつひとつが、まるで時間の流れを測っているかのようだった。


 ただ一人、毛がくるんとした白い犬を散歩させている中年の男性が、遠くを歩いているのが見えた。

 だがその姿にも、どこか現実離れした違和感があった。

 輪郭がかすかに揺れているようにも見える。

 こちらを見ているのか、まったく気づいていないのかもわからない。


 そのとき、ふと視線の先に“高台”が見えた。

 そこだけが夕陽を受けて、柔らかく光っていた。

 理由はわからない。けれど私は、何かに導かれるように、その高台を目指して歩き出していた。


 広場を横切り、階段へとたどり着く。

 幅は五メートルほど。両側を古びた土壁が囲み、表面には細かな亀裂が走っている。

 登るための小さなステップが等間隔に打ち込まれ、ところどころに錆びたチェーンが垂れていた。


 私はゆっくりと階段を登り始めた。

 一段、また一段。

 登るごとに、空気の密度が変わっていくようだった。


 「……あれ?」


 足が軽い。

 階段を踏みしめているはずなのに、地面からの反発がほとんど感じられない。

 まるで“動く歩道”の上を歩いているような、奇妙な浮遊感。


 一歩、二歩、三歩――。

 身体が、風の流れに溶けていくように軽くなる。

 呼吸のリズムさえ変わり、肺の奥まで柔らかな空気が満たされていく。


 やがて階段を登り切ったとき、私は確信した。

 ――重力が、違う。


 衝動に駆られ、その場で跳んでみた。

 身体がふわりと浮く。

 地面に戻るまでの時間が、異様に長い。


 もう一度跳ぶ。

 もっと高く。

 足先が宙を切り、体が空に引かれるように舞い上がる。


 風が頬を撫で、髪をなびかせた。

 まるで月の上を歩くような感覚――そう、月の重力は地球の六分の一だというけれど、きっとこんな感じだろう。


 胸の内に、子どものような高揚感が広がる。

 跳ねながら、ふと過去の記憶がよみがえった。


 ――保育園の物置の屋根から飛び降りた、あの日のこと。


 子どもの私は、本気で「飛べる」と信じていた。

 空を飛ぶ夢を何度も見ていたし、その夢の延長で、現実でもきっと飛べると思っていた。

 けれど着地した瞬間、足の裏に走った激痛。

 涙をこらえながら、空を見上げたときのあの感覚。

 痛みよりも先に、“重力”という見えない壁を知った瞬間。


 ――でも、今は。

 その壁が、溶けている。


 軽やかに跳ねるたび、私は世界の境界線を越えていくような気がした。

 空が少しずつ赤から紫へと変わり、光が沈んでいく。


 やがて、階段を降りようと一歩を踏み出した瞬間。

 身体に、ずしりとした重さが戻ってきた。

 空気は急に重く、足元は現実の硬さを取り戻す。


 ――あの軽さは、どこへ消えたのだろう。


 立ち止まり、振り返る。

 高台の上は、すでに薄闇の中に沈んでいた。

 風が吹き、木々の葉がざわめく。

 その音だけが、現実と夢の境目のように耳に残った。


 空はオレンジから藍へ、そして夜の紺へと移り変わっていく。

 胸の奥に残るのは、言葉にならない余韻だけ。

 私はそっと息を吐き、外が暗くなる前に、公園をあとにした。


 ――この不思議な軽さが、すべての始まりだった。

 あのとき私はまだ知らなかった。

 自分が、もうひとつの世界の入口に立っていたことを。

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