【番外編Ⅰ 青い小悪魔】


 side 涼

 

 高瀬家の二階、北向きの部屋。

 机の上をノートと問題集が占拠し、扇風機はもう仕舞われ、代わりに湯気の出ない保温ポットが鎮座している。

 窓際には、去年の文化祭の写真がまだピンで留められたまま。笑っている自分と颯真。その横に、何故か玲央さんまで写っている。カメラを持っていた女子が「イケメン!」と叫んだ結果の乱入だったのを思い出して、苦笑いがこぼれた。


 季節がひとつ進めば、勉強部屋の空気も少しだけ固くなるんだな、とどうでもいいことを思った。


「涼ちゃん、これコピーしてきたから。英語、長文の追加」


 颯真が、きれいに裁断されたプリントを差し出す。字も線も直角も、こいつはほんとに几帳面だ。

 俺が感心していると、階下から「颯真ー、お茶替えるけど緑と麦どっちー?」と高瀬家母の声。颯真は「今行くー!」と返事をして立ち上がる。

 ほんの数秒で空気が変わる。ドアが閉まった瞬間、室温まで一段階下がった気がした。


 問題は、そこからだ。


 颯真が部屋を出る。ドアが閉まる。

 部屋に残ったのは、俺と、綾城玲央。銀髪の、例の人。黒いパーカーの袖を肘まで上げて、机に台本を広げ、頬杖ついたまま、やや大袈裟に——ため息をついた。


「……はぁぁぁ」


 壁のカレンダーが一枚薄くめくれた気がした。

 俺はシャーペンを止めて、観念して口を開く。


「はい、どうぞ。お悩み相談の時間です」


「助かる。君は話が早い」


 玲央さんは、くすっと笑ってから、眉尻を下げる。役の顔じゃない、素の顔。思ってたよりも人間味があるやつだ。


「恋人がね、小悪魔すぎてつらい」


「それ、惚気っすよね。タイトルからして」


「いや、ほんとに困ってる。可愛すぎて困ってる」


「……二回言いましたよ」


 俺のつっこみをさらりと受け流し、玲央さんは手の甲でコツコツ机を叩く。どうやら話したくて仕方がないらしい。

 まあ、聞こう。俺は親友であり、世の中の健やかなバランス調整役でもある。


「最近さ、付き合ってからの颯真、破壊力が上がってる」


「具体例、どうぞ」


「三つある。短いから」


「プレゼン始まった」


 玲央さんは、わざとらしく咳払いしてから、遠くを見る目になった。


 ◇


 side 玲央


 ——夜、ベッドに沈んで、スタンドの灯りだけつけていた。

 「おやすみ」とメッセージを打ち、既読がついて、しばらくしてからスマホを伏せる。——のが、俺のきれいな寝方。


 ……だったのに。


 ふと、手がスマホを探る。理由はない。いや、ある。彼の名前をもう一回だけ見たかった。それだけ。


 画面には、新しい通知。

 颯真:『好きです』


 たった四文字。句読点も顔文字もない。

 なのに、胸の奥のほうが、ゆっくり熱を持っていく。


(うわ、反則)


 返信?打てない。今返したら、たぶん眠れなくなる。

 代わりに、枕に顔を埋めて、声にならない笑いだけ落とした。


 ◇


 夕方の散歩。商店街を抜けて川沿いへ。

 指先が少し冷える季節で、からかうつもりで軽く手を伸ばした。


「寒いね、手、貸して」


 冗談半分で、触れるだけのつもりだった。

 ——なのに。


 彼は無言で、恋人繋ぎに組み替えてくる。迷いゼロの、すっとした動作。ついでに親指で、手の甲を、なぞる。


 心臓が、不自然に跳ねた。


「……ねえ、颯真。今のはずるい」


「何が、ですか?」


「なんでもない」


 風が頬に当たって冷たいはずなのに、顔が熱かった。俳優としての理性は、「今キスはダメ」と冷静に言った。よくやった、理性。


 ◇


 ドライブの帰り道。家の角が見えたところで、颯真が急に足を止めた。


「どうしたの?」


 そう訊くと、彼は耳まで赤くして、こっちを見ずに言った。


「……家の前ではしないですよ、キス、とか」


 理性は頑張った。即死。

 抱きしめる腕が、思いのほか強くなる。唇はぎりぎりのところで止めて、額だけ合わせて、息を混ぜる。——理性もぎりぎりのところで、軽く、触れるだけのキスをする。

 よくやった、理性。本当に。


「……助かった」


「何が、ですか」


「理性」


「壊れてくれてもいいのに、たまには」


「颯真……大人になったら覚えといてね」


 思わず、低い声がでる。

 互いの視線が絡まり、一瞬の沈黙。

 ややあって、どちらからともなく笑い合う。

 少しだけ離れたあと、角を曲がって帰路につく。

 家の灯りがやけに明るかった。


 ◇


 side 涼


「——というわけで、恋人が小悪魔すぎてつらい」


「惚気っすよね?」


「惚気だね」


 自覚あるなら最初からそう言ってくれ。

 でもまあ、わかる。今の三本立て、俺が聞いても胃が甘くなる。砂糖の袋でも倒れたのかってくらい。


「でさ、涼くんから見てどう?俺たち」


「総評? “お似合い”です」


 俺が素直に言うと、彼は少し驚いた顔をして、それから安心したみたいに笑った。

 その時——ドアが開く。戻ってきた颯真が、トレイに湯呑みを三つ乗せて入ってくる。


「はい、緑茶。麦茶はあとで冷蔵庫に——どうしたの、二人とも」


 俺は何も言ってないのに、玲央さんが前髪を払って、あっさり言った。


「好きだよ」


「な、何言ってんの!涼ちゃんの前で!」


 湯呑みの中の茶が、危うく波打つ。俺は慌ててトレイを支えた。

 ——そして確信する。こいつらはもう、心配いらない。


「勉強会、続けようか」


 颯真は耳まで赤くして咳払いし、机の上にプリントの束を置く。

 その横で玲央さんは、まるで何事もなかったように再び台本を開いた。視線の端が、甘い。

 その穏やかさに、ちょっとだけ羨ましさが混ざる。恋って、こんなに自然に空気を変えるものなんだな、とふと思った。


(やれやれ。糖度は高いが、視力は良好。二人とも前向き)


 俺は心の中でそう結論づけて、現実には赤のボールペンを手に取る。


「じゃあ、問二の和訳から——」


 読みあげようとした瞬間、机の下で、かすかな衣擦れの音がした。

 頬を赤くしている颯真の左手が、机の陰で、誰かの右手にそっと絡まれる。恋人繋ぎ。さっきの回想がそのまま出力されているのか?いや、これはリアルタイムの犯行だ。


「……おい、解答欄の幅に収めろよ」


「え、どこ」


「字だよ字。あと手」


「!?」


「いや、バレてるわ」


 俺の呆れ声に、二人は同時に咳払いをした。

 そのくせ、ページをめくる音は揃っている。呼吸も、笑いも、同じテンポで転がっていく。


 勉強会が終わる頃には、外の空はすっかり藍色だった。

 窓の外、街灯の光に雪虫がひとつ舞っていた。冬の前触れ。

 颯真が問題集を閉じながら「今日は、よく進んだね」と微笑む。

 玲央さんは「進んだのは勉強より恋だったりして?」と茶化し、また颯真が真っ赤になる。


 笑い声が重なって、夜が少しやわらかくなった。

 机の上のプリントの端が、窓からの風でぱらりと揺れた。

 俺は赤ペンで「Good」と小さく書く。たぶん答案には関係ないけれど、今の時間には、きっと必要な印だった。

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【BL】僕らの青 MA @Mar_rara

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