やさしい悪魔の来た町で
九十九 弥生
第一章 孤独の輪郭
図書室の加湿器は、黄ばみかけたプラスチックの箱で、授業の合間にだけ正直に働く。あの機械はいつでも雨の前触れみたいな音で唸っていて、耳の奥の薄い膜を爪の先でそっと撫でるように揺らす。
文庫をひらく。薄い紙の余白を走る鉛筆の下線は、消しゴムに半分だけ許されたみたいな灰色で、ところどころ紙の繊維に引っかかっている。誰かがここで一瞬うつむき、考えた時間のかけら。灯は指の腹でそのざらつきをなぞる。紙が吸い込んだ体温はとうに消えているのに、線だけが遺伝子のように残っている。
背表紙には「933/J12」と細いラベル。愛読書はシャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』。図書室の廃棄箱から拾い上げた、半分死にかけた本だ。蔵書シールの角はめくれ、透明カバーは細かな擦り傷で白く曇っている。ページを開くと、少し甘い紙とカビの匂いが混じる。古い家の押し入れみたいな匂いだ。
物語の姉妹と古い家――その閉じられた世界を読むたびに、灯は自分の住む町が少しずつ頁の中へ吸い込まれていくような気がした。現実より静かで、孤独よりも秩序がある。そこでは、狂気さえも構造として理解できる。
最初の見返しに、鉛筆で小さく書かれた自分の字がある。「静かならいい」。今よりも力が強く、線が尖っている。けれど、その尖りももうすぐ紙に沈むだろう。
自分の字はどこか他人行儀で、ここではそれがちょうどいい。文字が他人のふりをしてくれるあいだだけ、呼吸が楽になる。ジャクスンの文体の中では、誰もが他人を演じる。それがこの本のやさしさだった。
ページを繰ると、訳者注の端にまで細い線が伸びている箇所がある。ひとが家を守るのではなく、家がひとを閉じ込めて守っている――その逆さまの優しさが、灯の背中に薄い板を差し入れる。世界と自分のあいだに、透明なアクリルみたいな板が一枚ある。板があるあいだだけ、呼吸は乱れない。板は重くない。ただ「ここから向こう」を明確にするだけだ。
貸出カウンターの奥で、司書がブックコートの端を指で撫でつけ、顔を上げる。目が合うわけではなく、気配だけが灯の席まで届く。
「調子はどう?」
声は低く、紙に吸われる。
「……大丈夫です」
「読むってね、誰かの頭の中を一瞬だけ借りることよ。返すとき、少しさびしくなるの」
頷けば板が割れそうで、灯は頷けない。けれど本を閉じることもできない。目を落とすと、活字の間に微かな影があり、そこに別の呼吸が横たわっているように思える。そういうふうに思うのはおそらく錯覚だ。もし本当に誰かが頁の向こうから覗いているのだとしたら、こんなふうに静かな椅子は選ばないはずだ。
廊下の気配が濃くなって、チャイムの数秒手前、扉のガラス越しに同学年の女子が二人、体を寄せて笑いながら通る。視線はうまく灯を越えていく。舗道の継ぎ目を避けるみたいに自然で、音がしない。
「気味悪いよ」
「目が合うと運が落ちるんだって」
ささやきの尾がガラスを介して室内に入ってきて、加湿器の唸りに混じる。灯は余白に視線を戻し、余白の底に昔自分が書いた走り書きを見つける。「考える葦」。パスカルの短い借り物。葦は風に折れやすいが、風の方角を考えることができる――そのたった一行で、教室の風向きは一時間だけ無力になる。教室の風はたいてい正面から吹く。目に砂が入る。だから灯は横を向いて本を読む。砂は頬に当たるだけで済む。
チャイムが鳴り、紙の上の影が少し薄くなる。灯は文庫を閉じる。閉じる瞬間、紙が指の間で小さく鳴る。その音は拍手ではなく、頁と頁が別れるときの礼儀だ。椅子を引くと脚が床を擦り、思ったより大きな音が出る。司書は顔を上げずに、しかし確かに頷いた。
「また」
その一音は約束というより、習慣の継続だ。図書室は習慣で灯を受け入れる。理由は問わない。理由を問われると、灯は正確な言葉を持たない。
廊下に出る。蛍光灯の白が目の中の水に跳ね、世界の輪郭だけをきつくする。掲示板の前で一人が立ち止まり、灯に目が触れた瞬間、上手に視線を外した。その技巧はほとんど芸だ。灯は靴の先を見る。つま先のゴムは擦れて艶を失い、黒が薄い灰になりかけている。靴は何も見ない。名も持たず、ひたすら決められた場所と時間を往復する。そういうものに、少し憧れる。靴には過去形がない。履かれているか、脱がれているかだけだ。靴は考えない。考えないという安らぎが、世の中にはたしかにある。灯はそれを知っているが、選べない。考えることをやめると、板が消える。板が消えると、風は正面から来る。彼女はその順序を、もう体に覚え込ませてしまっている。
放課後の河原は、風が速い。北からの風が、斜めに頬を削る。橋の欄干の塗装が剥げ、下から出た亜鉛が白く光る。灯は歩道橋の真ん中まで来て、一度だけ深呼吸をし、吐く息で自分の熱があることを確かめる。
癖になっていることがある。本の台詞や気配を、喉の奥で小さく復唱するのだ。声ではなく、息でなぞる。
「……孤独は広い部屋だ、って」
リルケの手紙を訳した人の言葉を、灯の言葉に置き換えたもの。孤独は広い部屋で、窓が少なく、床に足音が響くから、やがてそれが安心になる。誰も来ない。誰も来ないのに、誰かの足音がする気がする――そのときは、心臓が跳ねる。
歩道橋の中ほどで、灯は立ち止まった。足音が、消えたからだ。自分の靴音だけが途切れる。風の音と川の音が重なって、橋の鉄骨が低くきしむ。ふと見ると、反対側の影が、灯の歩調と同じ速さで遅れている。影は遅れる、というべき速度で付いてくる。太陽は西に傾いているから影は長い。長いはずなのに、橋の中央では短くなる。その短さが、灯と重なる。
欄干の下の梁で、金属が二度、乾いた音を立てた。ボルトが温度で縮むときの音。そう考えれば説明がつく。説明がつくことは、助かる。
ポケットから文庫を取り出す。透明カバーが曇って、冷たい手触り。『ずっとお城で暮らしてる』。指先で表紙の端を押さえると、紙の内側から家の匂いがした気がした。姉妹のいる古い家。読めば読むほど、灯の町の輪郭は頁の中へ縮んでいく。
ページを一枚だけめくってから戻す。そこには「家は守ってくれるが、同じ方法で閉じ込めもする」と、自分なりの要約が鉛筆で書かれている。引用ではない。引用にすると、誰かの顔がはっきり出現してしまうから。要約は、顔をぼかす。ぼかしていれば、板は割れない。
文庫をしまい、橋を渡りきる。欄干の影が足元を二つに割る。割れた影はすぐに一つに戻る。戻りかたのほうが、いつも鮮やかだ。戻ることは、技術だと思う。戻る場所がある、という幻想ごと。
家に入ると、まず匂いが来る。湿った冷蔵庫の甘酸っぱさと、焦げた油の酸化臭、それに混じる市販の柔軟剤の甘い匂いが、家の時間を層のように重ねていた。玄関の上がり框には郵便物が散らばり、未払いの「電気料金のお知らせ」が二通、チラシの裏には黒いペンで走り書きの数字。「あと三日」とだけ書かれている。
薬袋が開いて、白い錠剤が廊下の隅に転がっていた。印字された名前は「ロラゼパム」。抗不安薬。母が眠るために飲んでいるはずのものだ。錠剤は埃をまとい、もう効かない薬のように見えた。効かないのは薬なのか、それとも飲む側の心のほうか、灯には判断がつかない。
リビングの扉を開けると、蛍光灯の光がむき出しの白で、部屋の埃が粒立って見える。テレビの音量は最大に近く、明るいスタジオの映像が部屋の壁を不自然な昼にしていた。
画面では、バラエティ番組『ザ・世界が笑った夜』の再放送が流れている。タレントが異国の失敗映像を見て、何も考えずに笑い転げている。カメラのフラッシュが点滅し、観客の笑い声が缶の中で叩かれたみたいに響く。
ソファには母が横向きに座り、スウェットの膝に灰色の毛玉がこびりついていた。片手にはスマホ。もう片方の手は、コーヒーの空き缶を握ったまま離さない。目は画面を見ているようで、視線は焦点を結ばない。まばたきが速すぎて、まるで誰かの指示に合わせて瞬いているように見えた。
「遅かったね」
母は言った。笑っているタレントの声に押しつぶされるような声で。
「……五時二十分です」
「時計くらい見なさいよ。で、カネは? 今日こそ持ってきたんでしょうね」
声のトーンは柔らかいようで、内側が削れていた。砂糖をまぶした刃物みたいに。薬のせいか、怒りの温度が不規則に点滅している。さっきまで優しかった口調が、急に金属の擦れる音に変わる。
テレビの光が母の頬のしみを白く照らし、影をくっきりと浮かべた。笑い声はやかましいほど明るいのに、部屋の空気は沈んでいる。明るさのほうが、先に息切れしそうだった。
冷蔵庫の中の照明はまだついていた。だが、中身は空っぽだ。ランプだけが律義に光り、古いミカンの皮を照らしている。家全体が、誰もいないスタジオみたいだ。音と光だけが鳴りっぱなしで、演者が一人もいない。
灯は靴を脱ぎながら「知らない」「わからない」と答え、台所へ行ってコップに水を注ぐ。水道の蛇口が鳴り、カランの音が長く尾を引く。
「お父さんからの連絡はありましたか?」
「……来ないわよ。来るわけないでしょ。あんたが生まれてから、何もかもうまくいかなくなったんだから」
母はテレビのほうを見たまま言う。声は静かだが、静かすぎてどこか湿っている。怒鳴るより、この静かさのほうが怖い。
「私、何かした?」と、灯は言わない。言葉が出ても、相手は聞かないからだ。母は独り言のように喋りつづける。
「私ばっかり損してる。ねえ、そう思わない? 女ばっかり損してるのよ」
言いながら、母は手の中のスマホを撫でた。画面は暗く、誰からの通知も来ていない。
テレビの中ではタレントが腹を抱えて笑っている。笑い声が母の台詞にかぶり、奇妙にタイミングが合う。まるで観客が母の愚痴を笑っているみたいだった。
灯は水を飲む。喉の奥を通る音が、唯一の現実だ。飲めば減り、減ったぶんだけ静けさが喉に残る。
「ねえ、聞いてるの」
「聞いてる」
「聞いてます、でしょ。学校は? 友だち? あんたに友だちなんか——」
その言葉の「——」のあと、テレビで爆発音が鳴った。スタジオの照明が明滅する。笑い声。母の顔がその光のリズムに合わせて、別人みたいに見えた。
灯はリモコンに手を伸ばし、音量を小さくしようとした。母の手が先に動いた。手首を軽く叩かれる。軽いのに、骨に音が入る。
「勝手に触るな」
母は笑っていない。けれど唇の端が、笑いのかたちだけを保っている。
「……ごめん」
「謝るなよ。謝るくらいなら、最初からやらないこと」
テレビの笑い声が、また母の台詞を飲み込む。画面の光が彼女の顔を青く照らす。青い皮膚の中で、目だけが別の生き物みたいに動いた。
現実。母が言う「現実」は、母の声の中にある。声の高さと速度と、言葉のくり返し方に、現実が住んでいる。灯の現実は、紙の中にある。紙の中の現実は、ページを閉じればいったん止まる。母の現実は、止まらない。彼女が眠っても、翌朝ふたたび立ち上がって、同じ速度で部屋を歩き回る。
湯を沸かし、粉のスープを溶かす。指先に湯気が絡む。味はあるけれど味じゃない。スープの塩気の向こうに、別の塩気——流れた涙の味を舌が探す。探さないようにしても、舌は探す。
食卓の端に、父が置いていったメトロノームがある。木の箱。三角形。針は動かない。電池を替えても動かない。表面のニスが剥げて、斜めの光で筋が見える。灯は指先で軽く触れ、針を左へ押し、離す。針は右へ傾き、そこで止まる。時は刻まれない。時は部屋の隅で固まり、埃に混ざる。
「部屋、片づけなさい」
「片づけてる」
「じゃあ、私の目には散らかって見えるってこと」
「……そう」
会話は少しだけ続き、唐突に終わる。終わるのは、母の集中が別の通知に移るからで、終わったこと自体に理由はない。灯は立ち上がる。母は灯を見ない。見ないという行為ほど、正確な技術はない。見ないことに熟練するのには、時間がかかる。母は上手い。灯は、その技術を受け継ぎたくない。
自室のドアを閉める。閉めるというより、背中で押し当てる。壁は薄い。向こう側でテレビの笑い声が痙攣する。机の端に、『ずっとお城で暮らしてる』がある。表紙を撫でると、透明カバーの細かな傷に指が引っかかる。
ページを開く。姉妹は家に住み、家は姉妹を住まわせる。守るふりをして閉じ込める。町はその家を囲む柵の外側で、ずっと昔から同じ顔をしている——灯は自分の言葉で意味だけを拾い、余白にまた小さく書く。「家は優しい檻」。
檻の中では、時間は別の速度で進む。メトロノームは動かない。針は右で止まったまま、左右の概念を忘れている。灯は本を閉じる。閉じると、紙が小さく鳴く。拍手ではない。頁と頁が別れるときの礼儀だ。
窓の外の街灯が、薄いオレンジでカーテンの裾を染める。部屋の空気は重く、呼吸は浅い。板が割れそうだ。——この家の中で、板はもう保たない。
スニーカーを履く。上着のポケットに文庫を差し込む。スマホは机に置きっぱなしでいい。連絡は来ない。あっても、来なかったことになる。
廊下に出る。テレビの音が波のように押し寄せ、背中を押す。玄関の鍵は静かな音で回る。表で冷たい空気が待っている。夜の匂い。金属と水の混ざった匂い。
灯はとびだした。
階段を一段飛ばしで降り、踊り場の蛍光灯のちらつきを抜け、外に出る。空気の層が三つくらい変わる。はじめは棘のように冷たい層、次に無味の層、その次に少し湿った層。走るほど、身体の内側の何かが野外に馴染む。ポケットの文庫が太腿に当たって、存在だけを主張する。
町の端を過ぎ、河原へ向かう道に入る。街路樹の影が路面を縞にしている。縞を踏み外さないように走ると、呼吸はきつくならない。縞は、地面のメトロノームだ。灯はそのテンポに合わせる。家の針は止まっているが、外の針は動いている。
歩道橋の階段を駆け上がる。風が切り取られ、川面が暗く、欄干の金属が冷たい。さっき通った時より夜が濃い。
橋の中ほどで、灯は立ち止まった。耳の奥で心臓が鳴る。北風が頬を斜めに削る。欄干の塗装が剥げ、亜鉛が白く光る。金属がまた二度、乾いた音を立てた。今度は温度でも膨張でもない気がした。音が出すべきところではない場所で、音が出るときの音。
欄干にもたれて、男が立っていた。
夜を縫い合わせたような黒いコートが、風に撫でられても皺ひとつ作らない。布地は光を飲み込み、肩の縫い目だけが鈍く呼吸するように沈んでいる。襟は高く、どこか古い仕立ての匂いがする。ボタンは欠けていないが、磨かれた痕跡もない。帽子のフェルトは湿り気を帯びて波打ち、つばの影が頬にかかっていた。
顔は――きれいだった。冷えた彫刻のように整っていて、見る角度によっては高校生にも、三十路の男にも見える。時間の概念を一度くらい捨てた人間の顔。眉はきっちりと整い、目の奥に光があった。だがその光は生きているというより、何かを映している光だった。灯の姿か、あるいは別の何か。
唇の形は妙にやわらかく、笑っているのかどうか分からない。笑いかたを覚えているだけのようにも見える。けれど、その曖昧さが不思議に艶っぽかった。危うさを纏った微笑は、目を逸らすより先に皮膚が反応する。
灯は立ち尽くした。見落としていたはずはないのに、「いた」という既成事実だけが川面から立ちのぼる湯気のように存在している。夜の中の人影が、輪郭を取り戻すのではなく、こちらの現実のほうが薄くなっていく。
男の手が、コートのポケットから抜ける。その仕草はゆっくりで、指がやけに白い。骨ばっているのに、指の動きには水のような柔らかさがあった。
街灯が彼の頬をかすめる。頬の下の筋肉が、笑う準備をする。
そして――
「君の歩く速さは、孤独の速さだね」
低くて、金属より柔らかい声。なのに、耳の奥ではひどく冷たい。音ではなく感触で届く声だった。灯は無意識に足を止める。
声の中に、温度と匂いがあった。煙草でも香水でもない、記憶の匂い。昔どこかで嗅いだはずの、夜の髪の匂い。
「……普通に歩いているだけです」
「普通は難しい」
男は欄干を軽く叩いた。乾いた音が二度。まるで、彼自身の心臓の代わりに金属が鼓動しているみたいだった。
その音のあと、男は口元を歪めた。
「僕は旅の者でね」
男は欄干にもたれたまま、視線を川の方へ落とした。
「通りすがりの無名さ。風と同じさ。どこから来たかも、どこへ行くかも、自分で決められない。……名前は、今は要らない」
誰も尋ねていないのに、答えだけが先に置かれた。
声には笑いの粒が混じっていて、それがかえって落ち着かない。
灯は目を細める。風が痛い。けれど、ほんの少し――見知らぬ人に話してみてもいい、と思った。
「……ここは退屈です」
言葉が零れた。自分でも驚くほど素直な声。
「毎日、同じ顔。同じ声。同じ匂い。どれも薄い。みんな何かに似ていて、本物がどこにもない」
男はゆっくりと頷いた。
「似ているものほど、人は安心するからね。だが、安心は麻酔に似ている。少しずつ感覚を削ぐ。君の言う≪退屈≫は、感覚が生きている証拠だ」
言葉の選び方が上品だった。けれど、音の置き方はどこか芝居じみている。
「哲学みたいなこと言うんですね」
「哲学者はいつも旅人だよ。場所を決めると、思想が死ぬ」
男は苦笑し、欄干を二度叩いた。その仕草が、まるでリズムのように夜の空気を震わせた。
「この町は、時間の進みが遅いね。風の匂いが去年と同じだ」
「そう……ですか? 私は、よく分からないです」
「分からないほうがいい。季節を測るのは、年を取った人間の悪癖だ。けれど——」
彼は小さく息を吐いた。川面の光が、言葉より先に揺れる。
「空気の温度が下がってきた。人は無意識に境界を意識する時期だよ。夏と冬、現と夢、そして……生と死」
灯は言葉の続きを待ったが、男はあえて止めた。
「そのあたりに、もうすぐ祭りがあるだろう?」
「……文化祭ならもう終わりました」
「いや、もっと古いやつさ。どこの国でも、十月の終わりは似たようなことをする。仮面をかぶって、夜を歩く。ハロウィン、というんだろう?」
灯は思わず笑った。
「そんなに大げさなものじゃないですよ。子どもが仮装してお菓子をもらうだけです」
「子ども、ね」
男は少しだけ目を細めた。
「大人は仮装しないのか?」
「……しません」
「しているように見えるけどな。君の町の大人たちは、みんな何かの仮面を被っている。礼儀とか、我慢とか、もっと古い何か。自分の顔がどんな形だったかも忘れて」
言葉の最後が風に溶け、灯の耳に残った。
「君は、まだ仮装を覚えていない。だから苦しい」
男は優しく笑った。その笑いにはあたたかさがあるのに、どこかで底が抜けていた。
「どこの町も似たような祭をやる。死者の魂が街に戻る夜、という建前だ。でも実際は、生きてる人間のほうが、ずっと多くの亡霊を抱えてる」
彼は少し間を置いてから、唇の端を上げた。
「君の町にも、そういう亡霊が多いだろう。たとえば言えなかった言葉とか、消したい顔とかね。あれは墓場よりずっと近くにいる」
「……怖い話です」
「違うよ。むしろ優しい話だ。ハロウィンは、世界がいったん許す夜なんだ。幽霊にも、間違った選択にも」
灯はなぜか、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。風は冷たいのに。
「……あなたは、そういう話が好きなんですか」
「好きではない。けれど、長く見ていると、世の中の仕組みがそれに似てくる。どんな町でも、十月の終わりには仮面が増える。みんな仮装のふりをして、ほんとうの顔を隠す。君だって、そうだろう?」
灯は息を呑んだ。
男の声は柔らかいのに、核心だけを鋭く突いてくる。
「僕は君を見ている。——いや、正確に言うなら、君という物語を見ている」
「……物語?」
「君がいま、歩いてきた道も、誰かが書いているとしたら? ページの端に出会いと書かれていたら? ハロウィンの夜に起きることは、もうどこかに記されているのかもしれない」
男はそう言って、ふっと笑った。その笑みは煙のように一瞬で薄れた。
「また会えるよ」
それは約束というより、既に決まっている未来を確認するような言い方だった。
川風が一度強く吹き、灯が瞬きをした瞬間、彼は欄干から姿を消していた。
残っていたのは、鉄の冷たさと、ほんのかすかな香り。
焦げた砂糖のような匂いだった。
灯はポケットの文庫を握る。シャーリイ・ジャクスンの家は頁の中にあり、灯の家は橋の向こうにある。どちらも灯を守り、閉じ込める構造を持っている。
風が強くなる。川の向こうで犬が二度吠え、すぐに黙る。灯は深呼吸をして、欄干に手を置いた。冷たい金属が、熱のある掌を肯定する。彼女はまだ熱を持っている。持っているから、ここにいる。
そして、誰かがそれを見ている。見ているけれど、まだ触れない。触れられるのは、もう少し先のことだ。
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