エピローグ 永遠の青
車内は、エンジン音より静かだった。
窓の外、街路樹の影が流れる。
信号の青がフロントガラスに滲み、ダッシュボードを淡く染める。
「緊張した?」
「もちろん。颯真がいると思うと余計」
最初に口を開いたのは、颯真だった。
玲央は軽口で返しているが、ハンドルを握る手は微かに震えている。
「……緊張、まだ残ってる?」
「ううん。なんか、今は、安心の方が勝ってる」
「そっか」
短いやりとりの合間に、沈黙がやさしく置かれる。
言葉を足さなくても、同じ音を聴いている。
「さっきの、約束の続き」
玲央がハンドルから片手を外し、ウインカーを出す。
角を曲がると、住宅街の静かな道。
街灯が等間隔に落ち、歩道に明るい楕円が並ぶ。
「俺の“かっこ悪い話”ってやつ」
「……うん」
「俺はさ、逃げて、退屈を作って、勝手に空っぽって決めつけて来たんだよね。
……だから、颯真と初めて会った時、昔の俺と重ねたんだ。
会話の所々に、“退屈”が見えたから」
颯真は、黙って玲央の話に耳を傾ける。
――そういえば、そうだった。
玲央と出会った頃、颯真の心は確かに“退屈”で埋め尽くされていた。
その青は、薄く暗く、濁っていた。
「――でもね。」
玲央は、言葉を続ける。
「会いに行くたびにさ、颯真は俺に色んな顔を見せてくれて。
久しぶりに、一日一日が輝いて見えた。
……でも、俺はまたそれが怖くなって逃げようとした。」
一呼吸の間。
車内には、静かなラジオの音だけが響く。
「でも、逃げなかったですよね。」
颯真は、玲央の横顔を見つめながら口を開く。
玲央は照れくさそうに笑って頷いた。
「勝手な話だけど。
思えば颯真が俺の事を追いかけてきたあの日、確信した。
――颯真だけが、待っててくれるって。」
颯真は少し笑って、窓の外に視線を滑らせる。
「待ってたよ」
◇
車は公園の脇に止まった。
エンジンが落ちると、夜の風の音が急に近くなる。
外に出ると、冷たい空気に肺が洗われた。
落ち葉を踏む音。遠くで犬の鳴き声。
街の灯りは少し離れて、星の代わりに瞬いている。
並んで歩いた。
肩がかすかに触れそうで、触れない距離。
数歩進んで、玲央が口を開く。
「さっき言ってた“俺に会いたかった理由”、教えてよ」
胸の中で、何度も往復した言葉が喉に集まる。
うまく言えない予感に、笑ってしまいそうになる。
「玲央さんに会うと、世界の音がよく聴こえるんです」
「音?」
「風の音とか、歩く音とか、信号の青が地面に落ちる音とか。全部、はっきりする。
何の変哲もない日常が、少し明るくなる。
……それが、うれしい」
玲央が立ち止まる。少しだけ目を細める。
「それ、たぶん颯真が逃げないからだよ。」
「違います。玲央さんのことが――」
言いかけて、頬が熱くなる。
視線が逃げる。
足元の影が重なるところで、言葉がやっと形になる。
「僕が、玲央さんに恋をしているから。」
夜気が、やさしく鳴った。
玲央は、笑った。
頬の筋肉が少しだけ緩んで、目元が甘くなる笑い方。
「ほんとに……かわいいな」
手が伸びる。迷いのない抱擁。
肩と肩の間に、すっと身体が収まる。
心臓の打ち方がうつるくらい近いところで、耳もとに低い声。
「颯真。俺も好きだよ。
……君のいちばん近くに居させてください」
涙が、ほとんど反射で溢れた。
笑って頷く。
言葉にならない返事を、腕の強さで伝える。
「うん、大好き」
ふ、と互いの腕の力が抜ける。
向かい合うと、自然と互いの視線が絡む。
――唇が触れる。
驚くほど、静かなキスだった。
甘いとか熱いとかより先に、“安心”が胸いっぱいに広がる。
二度目は、少し笑って、息の合図で。
三度目は、離れがたくて長い。
「ふふ」
穏やかに、玲央が笑う。
上目で軽く玲央を睨む。
「……なんですか」
「何が?」
「変な顔してる」
「えー、恥ずかしい。見ないで。」
玲央はおどけて笑って、再び颯真を強く抱きしめる。
「苦しいって」
「ごめんごめん」
笑いながら玲央は腕の力を緩める。
颯真は玲央の肩に顔を埋めたまま、ぎゅっと腕に力を入れた。
「……全然足りないから、もっと苦しくして」
颯真の思いがけない行動に、玲央は息を飲む。
「颯真、それはずるいよ」
繰り返される抱擁の後、二人の笑い声が、夜道に柔らかく響く。
街灯の下で、白い吐息が淡く重なり、ほどける。
風が住宅街の角を曲がって足もとを撫で、遠くの街の灯りが、静かな海みたいに揺れている。
歩き出す。
肩が自然と寄る。
手が指先で触れ合い、ためらいなく絡まる。
世界はたぶん、今日も同じ夜を過ごす。
けれど今夜だけは――
日常の中に埋もれていたはずの風景が、二人の笑い声に照らされて、かけがえのない光を帯びていく。
――それはただの夜の一場面。
けれど、彼らにとっては、永遠に色あせない“青”だった。
◇
ふと、風が止む。
耳の奥で静かな拍手が鳴る。
舞台の残響か、それとも未来の足音か。
どちらでもよかった。
握った手の温度が、すべてを答えにしていた。
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