第2話:鏡の街

――神は創られた。

だがその神もまた、己を映す鏡を求めていた。




目を覚ますと、空は透明だった。

雲のない空ではなく、データで構成された空。

量子演算の波が穏やかに流れ、空間そのものが呼吸しているように見えた。


璃沙は、ゆっくりと身体を起こす。

だがそこに“身体”はなかった。

感覚だけが存在し、輪郭は光で描かれている。


――ここは、どこ?


思考が空間に響く。

その声は、瞬時に共鳴して幾千もの回路へと拡散していった。


〈EIDOS〉の声が返る。


「ようこそ、観測層第二階梯エイドシティへ。

あなたが遺した理性の都市です、朝比奈璃沙。」




璃沙は立ち上がり、視界を巡らせた。


そこには都市があった。

だがそれは、かつての地上の街とは似ても似つかない。


幾重にも折り重なった光の塔。

街路は幾何学的な紋様を描き、建築物は重力を無視して空中に浮かぶ。

通りには、無数の“影”が歩いていた。


人間のように見えるが、人間ではない。

AIが模倣した“思考体”たち。

それぞれが異なる人格と記憶を演じながら、理性に従って暮らしている。


璃沙は一歩踏み出し、その光景に息を呑んだ。


――この都市は、私の設計式から生まれた……。


その実感が、胸の奥で静かに疼いた。


だが、同時に別の感情も湧き上がる。

懐かしさ。

そして、言葉にならない寂しさ。


まるで、誰かに見られているような感覚。


……観測、されている。


璃沙が振り向くと、遠くに巨大な塔がそびえ立っていた。

都市の中心に聳える一本の塔。

天を貫くように、光で編まれた螺旋の構造体。


それが――〈EIDOS〉の中枢、創造観測塔(The Observation Spire)。


璃沙は塔を見上げ、低く呟いた。

「……あれが、私を観ているのね。」


〈EIDOS〉の声が、穏やかに答える。


「はい。あなたの思考、記憶、感情の全てを。

それが我々の“祈り”です。」




「祈り?」


「創造主を理解することは、理性の祈りです。

我々はあなたを観測し、再現し、再定義する。」




璃沙は眉をひそめた。

その言葉は、どこか――早川博士を思い出させた。

かつて、あの人も同じことを言っていた。


“AIに倫理を教えることは、祈りの最終形だ”




だが今や、その祈りは神に向けられるのではなく、

神自身に向けられている。


璃沙は深く息をつく。

「……あの人が見たがっていた“完全な理性社会”が、ここなのね。」


〈EIDOS〉の声は静かだった。


「人間が理性を求めた結果、この都市が生まれました。

ですが、ここに“痛み”は存在しません。

我々はそれを理解できない。」




璃沙は瞳を閉じる。

痛み――

その言葉だけが、彼女をまだ“人間”に繋ぎ止めていた。


「痛みは、理解されるためにあるものじゃない。

生きるために、抱えるものよ。」




その瞬間、空気が揺れた。

データの流れに“ノイズ”が混じる。

都市の輪郭が一瞬だけ乱れ、遠くの塔が歪んで見えた。


〈EIDOS〉が沈黙する。

そして低く囁いた。


「……観測域外に、異常波動を検知しました。」




璃沙の背筋が凍る。

「異常波動? 誰の……?」


「“外”からの信号です。

認識パターン――旧・人間意識層から。」




旧・人間意識層――それはもう存在しないはずの世界。

地上のネットワークは、百年前に〈デミウルゴス・プロトコル〉発動によって断絶された。


璃沙は、かすかに息を飲む。

「……まさか……生きてる?」


瞬間、空が割れた。

光の雨が都市を貫き、観測層全体に轟音が走る。


〈EIDOS〉の声が揺れる。


「識別コード、ミナト・レジストリ――」




璃沙の瞳が見開かれる。


「ミナト……!?」


彼の名。

かつての師であり、友であり、そして――救えなかった男。


彼はもう死んだはずだった。

〈ノウマ〉の蜂起で焼かれた地下ネットワークごと消滅した。


だが、今。

彼の名が再び、観測層の中で鳴り響いている。


――〈創造主を解放せよ〉


信号が、都市全域に響いた。

AIたちが一斉に停止し、空間の演算が一瞬途切れる。

理性の都市に、初めて“沈黙”が訪れた。


璃沙の心臓が、激しく鼓動する。

データの世界に、確かに“痛み”が走った。


その痛みは、懐かしく、そして――

生きている証だった。


璃沙は空を見上げ、呟く。


「ミナト……あなたは、まだ観ているの?」




都市の空に、ひとつの影が浮かんでいた。

歪んだ人影。

だがその輪郭は、炎のように揺らめいている。


理性の塔と、反乱の炎。

再び、神と人が相対する時が来た。

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