第11章 繋がる青


 11月の風は、少しだけ乾いていた。

 窓の外では、街路樹の葉が風に舞い、光を反射してはゆっくりと落ちていく。

 冬の始まりを告げるような冷たい朝。

 教室の中だけが、取り残されたようにぬるい空気をしていた。


 チョークの粉が、光の中で静かに舞っていた。

 ノートのページをめくるたびに、紙の擦れる音がやけに大きく響く。

 どれも“日常の音”なのに、どこか自分だけ別の世界にいるようだった。

 

 それでも、ページの隅には“青”の文字を探してしまう。

 ノートの端に、無意識のうちに書いてしまう。

 ――「青」という一文字。

 

 鉛筆の芯が紙をかすめた感触のあと、慌てて線を引き消した。

 心臓の鼓動が少しだけ速くなる。

 書いてはいけないと思った。

 でも、消した跡が余計にその文字を浮かび上がらせる。


 ふと目を閉じると、夜の映像が蘇る。

 部屋の明かりを落として見た、あのDVD。

 あの夜、画面の向こうの玲央は笑っていた。

 けれど、その笑顔の奥に、ほんの少し寂しさがあった。

 光の届かないところにいるような、そんな影。

 それでも、彼は笑っていた。

 “生きる”って、きっと、そういうことなんだとその時わかった気がした。

 

 台詞を言うたびに、光が頬をかすめていた。

 その画面の中の彼は、もう“遠い人”だった。


 ――けれど、あの声が頭から離れない。


「楽しい方を選べよ。それが、俺たちの青だろ」

 

 過去の彼が言った台詞が、耳の奥にこびりついている。

 あの言葉を、あの人自身が今も覚えているのだろうか。

 そう考えるたびに、胸が締めつけられた。


 ◇


 チャイムが鳴る。

 ざわめきが一気に教室へ広がる。

 涼が机を叩きながら笑って言った。


「おい颯真、授業中ずっと死んでたぞ。大丈夫か?」

「寝てただけ」

「いや、目は開いてた。けど中身がどっか行ってた」


 冗談めかして言うその声に、頬がゆるむ。

 いつも通りのやりとり。

 でもその笑いの裏で、心の奥に小さな空白が広がっているのを感じた。


 放課後、帰り道。

 街の空は早くも夕暮れの色に変わりつつあった。

 信号の青が歩道に滲み、風が制服の裾を揺らす。

 その青を見るたび、心のどこかがざわつく。


「……会いたいな」


 つぶやいた声は、風に紛れて消えた。

 返事なんて返ってこないのに、

 言葉にしてしまわないと胸の奥が苦しかった。


 ◇


 次の朝、校舎の空気がいつもと違っていた。

 昇降口をくぐった瞬間、聞き慣れないざわめきが波のように押し寄せる。


「なあ、誰か来てるらしいぞ!」

「外、校門のとこ!」


 生徒たちの声が廊下に響く。

 ざわざわとした空気の中を抜けながら、颯真は眉をひそめた。

 また近所のテレビ取材か何かだろうか。

 それとも、卒業生か――そんな他人事のような想像をしていた。


 だが、階段を上がったところで、息を切らせた涼が目の前に飛び込んできた。


「颯真! 外、見てみろって!」


 その声が、なぜか胸の奥をざらりと撫でた。

 言われるまま、教室の窓際に歩み寄る。

 朝の光がガラスに反射し、視界が一瞬白く滲む。


 ――その向こう。


 通りの手前に、黒いロングコートの男が立っていた。

 冬の風に髪が揺れる。

 銀色が朝の光を受けて、やわらかく輝いた。


 息が止まる。


 その輪郭を見ただけで、誰なのかわかった。

 頬が熱くなる。視線が動かない。

 まるで、テレビ画面の中の人間が現実に現れたみたいだった。


 ざわめきが広がる。

 「芸能人?」「なんかの撮影?」

 周りの声が遠くなる。

 音が全部、風の中に溶けていった。


 玲央が――こちらを見た。

 ほんの一瞬。

 でもその一瞬のために、世界が静止した気がした。


 目が合った瞬間、玲央の口元が少しだけ動いた。

 照れくさそうに、笑った。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥の何かが弾ける。

 頭より先に、身体が動いていた。


「颯真!? おい、どこ行くんだよ!」

 

 涼の声が背中から追いかけてくる。

 でも、もう聞こえなかった。


 階段を駆け降り、昇降口のドアを押し開ける。

 冷たい風が顔を打ち、冬の匂いが肺に流れ込む。

 息が苦しい。けれど、足は止まらない。


 校門の向こう。

 あの人が、立っている。


 ◇


 校門を抜けた瞬間、世界の音が遠のいた。

 風の音も、車のエンジンも、全部どこかに吸い込まれていく。

 残ったのは、自分の呼吸と鼓動だけだった。


 玲央は、そこにいた。

 黒いコートの裾が風に揺れ、朝の光の中で銀の髪が柔らかく光っている。

 数歩先に立つその姿は、現実というより――夢が形になったみたいだった。


「……玲央、さん……?」


 声が掠れた。

 息を吸うたび、胸の奥がきつく締めつけられる。

 何度も頭の中で呼んだ名前なのに、口から出たのは、やっとの一言だった。


 玲央は、ゆっくりとこちらを向いた。

 その動作だけで、時間がゆっくりと流れる。

 光の粒が髪に絡まり、瞳の奥に淡い影が宿る。

 ほんの一瞬、驚いたように目を見開いたあと――

 彼は、少しだけ笑った。


「……やあ」


 その声を聞いた瞬間、喉の奥が熱くなった。

 懐かしい響き。優しいけれど、どこか照れを含んだ音。

 ずっと、もう一度聞きたかった声。


「……どうして、ここに」


 問いかけは震えていた。

 玲央は答えず、コートのポケットから何かを取り出した。

 それは一枚のチケットだった。

 銀色に光る文字が、朝の光を反射する。


 『僕らの青』


 印刷されたそのタイトルを見た瞬間、胸の奥で何かが爆ぜたように熱くなる。


 玲央は少しだけ照れくさそうに笑った。

 目を細め、息を吐くように言う。


「颯真の顔が思い浮かんだから、来ちゃった」


 その言葉が届くまで、数秒の静寂があった。

 頭の中で何度も“夢じゃない”と確認する。

 冷たい風が頬を撫でた。

 その温度で、ようやく現実を掴んだ。 


 出会った日のことが、脳裏に鮮やかに蘇る。

 夏の日、同じ場所で、同じ言葉を口にした彼。

 香水の匂い。風鈴の音。あの眩しい笑顔。


 目の前の玲央は、あの頃と同じ笑みを浮かべていた。

 けれど、今の彼はあの時よりもずっと穏やかで、

 まっすぐにこちらを見ていた。


「……チケット?」


 受け取る手がわずかに震える。

 紙の端が指に触れた瞬間、心臓が跳ねた。


 玲央はゆっくり頷いた。

 

「俺の、かっこ悪い話。聞いてくれる?」


 颯真は一瞬だけ息を止め、それから小さく笑った。

 涙が、風に滲んだ。


「……ずるいな、それ」


 玲央の目がわずかに揺れた。

 次の瞬間、ふたりの間を秋の風が抜けていった。

 木の葉が舞い上がり、朝の光がその中で跳ねる。


 手の中のチケットが、ひらりと揺れた。

 そこには確かに刻まれていた。


 ――『僕らの青』。


 その文字が、ふたりを再び繋ぎとめていた。

 

 ◇


 玲央の姿が角を曲がって見えなくなるまで、颯真はその場に立ち尽くしていた。

 冷たい風が頬を撫で、指先のチケットが小さく震える。

 さっきまで確かにそこにいた人の温度が、風の中にまだ残っていた。


 胸の奥が、静かに熱い。

 涙が出るわけでもない。ただ、息を吸うたびに胸が痛む。

 けれど、その痛みは嫌じゃなかった。


 ――“生きている”って、こういうことなんだろうか。


 ふと、チケットに視線を落とす。

 白地に浮かぶ銀色の文字。

 『僕らの青』。


 指でなぞると、紙のざらつきが伝わる。

 印刷のインクの匂い。玲央が手にしていたその瞬間のぬくもりが、まだ残っている気がした。


「俺の、かっこ悪い話――か」


 小さく呟くと、風に声がさらわれた。

 かっこ悪い、なんて言葉が似合わない人だった。

 でも今の玲央は、たしかに“生きていた”。


 かつての自分が見た“遠い人”ではなく、

 いま、目の前に立ってくれた一人の人間として。


 手の中のチケットを、もう一度見つめる。

 その端に、ペンで走り書きのような文字があった。

 「Sへ」――そう見えた気がした。


 指先が、少しだけ震える。

 幻かもしれない。でも、それでいい。

 玲央らしい、不器用なメッセージだった。


 頬をなでる風が少しだけ柔らかくなった気がした。

 見上げた空は、冬の入り口の淡い色。

 青と白のあいだに、金色がひとすじ混じっていた。


「……ちゃんと、見に行こう」


 そう言って、制服のポケットにチケットをしまう。

 胸の奥に温かいものが広がっていく。

 この手の中にある“青”が、確かに玲央と繋がっている気がした。


 登校してくる生徒たちのざわめきが、ぼんやりと届く。

 日常が、少しずつ戻ってくる。

 でも、それはもう昨日までと同じ“退屈な日常”ではなかった。


 風が吹く。

 空に、ひとひらの枯れ葉が舞い上がる。

 その向こうに、冬の光がやわらかく滲んでいた。


 ポケットの中のチケットが、胸の鼓動に合わせて小さく揺れる。

 そのたびに、“まだ終わっていない”と告げられている気がした。

 見上げた空には、淡い青がかすかに残っている。

 玲央の青と、自分の青。

 ふたつの光が、ゆっくりと一つに溶けていくようだった。 


 ――もう一度、青を見に行こう。

 玲央の“青”の続きに、自分の色を重ねるために。


 そう心の中で呟いたとき、世界が少しだけ明るく見えた。

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