第三章 眠りは祈りに似て
10月30日。ハロウィンの前日。
灯にとって、この日付には意味がない――少なくとも、カボチャや仮装の色では染まっていない。
街ではスーパーの袋がオレンジ色に変わり、レジ横に並んだチョコが「トリック・オア・トリート」を口にする。
けれど、彼女にとってそれは祭りではなく、静かに死者とすれ違う季節だった。
ハロウィンとは、もともと死者が戻る夜だという。
死者の霊が家を訪ねるから、人は仮面をつけてやり過ごす。
つまり仮装とは、誰かの目に自分を映させないための技術だ。
それを思うと、灯は少し笑いたくなる。
この町では、誰も仮装をしないのに、みんなうまく顔を隠して生きている。
母も、教師も、友人たちも――全員が何者かにならないための面を持っている。
旅人に貰ったエヴリン・メイ・ハロウの文庫本の一節。
〈人は、自分の家を信じたいがために、そこに棲む悪意まで愛そうとする〉
その言葉を、灯はノートの余白に書き写した。
この世界も同じだ、と彼女は思う。
私たちは自分の「日常」という家を信じたい。
だから、そこにある痛みや沈黙の形を、普通と呼んで飼いならす。
ハロウィン前夜は、そんな「普通」がほころびる季節だ。
子どもたちが仮面をかぶり、誰かを驚かせに行く――その構造自体が、現実の模倣であり、風刺でもある。
驚かせるほうも、驚かされるほうも、実は同じ側に立っている。
灯は思う。
仮面の本当の役割は、他人を欺くことではなく、自分が本当の顔を見ないための装置なのだ。
窓の外の空は、薄い鉛のように光っている。
朝の校舎にはまだ体温がなく、吐く息も形を持たない。
灯はその冷気の中で、少しだけ息を止める。
(明日は、世界がいったん許す夜になる)
旅人がそう言っていた。
けれど、許すとは何を? 誰を?
彼女にはまだわからない。
ただ、ひとつだけ確信がある――この世界では、仮面の下にある顔よりも、仮面そのもののほうが、ずっと人間らしいということ。
その考えが、静かに胸の奥を冷やした。
ハロウィンとは、きっと生きている人間が一夜だけ死者のふりをする日だ。
それは恐怖ではなく、憧れに近い――
灯は、そう思った。
朝の校舎は、まだ人の体温を知らない白さで満ちていた。
渡り廊下の亜鉛が鈍く光り、ワックスの甘い匂いに、消毒液のアルコールがうっすらと混ざっている。
誰もがまだ声を出す前の時間――けれど、空気のどこかで、何かが微かにざわついていた。
チャイムが鳴るよりも先に、階段のほうからざわめきが立ち上がる。
金属が二度、乾いた音を鳴らした。
カン。……カン。
まるで校舎そのものが、何かを思い出したみたいに。
保健室の前は、人の気配で狭くなっていた。
すりガラスの向こうで誰かが慌ただしく動き、ストレッチャーの車輪が低い唸りをたてながら床を渡っていく。
蛍光黄の救急バッグ。白いナースシューズ。
消毒液と汗の匂いが入り混じり、息を吸うたびに胸の奥が少し焼けた。
すべての音が、奇妙なほど同じ高さに揃っている。
足音も、囁きも、息づかいも、まるで再生されているみたいに。
「見た?」
「階段のとこで倒れたって」
「泡吹いてたらしい」
「救急、もう来てた」
噂の断片が、空気の温度みたいに灯の耳を通り過ぎる。
音ではなく、現実の報告として沈む。
灯は立ち止まらない。
動線を塞がないように、壁際の掲示板の前へ歩を寄せる。
貼られたプリントの角が一枚だけめくれ、画びょうの銀が新しく光っていた。
耳鳴りは――ない。
けれど、廊下の空気の層がくっきりと分かれ、匂いと音が順番に届く。
手が温かい。
指先の血流が、ふわりと増える。
喉の奥で、何かがほどけた。
(違う、これは安堵じゃない)
そう思っても、すぐには否定しきれなかった。
安堵は薄く、罪悪感は重い。
どちらがどちらの重さなのか、自分でも判然としない。
それでも、両方が同じ皿にのって、揺れもせずにいる。
――すべてが正しく並んでいる朝ほど、悪いことは起きやすい。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
昨日、旅人が言った「静けさほど、美しい設計図はない」という言葉が、皮肉のように重なった。
保健室のすりガラスの向こうで、名前が呼ばれた。
その名前は、灯の脳のどこかに棘のように刺さっているものだった。
主犯格の女子。
あの笑い方、あの声。
昨日の夢で最後まで読んでいた相手。
声が出なかった。
息を吸うと、胸の内側の空気が焦げた。
その名が現実で呼ばれるたび、灯の記憶の頁がゆっくりと裏返るように痛む。
人垣の向こうで、誰かが低く呟いた。
「階段の踊り場で……変な倒れ方だったって」
「上から落ちたんじゃなくて、まるで途中で止まったみたいに」
「手すりに触った形跡もないのに、腕が……折れてたらしいよ」
「顔は……笑ってたって。誰かに話しかけてたみたいに」
声の断片が空気を震わせ、灯の鼓膜をゆっくり撫でた。
その一言一言が、昨日の夢の映像をなぞっているようで、
現実と夢の境目が、じわりと溶けあっていく。
それを聞いた瞬間、灯の掌がまた温かくなった。
夜の残り火みたいに。
体のどこかに夢の余熱が残っている。
――夢で読んだということは、現実で書き換えたということ。
気づいた途端、足の裏の感覚が遠のいた。
音が遅れて届く。
ストレッチャーのタイヤが床を軋ませ、金属のパイプがきしむ。
それでも世界はきちんと秩序を保ち、誰も異常を口にしない。
灯はただ、立ち尽くしていた。
誰にも悟られないように、呼吸の回数を減らしながら。
――記録:消毒液の匂い(甘いアルコール+金属)。階段の手すり=冷たい/指の脂を拒む表面。
床のワックス、朝の光でまだ固まらず。すりガラス越しの声、帯域が一段削られる。
ストレッチャーの車輪、リズムは均等。誰かの囁き、同じ高さで反復。
心拍、半拍遅れ→一致。
ペンを持たなくても、頭の中のノートに自動的に記されていく。
その記録という行為が、彼女を現実に留めていた。
人の群れが少しずつ流れていく。
保健室のドアが閉まる。
空気が元の層を取り戻す。
灯は一歩だけ後ろに下がり、すりガラスの向こうを見つめた。
保健室のドアが静かに開いた。
中の光が廊下にこぼれ、薄い白の層を作る。
制服の袖が視界をかすめ、風のようにすれ違う。
視線は交わらない。誰も誰かを見ていないのに、空気だけがざわついていた。
ストレッチャーの脚が廊下を渡り、ゴムの車輪が小さな悲鳴をあげる。
看護教諭の声が一瞬だけ高くなり、すぐに閉じ込められるように静まった。
ドアが再び閉まると、音はすべて吸い込まれた。
残るのは匂いだけ。
胃酸と、牛乳と、わずかな鉄の匂い――
それは、幼いころに倒れた友達の昼休みを思い出させた。
時間がまだ思い出に変わる前の、生々しい現実の匂い。
灯は目を伏せた。
見ないこと、それがこの町で最初に教わる礼儀だった。
見なければ守られる。見なければ、自分の輪郭が削れない。
(誰もが、うまく見ないで生きている)
そう思った瞬間、口の端がわずかに動いた。
笑ったわけではない。ただ、息が逃げただけだった。
そして、静けさの向こう側に――それは在るではなく立っていた。
廊下の端。
冬の白い光が、まるでガラスを立てかけたように平面となって、そこに形を宿していた。
光の中に、旅人がいた。
影を持たないまま、ただ輪郭だけが明滅している。
黒い外套は、光を吸うよりも、溶かしていた。
ボタンには磨かれた跡がない。
まるでこの世に存在したことを、拒むように。
その姿は、若くも老いも見えた。
年齢という概念が、光のなかでゆっくり融けていく。
焦げた砂糖の匂いが、時間を隔てて届く――それは「いま」よりも少し前の匂いだった。
旅人は、口を開いていない。
それなのに、声があった。
音としてではなく、思考の裏側で響く言葉として。
囁きのようで、祈りのようで、誰かが録音した古いテープの再生音のようでもあった。
――灯。
名を呼ばれた気がした。
声は鼓膜ではなく、頭の奥で反響する。
空気の層が一枚めくれ、現実の裏側に薄い頁が見えた気がした。
旅人の立つ光は、風で揺れない。
世界のテンポから、わずかに遅れている。
その遅れが、現実の裂け目みたいに美しかった。
旅人は、少しだけ首を傾けた。
その仕草だけが、人間だった。
だが次の瞬間、光の密度が変わった。
廊下の端に立っていたはずのその姿は、白い層の中にゆっくりと沈んでいった。
溶ける、というより、この世界の粒子でできていなかったものが、元の場所に戻っていくように。
世界は静止した。
蛍光灯のうなりも、遠くのざわめきも、いったん息を止めたように。
その無音の底で、旅人の声だけが残響する。
「誰も君を傷つけなくなっただろう」
声が終わると、光がひときわ白くなり――そして、すべての音が戻った。
世界の色が、ほんの少し薄まっている。
現実が、夢と同じ温度になっていた。
灯は顔を上げない。
ノートの余白に、見えない線が一本、引かれるのを感じる。
昨夜、心の中で読んだ名前は、点のまま遠ざかる。
(ただ読むだけ)――あの言い方が、いちばん現実的だったと思う。
詩人は孤独を広い部屋だと言ったけれど、今は廊下そのものが部屋になって、音も匂いも正確に配置されている。
保健室の奥で、金属がまた二度鳴る。
カン。……カン。
世界のテンポが揃うたび、灯の手の温度は少し上がる。
耳鳴りは戻らない。
遠くで誰かが「大丈夫」と繰り返し、
別の誰かが「ほんとに?」と同じ高さで返す。
笑いは起きない。起きないのに、空気は静かだ。
(地図)
と、灯は心の中で言う。
自分の中の白地図に、点がひとつ、薄くなっただけ。
線はまだ引かない。引けない。
廊下の向こうで、救急の黄色が角を曲がる。
光は冷たく、冬はもう入りこんでいる。
灯はゆっくりと歩き出した。
背後には、もう誰もいない。
ただ、焦げた砂糖の匂いだけが――まだ消えきらずに、空気の底に沈んでいた。
夜の家は、空気が腐りかけた缶詰のようだった。
外で風が吹いている気配はあったが、音は一滴も入ってこない。家そのものが、音を嫌っているようだった。
冷蔵庫のランプが、暗闇の中でかすかに明滅していた。それは「光る」というより、息をしている。
冷気の白が壁を撫で、空のタッパーを照らす。中身のない明るさ。
灯はそれを見ながら、(この家の心臓はここなんだ)と思った。
止まらないけど、生きてもいない。
最初の音は、コップではなかった。もっと硬いもの。陶器。倒れて、跳ねて、床を這うように転がる音。
静寂の下に、何かが割れる。母の声が、すぐにそれを追ってきた。
声は――言葉ではなかった。
意味が途中で脱落して、残ったのは音の塊。
ひとつひとつが破片みたいで、耳の奥に突き刺さるたびに、音だけが大きくなっていく。
「おまえのせいだ……!」
「返してよ、私の……私の人生を!」
息が切れて、声が軋む。
笑い声のようにも聞こえる。
泣き声のようにも聞こえる。
どちらでもなく、ただ音が人間を使って鳴っている感じ。
テレビがついた。
画面の中で誰かが笑い、同じ高さで母の声がかぶさる。
その二つの笑いが、奇妙にシンクロしていた。
灯は、立ち上がるのをやめた。動くと、何かが壊れる気がした。床の軋みさえ、挑発のように響く。
家の空気が、焦げたプラスチックみたいな匂いを持ち始める。
どこかでコンセントが焼けているのかもしれない。それでも灯は動かない。
母の声が、壁を這うように移動してくる。ドアの向こうで、何かがぶつかる音。
それから、一瞬だけ沈黙。
沈黙がいちばん怖い。
嵐の前でも、地震の前でもなく、何かが現実の形を思い出そうとしている沈黙だった。
灯はその中で、自分の呼吸がこの家にとって「異物」になっている気がした。
冷蔵庫のランプが一度だけ明滅する。
次の瞬間、母の叫びが、それを掻き消した。
「お前のせいだ!!!」
「全部、お前のせいだ!」
母の声が、壁の中の配線を伝って響いた。
「私の人生、返してよ! あの人まで出てったのに、どうしてお前だけ平気なの!」
母は、怒鳴るたびに息を切らせていた。
言葉が途切れるたび、肺の空気が鳴き声みたいに漏れた。
机の上のペットボトルが倒れ、床を転がる。
その音が、怒鳴り声よりも正確だった。
灯は何も言わなかった。
言葉を出した瞬間、空気の形が壊れる気がした。
次の瞬間、肩を掴まれる。体が壁に押しつけられた。乾いた音が、骨の内側で跳ねた。
痛みは確かにあったが、それよりも音の圧のほうが強かった。
空気が一瞬にして重くなる。
涙が出るのは、悲しいからではない。鼓膜の裏側が熱を持つからだ。
世界のすべてが、母の声の振動に合わせて揺れていた。
母の顔は近い。
ファンデーションの粉が汗でひび割れ、唇がわずかに泡立つ。
その目は、何かを探しているようで、何も見ていない。
空っぽの光。
あの人が出ていった夜から、何かがそこに置き去りになっている。
それが腐って、匂いになって、この家を満たしていた。
「私ばっかり、残されて!」
「笑ってんじゃない! あんたはいいよね、何も知らない顔して!」
母の声が、金属のように軋む。
怒鳴りながら、泣いていた。
怒りと泣き声の境界が壊れて、音が混ざっていく。
テレビの画面では、まだ誰かが笑っている。
バラエティの司会者が、テロップの上で同じフレーズを繰り返していた。
「すごい!」「信じられない!」
その明るい言葉が、母の叫びとぴたりと重なった。
笑いと怒号が同じ高さでぶつかる。
音の中で現実がゆっくりと折れていく。
灯は目を閉じた。
世界のどこにも自分の声の居場所がないことを、静かに理解していた。
灯は目を閉じた。
背中の冷たい壁だけが、まだ現実のかたちをしていた。
音が遠ざかる。足音が乱れ、食器の割れる音が続いた。
家の中が、世界でいちばん狭く感じられた。
母の手が、もう一度肩を掴む。
爪が皮膚に食い込み、声が耳のすぐ横で弾ける。
「逃げるな! 聞きなさいよ!」
息がかかる。
酒と薬と柔軟剤の甘さが混ざった匂いが鼻の奥に突き刺さる。
灯は反射的に、その手を振りほどいた。
力を使った感覚はなかった。
ただ、生きている反応として。
母の指先が宙を切り、ガラス戸の縁に当たって音を立てた。
「どこ行くのよ!」
叫びが追いかけてくる。
声が重く、床の埃を巻き上げるようだった。
灯は走った。
足の裏でフローリングの冷たさを確かめるようにして。視界が狭まり、呼吸が途切れそうになる。
指先が震える。
浴室のドアを押し開けた。鍵をかける音が、世界のすべてを閉じ込める。その一瞬だけ、静寂が戻ってきた。
湯気の残り香が、まだ空中に漂っている。
鏡は曇っていて、光を拒んでいる。
灯は壁にもたれ、息を整えた。
手が震えていた。
その震えが止まるまで、彼女は何も考えなかった。
外では、まだ母の声が続いていた。意味を失った言葉が、波のように壁を叩いていた。
「返してよ……返してよ……」
その響きは、もはや怒りではなく、祈りに近かった。
呪いと祈りのあいだで、声はかすれて、形を失っていた。
灯は鏡を見た。
曇った表面の奥に、ぼんやりと自分の輪郭が浮かんでいる。
その輪郭は、母の声に押し流されながらも、どうにかここに存在していることを主張していた。
彼女は鏡の中の顔を、詳細に確かめようとして――やめた。
もう何度も確かめすぎた顔だった。
見れば見るほど、自分の中の何かが摩耗していく気がした。
そっと、胸の前に文庫本を引き寄せる。
カバーの端が指先に触れた。
冷たい紙の感触。
まるで心臓の上に置かれた異物のように、
本の重みが鼓動と重なっていた。
灯はそのまま本を抱きしめ、目を閉じる。
(まだ読まない)
心の中で、言葉を結ぶ。
その瞬間、鏡の奥がわずかに揺れた。
反射した白の層の向こうに、暗い影が浮かぶ。
声がする。
現実よりも低く、穏やかで、どこか遠い劇場の録音のような声。
「名前を読むんだ、灯。君の地図は正確だ」
旅人の声だった。
焦げた砂糖の匂いが、浴室の湿気に溶けていく。
声は命令ではなく、誘いのように柔らかい。
それなのに、拒むほどに胸の奥が冷えていく。
灯は本をさらに強く抱きしめた。
カバーの内側で紙が鳴る。
指先が本の角を握り潰しそうになる。
喉の奥がひりつく。
声を出すことが、祈ることと同じくらい危うい気がした。
(読まない)
鏡の向こうの影が、わずかに笑ったように見えた。
だがその笑いは、光ではなく、音でできていた。
蛇口の滴が落ちる音が、やけに鮮明に響く。
ポタ、ポタ――それが地図の上に落ちる印のように聞こえた。
灯は目を閉じ、呼吸を数えた。
三。四。五。
世界の温度が少しだけ下がる。
湯気が引くころには、旅人の声も、跡形もなく消えていた。
けれど、鏡の曇りの中に、指の跡がひとつ。
細く、まるで見えない線を引くように、残っていた。
やさしい悪魔の来た町で 九十九 弥生 @no_quarter_73
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