第12章 『僕らの青』


 劇場の前には、冷たい風が回っていた。

 ガラス扉の向こうで、スタッフが開場準備の声を交わす。

 

 薄い雲を透かして午後の光が落ち、ポスターの上の銀の文字が揺れる

 ――『僕らの青』。


 ロビーを抜け、関係者用の廊下に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 木の床鳴り、埃と黒塗りの床のにおい、遠くの舞台から響く低いハム音。

 胸の奥で、鼓動が一段深くなる。


 角を曲がると、衣装ラックの前に玲央がいた。

 黒と白の衣装を身にまとい、前を軽く開けたコートの襟元に青いスカーフがさりげなく結ばれている。

 鏡台の灯りが横顔を縁取り、銀の髪に淡い光が落ちた。


「……来たんだ」


 玲央が振り向いて、目尻をゆるめる。

 舞台に上がる前の顔――緊張と熱で、ほんの少しだけ体温が高い。


「うん。間に合ってよかった」


 言っただけで、喉の奥が熱くなった。

 言葉が溢れそうで、でも何を最初に渡せばいいのか、どこから触れていいのかわからなかった。 


「似合ってる?」

「……反則です」


 素直に出た声に、玲央はくすっと笑う。


「じゃあ、ちゃんと反則取られないように、真面目にやるよ」


 軽口が、緊張の芯をほんの少しほどいていく。

 沈黙が落ちる前に、胸の奥の、いちばん単純なものがこぼれた。 


「……ずっと、会いたかったです」


 言ってしまってから、耳の裏が熱くなる。

 視線を落としかけたところで、玲央がわざとらしく首を傾げる。

 

「俺に?どうして?」

「――っ、わかってるくせに!」


 反射で睨むふりをする。玲央はたまらない、というように目を細めた。


「公演が終わったら教えてくれる?」


 頷く。こくり、二度。心臓が早鐘を打つ。


「……あ、そろそろ開場の時間だ」


 時計を見て慌てると、玲央が一歩近づいた。

 伸びてきた指が、袖口をそっとつまむ。


「……俺も、話したいことある。終わったら、待ってて」


 それから――ためらいなく、指先が髪を撫でた。

 ほんの一秒、掌の重さ。体の芯まで、熱が走る。 


「行ってくる」


 低く、しかし明るい声。

 玲央は関係者入口の闇へ消え、足音だけが木の床に淡く残った。


 残された空気に、さっきの掌の温度がじわりと広がる。

 息を吸って、ロビーへ戻る。

 手のひらには、指定席の半券――『僕らの青』

 印刷の銀が、微かに青く見えた。


 ◇ ◇ ◇


 客電が落ちる。

 

 暗闇のなか、ひとつの青が灯る。

 舞台中央に置かれた古びたテーブル、その上でガラス瓶が淡く光る。

 音もなく舞台が息を吸い、最初の台詞が落ちた。


「退屈だな」


 男がいる。黒いコート、青のスカーフ。

 静かな街の夕方。窓の向こう、信号の青が揺らぐ。

 照明は“都会のガラスの青”。


「退屈は、怪物だ」


 壁から影が剥がれるように現れる“声”。

 俳優が纏う黒いマントの裏に、うっすらと青の刺繍。

 影は男の耳もとへ身を寄せ、人差し指で空をなぞる。


「世界は灰色、君は透明。君の胸の“空白”を、もっと大きく」


 客席の呼吸が揃っていくのがわかる。

 舞台が、客席の心臓を握りに来る――そんな感覚。

 シートに沈んだ身体の奥で、颯真の手が静かに握りしめられる。


 男はふと、テーブルのガラス瓶を手に取る。中には小さな青い羽根。


「もし、ほんとうの青があるなら」


「あるとも。遠くへ行けば、もっと濃いのが」

 

 男はガラス瓶の羽根を見つめ、夜の街へ出る。

 場面が変わるたび、青の質感が変奏する

 

 ――地下鉄ホームの冷たい蛍光の青。

 ――夜行列車の窓に流れる“眠気まじりの青”。

 ――雨上がりの舗道に滲む看板の“嘘っぽい青”。


「違う」


 男が立ち止まる。手の中の羽根は軽いまま、心は重い。


「どれも綺麗だ。でも、俺の中は埋まらない」


「なら、もっと遠くへ」


 影の囁きとともに、舞台の奥行が“どこでもない遠さ”に切り替わる。

 音楽が低く鳴き、暗転。


 次の光は、淡い湯気の白と、朝の“薄い青”。

 台所。祖母役が味噌汁をかき混ぜる。


「おかえり。……ご飯、冷めるよ」


 男は黙って椅子に座る。レンゲが器に当たる小さな音。

 影は柱の陰に潜み、こちらをじっと伺っている。


「どう? 遠くは」


「青かった。だけど、眩しすぎて、目が痛くなった」


 祖母役はうなずき、湯気をひと吹きする。


「眩しいだけが、宝物じゃないよ。冷めた味噌汁だって、朝ならおいしい」


 客席のどこかで小さな笑いがこぼれる。男はレンゲを置き、黙って両手を見つめる。


 その瞬間、舞台奥から子どもの声がする。

 学校へ走る足音。路地の向こうから自転車のベル。窓の外を風が渡る

 舞台の周りには、いつの間にか“日常”の音が満ちていた。


 影が焦れたように囁く。


「こんな薄い色で、君は満たされるの?」


 男は、少しだけ笑った。


「満たされるかもしれない。……いや、満たされてたのかも」


 照明が、青から白へ、ごくわずかに傾く。

 舞台監督のキューが静かに走り、次の場面への転換が始まる。 


 第二場。公園のベンチ。

 落ち葉の影がきざむ模様。

 男の隣に、青い鳥の面を持つ子役が座る。

 面は手の中、鳥は舞台上に存在しない

 ――童話の影だけが、ここに置かれている。 


「ねえ、それ、どこで拾ったの」


「家の、テーブルの上」


「家に、青い鳥がいるの?」


「知らない。……でも、朝は青い」


 照明の青はさらに薄く、しかし深くなる。

 “静脈の青”。

 颯真は呼吸をゆっくり整え、掌に汗をにじませる。


 第三場。夜の川辺。

 昔の“夜の世界”の面差しが濃くなる。

 水面の反射は“安っぽいネオンの青”。

 影が背後から抱きつく。


「退屈が怖いなら、もっと眩しく。もっと強く。もっと遠くへ。」


 男は振り返り、かつての自分と向き合う。

 二人の輪郭をうすく重ねる照明

 ――青と白の境界が、顔の半分ずつを分ける。


「退屈が怖いのは、空っぽになることじゃない。

 空っぽだと決めつける自分だった」


 影が一瞬だけ怯む。

 男はポケットから、古びた羽根を取り出す。

 手の中で、それは雲母のように淡く光る。


「この羽根、ずっと家にあった。気づけなかったのは、俺の目だ」


 第四場。

 暗転の間、微かな足音。

 舞台中央にテーブル、湯気、椅子――“家”。

 祖母役はいない。

 ただ、灯りと、湯気と、椅子の影。


 男が舞台中央で立ち止まり、ゆっくりと客席を見渡す。

 青は最小限、白との縁。沈黙。

 客席の誰もが息を止める。 


 玲央の声が、ゆっくり落ちる。


「退屈なんかじゃなかった。僕は――」


 呼吸が揃う。

 影が最後の力で背後から抱きすくめる。

 音楽が止む。

 完全な静寂。


「僕はずっと、宝物の中にいたんだ!」


 瞬間、青が深く燃える。白が縁を温める。

 羽根は光の粒へほどけ、見えない鳥がどこかで羽ばたく。

 二拍の後、拍手が雪崩のように立ち上がる。

 青は退き、舞台は朝の白へ。


 カーテンコール。俳優たちが並ぶ。

 玲央が一礼する前に、袖からベテラン俳優が小声で囁く。


「戻ってきたな、綾城。……ズルいほど、いい」


 若手は客席に深く頭を下げ、それから玲央へ視線を送る。

 目の奥の嫉妬は、もう憧れに飲み込まれていた。

 照明席では、寡黙なスタッフがフェーダーを撫で、青を一段だけ長く残す――“今の青”。


 視線が合った気がした。

 遠いのに、まっすぐ届く。

 颯真は両手が痛くなるほど拍手した。涙が熱い。

 だけど、今日だけは目尻の塩の重さが誇らしい。


 ◇ ◇ ◇


 ロビーは温かいざわめき。

 差し入れの箱、花束の匂い。

 ポストカードの販売台で「次も見たい」の声。

 受付の新人女優が、胸に小さな青のブローチをつけてお辞儀を繰り返す。

 演出助手が黙々と列をさばきながら、去っていく客の「青かった」の一言をひとつ残らず心にしまっていく。


 颯真は関係者受付で名を告げ、細い廊下を進む。壁の向こうで、若手の弾んだ声。


「……やばかったっす。あの第四場、鳥肌」


 ベテランがフフンと鼻を鳴らす。


「言ったろ。あいつは、台詞より“温度”で喋る」


 楽屋前。颯真は控えめにノックをする。

 わずかな間ののち、ドアが開く。


「――来てくれた」


 汗を拭いたばかりの髪。

 メイクは落ち、素顔の玲央。

 衣装のコートは肩から外され、白いシャツの襟元にだけ、青のスカーフが残っている。 


「最高でした」


 それしか言えなかった。語彙が熱で溶けてしまったみたいに。


「ありがと。……泣いてた?」

「泣いてないです」

「目、赤いよ」

「泣きました」


 二人で同時に笑う。

 笑いながら、胸の奥がぎゅっとなる。

 言わなきゃ、と思う。

 ここまで運んできた言葉を

 ――けれど、玲央が先に、そっと息を吸った。 


「このあと、少し時間もらえる?」

「……うん」

「車、出すよ。

 ……約束したしね。俺の、かっこ悪い話」


 言いながら、玲央は手の甲で前髪を押さえ、照れ隠しみたいに視線を外した。

 その仕草に、鼓動が一度だけ強く跳ねる。


「それと――」


 言葉が短く止まり、玲央は一歩、近づいた。

 手が伸びる。

 今度はためらいがなく、指先がそっと頭を撫でた。

 舞台の上で見た“静かな青”が、掌の温度になって落ちてくる。


「来てくれて、ありがとう」


 頷くことしかできない。涙腺がまた、危うくなる。


 廊下の奥でスタッフの声がかかり、舞台裏の扉が閉まる音がした。

 ふたりは軽く目を見交わし、楽屋を出る。

 夜の空気が近い。

 劇場の裏口を押し開けると、冷たい風が頬を撫でる。

 街の灯りが、遠くで静かに瞬いている。


「行こうか」

「うん」


 並んで歩き出す。

 背中には、さっきまでの拍手の残響。

 ポケットには、半分にちぎったチケットの半券。

 夜の入り口に、青い残り火が小さく揺れた。

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