第二章 やさしい提案

 朝の教室は、白い粉でかすんでいた。

 黒板の下の溝にたまったチョークが、ゆっくりと気流に乗って浮かぶ。光の中で、粉が時間のように沈む。机に点々。袖で払うと、細かい雪がほどけて落ちた。

 消しゴムはない。昨日まであったものが、跡だけを残していない。引き出しの角の木ねじが、指の腹にざらつく。小さな違和感。だが、それが一日の秩序を壊すには十分だった。

 上履きの中に、固い粒。つま先の下で、押されても動かない。指で寄せる間もなく、チャイムが鳴る。立つ。踏む。

 痛みは針のようではない。もっと鈍い。厚い紙に押しピンを通したときの、いやな抵抗。足裏に、それだけが残る。血は出ない。出ないように、誰かが計算したみたいに。

 歩幅が小さくなる。教室の床を渡るたび、足音が自分のものではない気がした。

 黒板の白がまぶしい。窓際の光が、それをさらに薄くする。外は北風。どこかでドアが閉まる音。

 世界のすべてが、少しだけ予定通りに壊れていく。

 灯は、痛みの位置を記録する。粉、光、金属、皮膚。どれも同じように、ただそこにある。


 教師は入ってきて、黒板の端を見て、出席をとって、窓を二枚だけ開けた。

 冬の気配が薄く滑り込み、空気の層をひとつずつ剥がしていく。

 誰かの笑いが小さく漏れ、すぐに止まる。

 廊下の遠くでは、上履きの足音が規則正しすぎて、まるで録音を再生しているみたいだ。

 世界が一度録られて、今ここで再生されている――そんな錯覚。


 灯はノートを開き、文字ではなく、感覚を並べる。

 記録、という名の呼吸。

 ――記録:粉のにおい(乾いた石+手汗)。机天板の紙やすり。上履き内側のビニールの汗ばみ。画鋲の頭の冷たさ。足裏の鈍痛=針の手前。蛍光灯の白、薄く緑。教師の声、低くつぶれた帯域。笑いのコンプレッション。窓の脇の風、体温を剥ぐ速さ。心拍、半拍遅れで揃う。


 ノートの紙は少し湿っていた。

 ページの上に鉛筆の芯の粉が落ちて、にじむ。

(たぶん、これも現実なんだ)と灯は思う。


 本で読んだ――現実はしばしば薄い膜のようにしか存在しない。

 たぶんどこかの作家の言葉だった。


「現実はガソリンみたいなもんだ。火をつければ燃えるが、しばらくすれば蒸発する」


 そんな台詞を思い出す。誰の言葉でもよかった。燃えたあとに残る匂いのほうが、本物に近い気がした。

 教師の声はまだ続いている。

「ページを開け」と言いながら、窓の外の風の音に負けていく。

 世界の音が一段だけ下がったように感じた。

 蛍光灯のうなりが、誰かの名前をゆっくり食べていく。


 灯は視線を落とす。ノートの余白に、小さな線を引く。

 それは罫線より細く、心拍と同じリズム。

(まだ生きてる)と、確かめるための記録。


 外で風が鳴る。カン、と鉄骨が二度鳴る。

 世界が呼吸している音。

 教室の中だけ、少し時間が遅い。現実がほんの数秒、別のテンポで進んでいる。

 そのわずかなずれの中で、灯は静かにペンを置いた。







 視線が交差しない朝は、いつもより静かだ。誰かの机の上で消しゴムが転がり、床の上を小動物のように逃げ、最後にどこにもいない。「返す」と書かれた掲示の紙が、片側だけゆるんでいる。先生は通り過ぎる。見ていないのではない。見ないことに熟練している。灯は呼吸の回数を少し減らす。痛みは、声を出さない。


 休み時間。図書室のドアを押すと、空気が落ち着く。除湿器の低い持続音。紙と糊と退色インクの匂いが、近づく順番で鼻に届く。カウンターの上に、返却期限の札が差し込まれた本が積まれている。角がわずかに潰れ、透明カバーの擦り傷が光を散らす。背表紙のラベルが、規則正しく劣化している。


(借りるのは、誰かの時間を少しだけ借りること)


 と灯は思う。司書の言葉の骨格だけが残っている。返すとき、少しさびしくなる――だから、ときどき返さない人がいるのは、わかる。さびしさに耐えられない日がある。期限切れの札が示すのは、不品行ではなく、持ち主の呼吸だ。


「今日は冷えるね」


 司書が、声を沈めて言う。眼鏡の奥の視線は、灯の顔を通り抜けて、肩あたりに置かれる。


「粉、ついてるわ」


 袖口を軽くはたくと、白がほどける。カウンター脇のブックトラックに、また新しい期限切れが積まれる。背表紙の間から、細い栞がのぞいている。誰かの読みかけ。誰かの途中。


「無理に返さなくていいわ」


 と司書は続ける。


「あなたも、あの人たちも。ペースって、持ち運べる静けさみたいなものだから。ね?」


 灯はうなずくかわりに、指先で本の角を撫でる。紙は沈黙でできている。沈黙は刃物じゃない。当て方さえ間違えなければ、誰も傷つけない。(ほんとうは、沈黙のほうが強い)と、灯は内側でいう。リルケの詩を要約したみたいな言い方で。孤独は広い部屋だ。家具を動かすのに音が要るが、動かしたあと、部屋は前より正確になる。


 貸出カードに押されるスタンプの音が、妙に心地いい。カン、少し間を置いて、カン。金属じゃないのに、金属の影がある。灯は書架の影に身を入れ、指で背表紙を数える。三冊目の段の左から四つ目。『ずっとお城で暮らしてる』は、そこにいる。見返しの書き込みは、昨日のまま。


「静かならいい」


(静かならいい)ともう一度、灯は書き足すように心で言い、ページをそっと開く。文字の列は、世界の騒ぎより理にかなって並んでいる。粉と画鋲の朝は、ここで折りたたまれる。ノートの余白にさっきの記録を写すみたいに、行のあいだに呼吸を置く。返すべきものは、まだ返さない。返さないことで形になる沈黙が、今日の自分を囲っている。司書はそれを壊さない。「あなたのペースで」と彼女は言い、貸出カウンターの端を、一度だけ指で整える。その音が、灯にとっての鐘になった。






 放課後。

 シャッターが半分だけ閉まったままの店先だった。

 夕方の風が、隙間から湿った埃を押し出している。

 看板の文字は剥がれかけ、かすかに「書店」と読める。かつて灯が立ち読みをしていた古本屋だ。

 中は空っぽで、棚の跡が壁に影のように残っている。


 旅人はそこにいた。

 外套の裾を折りたたみ、紙コップを両手で包んでいた。


「空だよ」


 と言って、軽く振る。中で乾いた音がした。

 焦げた砂糖の匂い。街灯がつくにはまだ早く、光の層が灰色のまま止まっている。


「誤解のない親切って、あると思う?」


 旅人が言った。

 灯は考えた。答えが出るまでに風がひとつ過ぎる。


「……ないと思う。誰かのためって、だいたい自己満足」

「うん。だけど、たまに誤解されてもいい親切ってのはある。君が誰かを助けたつもりでも、世界は別の帳簿をつけてる。そこでは借りでも罪でもなくて、ただ一行、行動ってだけ書かれてる」


 旅人の声は、どこか遠い劇場のナレーションみたいだった。

 灯は少し笑って、歩道の縁石に腰を下ろした。

 街の音が遠い。車のタイヤがアスファルトを擦る音が、海辺の波みたいに寄せては返す。


「母は、毎日機嫌がちがうんです。朝は静かで、夜はテレビの音みたいにうるさい。どっちも怖いけど、黙ってるほうがまだまし。教室も似てる。黙ってると怒られない。でも、黙ってると気味が悪いって言われる」


 言葉が出たあと、喉の奥に鉄の味が広がった。

 自分の声が思っていたより大人びていて、それが少し嫌だった。


「眠れない夜もあるの?」

「毎晩です」

「じゃあ、生き延びる才能がある。眠れない人間は、世界の仕組みを少し知りすぎてるから」


 旅人は空の紙コップを地面に置いた。影が伸びる。

 彼の顔は、まだ若くも老いても見える。光の角度で変わる。

 遠くの空がうすい銅色に染まり、雲の縁だけが残照を反射していた。


「君の痛みを終わらせる方法がある」


 旅人は言った。

 声の調子は、まるで天気予報みたいに穏やかだった。

 驚きや恐怖を引き出す隙を与えない。


「それはね、眠りなんだ」


 灯は首を傾けた。


「眠り?」

「うん。嫌いな人たちを、ほんの少しのあいだ、眠らせてしまえばいい。死ぬわけじゃない。夢のなかに退避させるんだ」


 旅人は言いながら、ポケットから細い鉛筆を取り出した。

 折れた芯の先で空中に線を引く。

 線は見えないが、夕日の残り火がそこをなぞったように、空気の密度が変わる。


「世界は地図みたいなものさ。君が見る世界は、君の中にしか存在しない。地図の点をひとつ塗りつぶせば、現実のほうが後から修正してくれる」

「そんな簡単に、書き換えられるんですか?」

「簡単じゃない。でも、方法はある」


 旅人はポケットから文庫本を取り出した。

 見慣れた背表紙。作者はエヴリン・メイ・ハロウ。


「読むんだ。この文庫本を胸に抱き、読む。読むとき、誰かの名前を思い浮かべる。文字は吸うようにして、君の心の形に並び替わる。ページを閉じるとき、その人はしばらく夢に留まる。君の夢にね」


 灯は笑おうとして、声が出なかった。


「……魔法みたい」

「実用的な話だよ」


 旅人は言いながら、本の角を軽く撫でた。

 指先の動きは演奏のようで、触れるたびにページの影がわずかに揺れる。

 その揺れに合わせて、焦げた砂糖の匂いが風に溶けた。

 彼は指に残った埃を払いながら、静かに言葉を続ける。


「君が忘れたいと思うたび、世界はほんの少しだけ位置をずらす。地図はそのたびに静かになり、痛みのない世界が出来上がる。――静けさほど、美しい設計図はないよ」


 旅人の指先が、文庫の表紙を軽く叩く。

 叩くたび、周囲の空気が一瞬だけ呼吸を止めた。


「本って、便利だ。開けば世界が現れ、閉じれば世界が終わる。君の地図も、ページみたいなものだよ。開いて、読んで、閉じる。それだけで、世界は更新される」

「……それは、赦しですか?」

「赦しと呼ぶ人もいる。僕はただ、静けさと呼ぶだけだ」


 旅人は微笑んだ。

 焦げた砂糖の匂いが風に溶け、灯の頬をかすめた。


「君の眠りは、まだ浅い。でも、深くなるほど痛みは薄まる。眠りは、祈りに似ているからね」


 そう言うと、彼は文庫本を灯の膝に置き、指でページの端をそっと弾いた。

 音が立つ。紙ではなく、水面の奥から響くような音だった。

 灯は文庫本を両手で受け取り、胸の前で軽く抱きしめる。

 紙の温度が、まるで生き物の呼吸のように伝わってくる。


「地図って、そんな簡単に書き換えられるの?」


 旅人は視線を遠くへ投げた。街の光が、彼の横顔の骨格を細く縁取る。


「世界は君の頭の中の投影だよ。プラトンは言った――『人は洞窟の影を現実と思っている』と。でも、もしその影を動かせる人間がいたら? そいつが本当の神だ。君は、もう少しでその入口に手が届く」


 灯は笑うしかなかった。喉の奥で、笑いが音にならないまま震える。


「……怖いこと言いますね」


「怖いのは、現実のほうさ。現実は夢より手ざわりがある。――ただ、それだけの違いだよ」


 旅人は空の紙コップを潰して、無音でゴミ箱に放った。

 見えない風の筋が、彼の外套の裾をやさしく持ち上げた。

 その布の揺れは、まるで空気が祈るように、ゆっくりと沈んでいった。


「眠りは優しい。痛みも、罪も、眠っているあいだは形を持たない。赦しなんて大げさな言葉より、ずっと現実的だと思わない?」


 灯は視線を遠くへ向けた。

 夕陽の名残がシャッターの溝に溶けていく。

 町の音が一つずつ薄れて、遠くで犬が二度吠えた。

 ――二度目の音。あの鉄骨の響きと同じ高さ。


「……もし、それが本当にできるなら」

「できるさ。誰でも一度はやってる。見なかったことにする、それが最初の書き換えだよ」


 旅人は立ち上がった。

 その仕草が、ひどく静かだった。

 風が通り過ぎる。焦げた砂糖の匂いが残る。

 灯は、自分の足の下の地面を見た。

 コンクリートに、煤のような指の跡がひとつ。

 数えてはいけないと思いながら、数えた。――一本、二本、三本、四本、五本。

 そして、もう一本。

 空の紙コップが、風に転がっていった。







 夜は、呼吸のようにゆっくり沈んでいた。

 部屋の灯りを消すと、空気が少し冷たくなる。蛍光灯の残光が天井でまだ生きていて、消えきらない。窓の外で、大型車がゆっくりとバックしていた。

 ピ、ピ、ピ――という音が、遠くの夢を削るメトロノームみたいに聞こえる。


 灯は横になって、天井の模様をぼんやり追った。

 指先が布団の端を探す。眠れない夜は、いつも音が近い。

 心臓と外の世界のテンポが、ほんの少しずれている。そのずれが、眠りの入口に似ていた。


(眠りは優しい。痛みも罪も、形を持たない)


 旅人の声が、夜のどこかに混じっている。

 記憶の再生というより、音そのものが部屋の中を漂っていた。

 窓の隙間から、冷気が頬に触れる。

 旅人の言葉を反芻する。


 ――「読むんだ。読むとき、誰かの名前を思い浮かべる」


 読む、という動詞が引っかかる。

 ただ、本を読むのとは違う。

 それは、書き換えるための読み。

 言葉を口に出す代わりに、思考のなかで溶かす行為。


 灯は枕元に目をやった。

 そこに、文庫本がある。

 ページの間から夜の匂いが滲み出しているようだった。

 そっと手を伸ばす。

 カバーの表面はひんやりしていて、掌の熱を静かに吸い取る。

 灯は本を胸に抱き、ページを開こうとした。

 紙の重さが心臓の拍と重なり、活字がかすかに呼吸している。


(読むだけ、か)


 その言葉が、思考の底で鈍く響いた。

 旅人の声が遠くの劇場の残響のように重なり、灰色の幕がゆっくり下りていく。

 眠りは、開演の合図。


 灯は目を閉じた。

 暗闇の奥で、学校の教室が浮かぶ。

 チョークの粉、笑いの音、揃いすぎた足音。蛍光灯の白が、机の列を一本の骨のように照らしている。


 その中で、主犯格の女の顔だけが、異様に明るかった。

 教室全体が薄暗い水槽のように沈んでいるのに、その顔だけが、ひとつの照明の下にあるようだった。

 だがそれは光を反射しているのではなく――むしろ、光そのものを拒んでいる明るさだった。

 頬の皮膚はぴんと張り、まるで晒された紙のように乾いて白い。

 口紅の色だけが時間を止めたまま残っていて、唇の端に貼りついた笑いの形が、筋肉と癒着している。

 笑っているのではない。

 笑いという形を保っているだけの顔。

 表情が動かないというより、動くことを思い出せない顔だった。


 目の奥には、鏡のような反射があった。

 その鏡の中に灯自身の顔が映りこんでいる。

 だがその輪郭は、霧の中の文字のように滲み、ゆっくりと薄れていく。

 まるで、見ているのは灯のほうなのに――見られている側が透けていく感覚。


 髪が蛍光灯の光を鈍く返す。

 前髪の一本一本が、まるで金属線のように硬質で、整えられすぎたその線が逆に不自然だった。

 瞳孔がわずかに開いている。

 黒目の奥のその穴の深さに、灯は吸い込まれそうになる。

 笑っていないのに、口だけが動く。

 空気を震わせるためではなく、何かを模倣するための動き。


「……ねえ、見てるんでしょ」


 その声が、教室の蛍光灯のうなりと混ざり、ひとつの低い音へと変わる。

 声と機械音の区別が消える。

 世界のピントが、ゆっくりとずれていく。


 視界の端が液体のように歪み、机の線が波打つ。

 床が柔らかくなり、壁が呼吸している。

 チョークの粉が空気に溶け、光の粒を抱えたまま浮遊していた。

 すべてが揺らいでいくのに、彼女の顔だけは動かない。

 輪郭が、時間から切り離されたままそこに残っている。


 その静止が、いちばん恐ろしかった。

 動かないことで、すべての現実を止めてしまう顔。

 その沈黙が、世界の音を食べていく。


 灯の喉がかすかに鳴った。

 名前が、舌の裏に乗る。

 けれど声にはならない。

 声帯の奥で、音が溶けていく。


 ただ――読む。


 読むというより、沈める。

 その名前を心臓の奥に沈めていく。

 黒い水の底に石を落とすように、ゆっくりと、確実に。


 吸い込まれる瞬間、教室の蛍光灯が破裂したように光った。

 白が音を連れて膨張し、世界全体がひとつの閃光になる。

 チョークの粉が宙に散り、空気の粒子ひとつひとつがその白を反射した。

 光の反射が連鎖し、教室が光の骨格だけを残して崩れていく。

 世界の輪郭が、焼けつくような明度で塗りつぶされる。

 すべてが真白になり、その白の中で――灯の影が溶けた。


 影が消えると同時に、視界が静かに反転する。

 光が裏返り、世界は闇になる。

 音が遠のき、空気の振動が紙を裂くように断ち切られる。

 残ったのは――心臓の音だけ。


 その鼓動が世界のリズムを作り替える。


 ドクン、ドクン。


 その拍動に合わせて、蛍光灯の残光がゆっくりとしぼみ、白が灰に変わり、灰が夜へと沈む。


 空気の密度が戻る。

 時間の流れが、再び身体に重さを与える。

 現実が、ゆっくりと戻ってくる。


 だが――その現実は、ほんの少しだけ違っていた。

 壁の色が、さっきよりもわずかに褪せている。

 机の列が半歩だけずれている。

 空気の粒が別の呼吸を覚えたように、室内の輪郭が曖昧だ。


 灯はゆっくりと手を開いた。

 掌には、まだ微かな温かさが残っていた。

 それは人の体温というより、読書の余熱――誰かを読んだあとの温度だった。

 ページを閉じたときの残り香のように、誰かの存在が指先に貼りついて離れない。


 外で、大型車のバック音が唐突に途切れた。

 ピ、ピ、ピ――という規則が、切れる。

 そのあとで、空気が一瞬だけ止まり、まるで世界が息を呑んだように沈黙した。

 次の瞬間、遠くで何かが倒れるような音。

 重く、鈍く、そして人の骨ではない何かが崩れたような音だった。

 続いて、誰かが吐くような、くぐもった声。

 それは悲鳴でもなく、抵抗でもなく、ただ音として生まれては消えた。


 灯は目を閉じたまま、それを聞いた。

 音の正体を確かめようとするより早く、

 彼女の脳はその出来事を夢の中の効果音として分類していた。

 まるで現実のほうが夢の断片を演じているように。


 まぶたの裏では、教室の光が静かに反転する。

 白が灰に、灰が夜に、夜が再び紙のような白に戻る。

 その入れ替わりが、心臓の拍と同じテンポで繰り返されていた。

 灯は眠りの底へ沈む寸前、ふと考えた。


(これがやさしい終わり方なら、私はどこまで眠ればいいんだろう)


 呼吸の底に、旅人の言葉がまだ残っている。

 それは呪文ではなく、優しさの形をした毒のようだった。


 灯は枕元のウォークマンを手探りで探した。

 小さな金属の塊が指に触れる。

 再生ボタンを押すと、かすかなノイズのあと、ギターのアルペジオが流れた。

 King Crimsonの『Moonchild』。

 ボリュームは限界まで下げてある。

 最初の和音が、まるで月光の破片のように、耳の奥で震える。


 ギターの弦が空気を撫でる。

 音が空気を撫で、空気が灯の皮膚を撫でる。

 やがて音は音であることをやめ、呼吸の粒と混ざっていく。

 グレッグ・レイクの歌声が現れると、旋律は息と区別がつかなくなった。

 歌詞の意味は溶け、ただ響きだけが生きていた。


(世界は、壊れる前の音がいちばん綺麗だ)


 灯はそう思った。

 秩序が崩れていくほどに、音は自由になる。

 ドラムは迷子のように散り、ベースは重力を失い、

 メロトロンが空の端をゆっくりと撫でる。

 音は崩壊しながら、生きている。

 何かが終わるときの音は、どうしてこんなにもやさしいのだろう。


 音の粒子がほどけ、部屋の空気と溶け合っていく。

 その静けさの隙間から、旅人の声が差し込んだ。

 まるで、レコードの裏面に隠されたトラックのように。

 現実よりも静かで、夢よりも確かな声。

 それは空気ではなく、記憶そのものが語る声だった。


「――地図の交差点に立って、消したい点の名を、心の中で読むだけでいい」


 ――そうすれば、世界は少しだけ軽くなる。


 灯はゆっくりと目を閉じた。

 イヤホンを外し、指先で電源を切る。

 再生が止まっても、音の残響は耳の奥に残りつづけていた。

 まるで音そのものが、まだ彼女の中で呼吸しているように。


 ピ、ピ、ピ――。

 外のバック音が、現実へと戻っていく。

 思考が途切れる。

 部屋の中には、焦げた砂糖の匂いがかすかに漂っていた。

 夜は、呼吸をやめた缶のように静かだった。

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