第10章 託された青


 窓の外が、ゆっくりと白み始めていた。

 古い木枠の隙間から差し込む光は、青と白のあいだに揺れている。

 テーブルの上では、DVDプレイヤーのランプがかすかに瞬いていた。


 映像の中では、若い自分が笑っている。

 観客の笑い声が遠くで響く。

 あのときは、拍手が世界のすべてだった。

 けれど、今は違う。

 

 ――誰かに届く声でいたい。

 

 再生ボタンを押したまま、そんなことを考えていた。 

 映像の中の自分は、照明の熱を浴びながら、無邪気に台詞を吐き出している。


『――楽しい方を選べよ。それが、俺たちの“青”だろ』


 画面越しに響く声は、少し幼く、それでもまっすぐだった。

 玲央は息を吐き、頬杖をついたまま小さく笑う。

 

「……なんであの頃は、あんなに楽しかったんだろうな」


 指先でリモコンを弄びながら、彼はゆっくりと言葉を続けた。

 

「退屈を恐れて、自分で退屈を作ってた。……バカだな、俺」

 

 苦笑とともに呟いた声は、静かな部屋の空気に溶けた。


 画面が暗転する。

 終演のアナウンスとともに、青い照明が舞台を満たす。

 その光が画面越しに広がり、玲央の顔を柔らかく照らした。


 彼はしばらくのあいだ黙って見つめていたが、

 やがてポケットからスマートフォンを取り出し、躊躇いなく指を滑らせた。


 コール音。

 その短い間に、窓の外の空がわずかに明るくなる。


「もしもし」


 電話の向こうで、聞き慣れた声が応えた。


「……朝っぱらからどうした」


「答え、出たから伝えようと思って」

 

「何だ」

「惚けないでよ、主演の話。」

「ああ、悪い。……まだ頭が寝起きだ」


 玲央は少しだけ笑った。

 

「……DVD、見た」

「で?」

「やるよ。俺でいいなら」


 短い沈黙。

 そのあとで、悠真の低い声が届いた。


「“いいなら”じゃねぇ。“お前がやるんだよ”」


 その言葉に、胸の奥で何かが鳴った。

 熱でもなく、焦燥でもなく――確かな鼓動。


「……了解。今日から動く」


 電話の向こうで、悠真が笑う気配がした。

 

「久しぶりに“お前の声”が戻ったな」


 通話が切れた。

 玲央はスマホを伏せ、立ち上がってカーテンを開ける。

 白い朝の光が、部屋いっぱいに流れ込んできた。


「……ほんと、退屈してられなくなったな」


 その呟きには、もう迷いの影はなかった。

 青の残る夜が、ようやく終わろうとしていた。


 ◇ ◇ ◇


 午前の稽古場は、少し埃っぽい匂いがした。

 レンガ造りの壁には、過去の公演ポスターが色褪せて貼られている。

 古びた舞台機材、ひび割れた床。

 ――それでも、ここが自分の始まりだった。


 ドアを開けると、すぐに悠真の声が響いた。

 

「おはよう、玲央。遅刻なしとは意外だな」

「初日くらいはね。印象って大事でしょ」

 

 玲央は肩をすくめて笑う。

 周囲から、微妙な笑い声が返ってきた。


 舞台中央には、数人の劇団員たちが立っている。

 見慣れた顔もあれば、初めて見る若い顔もあった。

 その空気は、懐かしさと緊張の入り混じった匂いがした。


 悠真が手を叩く。

 

「じゃあ――改めて紹介する。

 こいつが、今回の主演。綾城玲央だ。

 昔からの仲間もいるが、“伝説の逃亡役者”って呼んだ方が早いかもな」


「待って、余計なキャッチコピーつけんなよ」

 

 玲央の返しに、場が少しだけ和らぐ。

 軽口の中にも、どこか「帰ってきた」実感があった。


 見回すと、様々な視線が交差している。

 冷静に値踏みする年上の俳優。

 緊張して台本を抱える若手。

 照明席からこちらを覗く女性スタッフ――どこかで見覚えがある。


 悠真が笑って言う。

 

「お前、人気あるな。初日から全員の視線、独り占めじゃん」

「居心地悪いだけだよ。……まあ、久しぶりに悪くはないけど」


 照明が試験的に灯る。

 天井から、青い光が落ちた。

 舞台に立つ足元が一瞬だけ照らされる。

 その色に、玲央は無意識に息を呑む。


 ――あの頃と、同じ“青”だ。


 悠真の声が飛ぶ。

 

「じゃあ早速、リハ入るぞ。昔の勘、取り戻せ」

「了解」


 軽い台詞合わせのはずが、身体は固く、言葉が滑らかに出てこない。

 舞台の中心で、玲央は思わず頭を掻いた。

 

「……体は覚えてても、心が追いつかないな」


 稽古場に、静かな笑いが生まれる。

 その空気の中で、玲央の肩が少しだけほぐれた。


「綾城さん、セリフってどうやって覚えてるんですか?」


 若手女優が、真剣な顔で問う。

 

「うーん、覚えようとしないかな。……感情が勝手に覚えてくれる」

「感情が、ですか?」

「そう。芝居って“頭”より“心”の方が記憶力いいんだよ」

 

 彼女は素直に頷く。

 ――昔の自分にも、こんな顔で教えてくれる人がいたら。

 そんなことを思いながら、玲央は笑った。 


 夕方、リハーサルが終わる頃。

 窓の向こうに夕陽が差し込み、舞台の床に橙と青が混ざる。

 玲央は誰もいない客席に立ち、ぽつりと呟いた。


 「……颯真にも、見せられる日が来るのかな」


 その声は、静かな稽古場の奥でゆっくりと消えていった。


 ◇


 舞台の空気は、日に日に熱を帯びていった。

 リハーサルのたびに、汗と照明の熱と埃の匂いが混ざる。

 その中で悠真の声が飛ぶ。


「笑えって言ってるんじゃない、“生きろ”だ!」


 玲央は立ち位置を間違えたまま固まり、苦笑する。

 

「はいはい、わかってる」

「わかってねぇから言ってんだよ!」

 

 稽古場に、乾いた笑いが起こる。


 昔と変わらない。

 悠真の指導はいつだって容赦がない。

 けれどその厳しさの中に、どこか懐かしい温度があった。


 台詞を繰り返しながら、玲央は気づく。

 “言葉”ではなく、“生き様”を取り戻そうとしている自分に。


 舞台袖で、年上の俳優が小声で言った。

 

「やっぱ、綾城は天才だな。……腹立つくらいに」

 

 玲央は笑って肩をすくめる。

 

「天才なら、こんなに噛んでないよ」


 その隣で、若手俳優がじっと彼を見ていた。

 あの目には、羨望と焦りが入り混じっている。

 ――その感情を、かつて自分も抱いたことがあった。


「……でもさ、綾城さんの芝居って、なんかズルいっすよ」

 

 若手がぽつりと漏らした。

 

「上手いとかそういうんじゃなくて、見てると自分まで楽しくなる」

 

 玲央は少し目を瞬かせる。

 

「ズルいって、褒め言葉になってる?」

「なってますよ、多分」

 

 その会話に、年上の俳優が笑いながら加わった。

 

「お前、素直に“憧れてる”って言えよ」

 

 稽古場に、わずかな笑いが広がった。

 その空気が、玲央には少しだけ懐かしかった。

  

 稽古が終わるころ、照明リハが始まった。

 客席が暗くなり、青い光がゆっくりと舞台を満たしていく。

 玲央の足元が、その光に包まれた。


 まるで、あの頃に戻ったみたいだった。

 でも、胸の中の熱はあの頃よりも静かで、確かなものだった。


「この青……まだ、俺の中にあったんだな」


 照明ブースから、スタッフの声が響く。

 

「光、強すぎますか?」

 

 玲央は首を振った。

 

「いや、そのままでいい。……これが“今”の青だ」


 リハが終わったあと、ノートを開く。

 メモの片隅に、ペン先で小さく書いた。


 > “颯真へ――”


 理由なんてなかった。

 ただ、今のこの気持ちを誰かに残しておきたかった。


 その夜、帰り際にふと舞台を振り返る。

 ライトは落ち、舞台は闇に沈んでいた。

 けれど、あの青は――心の中でまだ灯っていた。


 ◇


 稽古場の灯りがすべて落ちたあと、屋上には夜風だけが残っていた。

 コンクリートの匂いと、遠くを走る電車の音。

 街の明かりがぼんやりと滲み、雲の底がかすかに青を帯びている。


 自販機の前で、玲央は缶コーヒーを二本買った。

 一つを悠真に放ると、軽い金属音が夜の静けさに響く。

 二人は手すりにもたれ、無言のまま空を見上げた。


「……懐かしいな」

 

 悠真が口を開いた。

 

「ここ、昔よくサボってたろ」

「照明合わせサボって、逃げてきたのもここだったな」

「お前、逃げるのだけは速かった」

「そっちは追いかけるの速すぎた」


 短い笑いが、風の音に混ざる。

 沈黙は心地よく、遠い過去の匂いがどこかで漂っていた。


「お前、戻ってこなかった間、何してたんだ?」

「……見せかけの光に酔ってた。

 本当の光を忘れて、嘘のステージで笑ってた」

「で、思い出したのか」

「うん。颯真が教えてくれた。

 “楽しい方を選べ”って」 


 やがて、悠真がコーヒーの缶を傾けたまま言った。

 

「お前、変わったな」

 

 玲央は少し眉を上げる。

 

「歳とっただけだよ」

「違ぇよ。……今のお前、ちゃんと怖がってる」

「怖がってる?」

「昔のお前は、怖くなる前に逃げてた。今は、ちゃんと立ち止まってる」


 玲央は息を吐き、笑うように肩を落とした。

 

「……まあ、逃げ癖はまだ治ってねぇけどな」

「治んなくていい。逃げたって、戻ってきたろ」


 夜風が少し強くなった。

 屋上の手すりが鳴り、どこかで旗の音がした。


「この公演、ただのリメイクじゃない」

 

 悠真は空を見たまま言った。

 

「昔の俺たちが見てた“青”を、今の奴らにも見せたい」

 

 玲央は隣で黙って聞いていた。

 

「……それが“託す”ってことか」

「そうだ。お前はその証だよ。お前が戻ってきた時点で、もう始まってた」


 玲央は少し笑って、悠真の横顔を見た。

 

「ずいぶん綺麗なこと言うようになったじゃん。

 昔の悠真なら、“俺が主役”って言ってただろ」

 

「歳取ったんだよ。主役は、託した奴でいい」


 言葉の間に、遠くで車のヘッドライトが流れた。

 白から青へと変わる一瞬の光が、二人の顔を照らす。


 玲央は缶を握り直し、ぽつりと呟く。

 

「……“青”ってさ。昔は眩しすぎて直視できなかった。

 でも今は、少しくすんでる方が落ち着く」

 

 悠真は微笑んで、缶を掲げる。

 

「それでいい。青は、誰かに繋げば濃くなる」


 しばらく、言葉のない時間が流れた。

 街の光が遠くで瞬き、風が髪を揺らす。

 静けさの中で、玲央の胸の奥がゆっくりと熱を帯びていった。


「玲央」

 

 悠真が静かに呼ぶ。

 

「お前の“青”、ちゃんと見せろよ」


 玲央は頷き、夜空を見上げた。

 

「……あの子にも、届くようにね」


 風が吹き抜ける。

 どこかで、照明を落とす音が響いた。

 屋上の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。


 残ったのは、街の遠い青だけだった。

 その光が、彼らの沈黙をやわらかく照らしていた。


 ◇ ◇ ◇


 夜の稽古場は、しんと静まり返っていた。

 昼間の熱気が嘘のように消え、舞台の上には青い光だけが落ちている。

 客席は暗く、まるで海の底みたいだった。

 遠くで照明機材が唸る音が微かに響く。


 舞台の中央に立つと、木の床が小さく鳴った。

 この匂い、この温度。

 何度も逃げて、けれど結局、戻ってきた場所。


 照明席の方から悠真の声が飛ぶ。

 

「どうだ、舞台の“匂い”は戻ってきたか?」

 

 玲央は少し笑って、ステージの真ん中に視線を落とした。

 

「……懐かしい。でも、懐かしいだけじゃない」

「いい答えだ。あとは“客席”に見せるだけだな」

「……うん。明後日、全部出し切るよ」


 悠真は満足げに頷くと、照明卓のスイッチを切った。

 青い光が一瞬だけ明滅して、再び静寂が戻る。

 

「お先に帰る。……寝不足で噛むなよ」

「了解。監督こそ、ちゃんと寝ろ」

「命令形かよ」

 

 軽口を交わしたあと、ドアの閉まる音が響く。


 残されたのは、青い照明の余熱と、自分の息の音だけだった。

 玲央は舞台中央に立ち尽くす。

 天井の照明が淡く光り、埃が光の粒になって舞っている。


 観客席の暗がりを見つめた。

 そこに――一瞬だけ、誰かの姿が見えた気がした。

 制服の少年。静かにこちらを見つめている。

 幻のように、輪郭がぼやけていく。


 「……見えてる気がするな、颯真」

 

 玲央は小さく笑った。

 

「君に見せたかったのは、きっとこういう“青”なんだ」


 歩き出す。

 照明の光が少し強くなり、影が足元で広がっていく。

 その中で、胸の奥が静かに熱を帯びた。


「俺はもう逃げない。

 この舞台で、ちゃんと生きる」


 その声は、空気の奥で微かに反響した。

 青い光が、ゆっくりと彼の頬を撫でていく。


 舞台全体が再び明るくなった。

 青は、かつての鮮烈な色ではなく、少し白を含んだ柔らかな光。

 若さの青ではなく、静かに燃える成熟の青だった。


 玲央は照明の中で立ち尽くし、ぽつりと呟く。

 

「昔の俺の“青”は、眩しくて脆かった。

 でも今は、静かに灯る方がいい。

 誰かの心に届けば、それで十分だ」


 そのとき、照明席の方から悠真の声が響いた。

 

「玲央、そろそろ帰れ。明日はゲネだぞ」

「うるさいな、今いいとこだったのに」

「お前、昔もそう言ってた」

 

 二人の笑い声が舞台に溶けていく。


 照明が一度、ふっと落ちる。

 舞台の上に残るのは、彼の吐く息の白さだけ。

 玲央は最後にもう一度、客席を見つめた。


「颯真……見に来てくれるかな」


 その言葉と同時に、照明が再び灯る。

 青い光が舞台を満たし、彼の影が真っ直ぐに伸びた。


 光は静かに沈む。

 その中で、玲央は胸の前で小さく手を握った。

 願うように、誓うように。

 ――どうか、この光が、誰かの夜を照らしますように。 


 静かに、幕が上がる前の音が鳴る。

 舞台の青が、夜の闇と溶け合っていった。

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