第9章 過ぎ去った青


 風の匂いが、どこか懐かしかった。

 気づけば、あの通りを歩いていた。

 劇団サンライズの裏手。レンガの壁。

 何年も前、舞台稽古の帰りに悠真とよく通った道だ。


 目的なんてなかった。ただ、身体が勝手に動いた。

 “昔の自分”に少しでも触れたくなったのかもしれない。

 無意識に香水をつけてきたことに気づいて、苦笑した。


 ――なんで今さら。


 秋の風が吹いて、髪が頬にかかる。

 その瞬間、誰かに呼ばれた気がした。

 

「玲央さん!」


 振り返ると、道路の向こうにひとりの少年がいた。

 心臓が跳ねる。

 ……颯真。


 息を切らして立っていた。

 額の汗が、夕陽を反射してきらめいている。

 あの目。真っすぐな光。

 ――また、その目で見られてる。


 思考より先に、微笑んでいた。

 

「……颯真?」


 その声を出した途端、胸の奥が痛んだ。

 会いたかった。本当はずっと。

 でも、同時に怖かった。

 また、自分が誰かを壊してしまう気がして。


「どうして……避けるんですか!」


 その叫びが、風を裂いて届く。

 まるで心臓に直接刺さるみたいに。


 避けたわけじゃない――そう言おうとしたけれど、喉が詰まって、言葉にならなかった。

 笑ってごまかすしかなかった。


 「そんなつもりじゃないよ」


 でも、その笑みが薄っぺらいことくらい、

 自分でもわかっていた。


 颯真の瞳が震えていた。

 怒りでも、悲しみでもない。

 それは“まっすぐな想い”の色だった。


「嘘だ。あの日から……全然会いに来てくれないじゃん」


 やめてくれ――そう思った。

 そんな言葉を向けられるほど、俺は立派じゃない。

 逃げてばかりだ。今も、こうして。


「……会いたかったよ」


 その言葉だけは、どうしても飲み込めなかった。

 本音だった。

 けれど、その先を言えば壊れてしまう気がした。


 だから笑った。

 ――壊れかけた笑い方で。


「颯真は、強いんだね」


 そう言って背を向ける。

 振り返る勇気がなかった。

 彼の涙を見たら、自分が動けなくなると思ったから。


 信号が変わる。

 人の波が押し寄せる。

 それに紛れるように歩き出した。

 振り返らずに歩いた背中の向こうで、足音が止まった気がした。

 香水の残り香だけを風に残して。


 ……ごめんな。


 その言葉は、声にならず喉の奥で消えた。


 ◇ ◇ ◇


 ホテルの部屋に戻ったのは、夜の九時を過ぎていた。

 窓の外は雨上がりの街。

 濡れたアスファルトに、信号の青が滲んでいる。


 靴を脱いで、ベッドに倒れ込む。

 肩が重い。息が詰まる。

 目を閉じると、さっきの光景がまた浮かぶ。


 ――どうして逃げるんですか!


 その言葉が、何度も頭の中でリフレインする。

 枕を抱きしめて、ため息をついた。

 

「逃げたくなんか、なかったよ」


 小さく呟いた声は、あまりにも弱々しかった。


 テーブルの上には、飲みかけのワインと紙コップ。

 香水の小瓶が転がっている。

 手を伸ばして、キャップを開けた。

 甘くスパイシーな香りが、部屋いっぱいに広がる。


 あの日、初めて颯真に会ったときの匂い。

 その記憶が、香りと一緒に蘇る。


「……やめろって」


 そう言いながらも、キャップを閉められなかった。


 テレビをつけても、音が何も入ってこない。

 ニュースキャスターの口が動いているだけ。

 何も感じない。

 何も響かない。


 “退屈”という言葉が、頭の中に落ちた。

 あの夜も、同じことを感じていた。

 どんな光の中にいても、結局、ひとりきり。


 ベッドの上で、腕を伸ばす。

 空気を掴もうとしても、何も触れられない。


 まぶたの裏に、あの少年の顔が浮かぶ。

 必死で叫んでいた。

 あの目だけは、まっすぐに生きていた。


 ――いいな。


 ぽつりと漏れた言葉に、自分でも驚いた。


 どこで間違ったんだろう。

 どの瞬間に、自分の“青”は消えてしまったんだろう。


 答えは出ないまま、部屋の明かりを落とす。

 窓の外の青が、静かに滲んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 舞台袖の匂いが、好きだった。

 埃っぽくて、照明機材の熱と汗の匂いが混ざっている。

 それなのに、不思議と落ち着く。

 暗闇の中で、光の気配だけが息をしている場所。


 ――あの頃の俺は、たぶん、生きていた。


 ライトの位置を調整して、舞台中央を見つめる。

 立っているのは悠真。

 真剣な眼差しで脚本を読み上げるその姿を、照明越しに見つめていた。


「玲央、照らし方もうちょっと柔らかくできる?」

「これくらい?」

「うん、それだ。その光が“青”なんだ」


 悠真はそう言って笑った。

 “青”。

 あの言葉を、あの瞬間からずっと追いかけている気がする。


 初めて舞台に立ったのは、その年の冬だった。

 観客なんて数えるほどしかいない。

 けれど、幕が上がる瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。

 “生きてる”って、はっきりわかった。


 台詞を言うたびに、照明の光が肌を撫でる。

 視界の奥で、観客の誰かが涙を拭った。

 ――その光景が、忘れられなかった。


 終演後、舞台袖で悠真が笑っていた。

 

「最高だったな」

「……ほんとに?」

「お前、やっと本気で笑ってたよ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。

 何かを成し遂げたとか、認められたとかじゃない。

 ただ、自分が“ここにいていい”と思えた。


 あの青い照明の中で、自分は確かに光っていた。

 でも――それがいつからだろう。

 光の中に立っても、何も感じなくなったのは。


 ただ漠然と、その感覚を失ったら自分の居場所を失う気がした。

 その恐怖を、“退屈”と呼んで――背を向けた。


 東京に出た頃、舞台の代わりに選んだのは“夜の世界”だった。

 シャンデリアの光。笑顔。酒の匂い。

 どれも似ていた。けれど、根っこが違った。


 照明の熱ではなく、金の匂いがする光。

 その中で笑っても、心の奥はどんどん冷えていった。

 あの“青”は、どこにもなかった。


 ◇


「楽しかったのになぁ」


 ベッドの上で、ぽつりと呟く。

 誰に言うでもなく、独り言のように。

 天井の灯りが目に沁みた。


 ――もし、あの青をもう一度取り戻せたら。


 そんなことを思ったのは、いつ以来だろう。

 でも、それは叶わない夢のはずだった。

 もう、舞台の上に戻る理由なんてない。


 ……そう思っていた。


 なのに、胸の奥がざわついていた。

 さっきの颯真の声が、まだ耳に残っている。

 “僕はこの中で何度だって玲央さんを追い続けてやる”


 彼の青は、まだ終わっていない。

 俺の中で止まっていた時間が、

 ゆっくりと動き出そうとしている。


「ほんと、しつこいな……俺の青は」


 薄暗い部屋の中で、

 かすかに笑いながら天井を見上げた。


 ◇ ◇ ◇


 夜が深まると、街の灯りが一層滲んで見えた。

 窓の外には、ビルの影と点々とした赤い信号。

 静かな部屋の中で、時計の針だけが規則正しく動いている。


 さっきまで夢を見ていた気がする。

 舞台の上で、青い照明に包まれて笑っていた。

 隣には悠真がいて、客席には見知らぬ人の光る瞳。

 まるであの頃の冬の舞台が、もう一度蘇ったようだった。


 ――夢の中の俺は、まだ笑えてた。


 目を開けると、部屋の中はやけに冷たかった。

 外の風が窓の隙間を抜けて、カーテンを揺らす。

 ワインの小瓶は空になり、香水の匂いだけが微かに残っていた。


「……楽しかったのになぁ」


 再びぽつりと呟くと、喉の奥がじんと熱くなった。

 その言葉が、誰かに届くはずもない。

 ただ、静かな部屋の空気を震わせただけだった。


 あの“青い照明”の下で感じた、生きている感覚。

 誰かと笑い合って、同じ夢を見て、心が焦げるほど熱かった時間。


 全部、過ぎ去ったものだと思っていた。

 けれど、いまもこうして胸の奥で疼いている。

 過去は、完全には終わらないらしい。


 天井を見上げると、明かりの隙間から淡い光が覗いていた。

 夜明けが近い。

 空の向こうが、ほんの少しだけ白く滲んでいる。


 ――まだ、青が残ってる。


 呟いた自分の声が、やけに小さく響いた。

 その青は、かつての照明のように鮮烈ではない。

 でも、確かにここにある。

 静かに灯り続ける、消えかけの残光みたいな青。


 玲央はゆっくりと目を閉じた。

 外の風の音が、波のように聞こえる。

 もう一度、あの舞台の上に立ったとしたらどうだろうか――

 そんな問いが、心の底に沈んでいった。


 それでも、完全に絶望してはいなかった。

 理由なんてわからない。

 ただ、胸の奥がわずかに熱を帯びていた。


「……ほんと、退屈な夜だな」


 そう呟きながら、口元に笑みが浮かぶ。

 退屈の中に、ほんの少しの希望が滲んでいる。

 それに気づいたのは、自分でも驚きだった。


 外が白み始める。

 夜の青が、朝の白へとゆっくり溶けていく。

 ――その境目が、美しかった。


 玲央はベッドから体を起こし、カーテンを少しだけ開けた。


 静かな風が頬を撫でる。

 夜の終わりと、何かの始まりの匂いがした。

  

 ◇ ◇ ◇


 夜明けの手前、空の底に薄い青が残っている。

 田の向こうから風が渡ってきて、古い木造の家の柱がかすかに鳴った。

 台所には、鍋に残った味噌汁の匂い。湯気はもう上がっていない。


 佳代はもう寝ていた。

 居間の時計が、間延びした間隔で時を刻む。

 テーブルの上には灰皿と、飲みかけのコーヒー。表面には薄い皮膜。


 玲央は、テレビの前に座っていた。

 膝の上で、DVDケースが冷たい音を立てる。

 『僕らの青』。タイトルの文字が、窓から差す微かな光を拾って、薄く反射した。


 ケースを開ける。

 ディスクの銀色に、夜明け前の空が映っている。

 指先に、汗が滲んだ。


 ――再生すれば、何かが終わる気がする。


 リモコンを握り直す。親指が“▶︎”の手前で止まる。

 喉が乾く。冷めたコーヒーをひと口含んで、渋い顔のまま飲み込んだ。


「……情けないな」


 独り言は、畳の目で吸われていく。

 見ればいい。ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しい。


 外で風が強くなり、庭木が擦れ合う音がした。

 障子の紙に、葉の影がやわらかく揺れている。

 青と白のあいだで、影の輪郭が少しずつ変わっていく。


「……まだ、青いな」


 窓の外――夜の青が、うっすらと残っている。

 その青が、胸の奥のどこかと呼応した。

 過去は過ぎ去ったものじゃない。色を変えながら、まだここにいる。


 親指が、ようやく“▶︎”に触れた。

 けれど、押し込む力が足りない。

 呼吸を整える。胸の内側で、古い扉を開けるみたいに。


 押せないまま、時間だけが進む。

 時計の音が一段だけ高く聞こえた気がした。


 やがて、東の空が白み始める。

 藍が薄まり、乳白色が滲んで、境目があやふやになっていく。


「……俺の中にも、まだ……残ってるのかな」


 誰にも聞かれない問いかけを、空に向ける。

 答えは風の音に混じっていった。


 玲央はリモコンをそっと置いた。

 今はまだだ、と体のどこかが言っていた。

 けれど、数日前よりもずっと、再生に近い位置に自分がいる――その実感だけは、明確だった。


 冷たいカップを持ち上げる。

 味噌汁の鍋に手を伸ばして火を点けると、弱い炎がぱっと灯り、赤が青白い居間に小さな色を差した。

 湯気が立ち上る。

 夜が、完璧に終わりに向かっていった。


 ◇ ◇ ◇


 朝。カーテン越しの光が畳の上で四角く明るむ。

 鳥の声が近い。遠くではトラックのエンジン音。

 玄関のチャイムが二度鳴り、柱が共鳴した。


 扉を開けると、悠真が立っていた。

 黒のパーカーに、紙袋をひとつ。目の下に少しだけ寝不足の影。


「久しぶり。……起きてるか?」


 玲央は軽く頷き、靴を脱ぐのを待たずに「上がれば」と言った。

 二人で居間に入る。湯気の消えかけた味噌汁の匂いがまだ残っている。


 言葉は少なかった。

 悠真は柱に寄りかかり、しばらく障子の向こうの光を見ていた。

 玲央はテーブルの端に置いたDVDケースを、視界の端で捉えたまま座る。


「……颯真が、泣いていたんだ」


 悠真が口を開いた。

 声は低く、たしかに届くように選ばれていた。


「DVD、何枚も。夜通し見てたらしい。

 『僕らの青』の前で肩が震えててさ。

 我慢ならずに部屋ん中入って、途中で止めようとしたら、首振って……最後まで見ていた」


 居間の空気が、少しだけ温度を変えた。

 玲央は目を伏せる。

 どこかで見た青が、胸の奥でさざめく。


 悠真は畳に紙袋を置き、まっすぐにこちらを見る。


「――リメイク公演をやる。見せたい奴がいるんだ」


 言い回しに迷いはなかった。

 玲央は、言葉を噛み直すみたいに、ゆっくり問い返す。


「……誰に?」


 悠真は、薄く笑った。

 懐かしい、けれど今の自分には少し眩しい笑い方だった。


「言わなくても、わかるだろ」


 居間の真ん中に、短い沈黙が置かれる。

 障子の白が明るくなり、木の影が濃くなる。


「主演はお前しかいない」


 その言葉が、昔の呼吸を思い出させた。

 初日直前の袖、手のひらの汗、ライトの熱、客席のざわめき。

 そして――青い照明の下で、確かに生きていた自分。


 胸の奥で、何かが小さく鳴る。

 拒絶ではない音だった。


「……ちょっと、考えさせて」


 玲央の返答に、悠真はそれ以上強くは押さなかった。

 ただ、玄関の方を顎で示し「外、風気持ちいいよ」とだけ言う。

 出がけに、テーブルの上のDVDに視線を落とした。


「過ぎ去ったと思ってたものほど、しぶとく残る。

 演劇も、後悔も、……それから、希望も」


 靴音が玄関に消え、車のエンジンが遠ざかる。

 居間に、静けさが戻る。


 玲央はDVDケースを手に取った。

 表面に、朝の光が線のように走り、青く反射する。

 あの色は、昔のままだった。


「……過ぎ去ったと思ってたのに、まだ、こんなに光ってるんだな」


 自分でも驚くほど穏やかな声で呟く。

 親指が“▶︎”に触れ、今度は迷わずに押し込んだ。


 スクリーンの中で、暗転。

 そして、青が灯る。


 居間の白い朝と、画面の青い夜が、同じ空気の中でゆっくりと重なっていった。

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