第8章 追いかける青
◇ ◇ ◇
拍手の音が、波のように遠ざかっていく。
光が滲み、視界が白く揺れた。
舞台の中央に、ひとりの男が立っている。
スポットライトの中、銀色の髪が微かに光を弾いた。
玲央だ。
その口元が、なにかを呟いている。
でも、音は届かない。
ただ、その瞳だけが――まっすぐに自分を見つめていた。
息を吸おうとしても、胸が苦しい。
手を伸ばす。
けれど、その距離は埋まらない。
光がひときわ強く瞬き、玲央の姿がかき消えた。
残響だけが残る。
――「また、会えるよ。」
その声を最後に、闇が訪れた。
◇
目を開けると、薄いカーテン越しに朝の光が差していた。
青白い光が天井を撫でている。
喉の奥が熱い。
頬を伝う感触で、ようやく気づいた。
――泣いている。
夢だった。
けれど、あまりにもリアルで、
まだ鼓動が追いつかない。
「……“会えるよ”、か」
つぶやいた言葉が、静かな部屋に溶ける。
まぶたの裏に、玲央の笑顔が焼きついていた。
それだけで、胸の奥がきゅっと鳴る。
“会いたい”という想いが、夢の中から現実へ滲み出していく。
寝汗の代わりに、心臓の鼓動が身体の奥で弾けた。
窓の外では、夏の名残りの風がカーテンを揺らしている。
もう蝉の声は聞こえない。
それでも、玲央と過ごした青い夏の思い出が――まだ、自分の中に残っていた。
◇ ◇ ◇
洗顔を済ませ、自室へ戻る階段をゆったりと上がる。
週末だが、自宅の中は颯真の気配しかなかった。
部屋に差し込む日差しが、少しだけ柔らかくなってきた。
窓の外からは、子どものはしゃぐ声がかすかに聞こえてくる。
勉強机の上に、数冊の雑誌とアルバムを並べた。
どれも叔父――悠真が残していったものだ。
表紙には「地元演劇特集」と書かれ、舞台照明を浴びる若い俳優たちの写真が並んでいる。
ふと、ページの端に見覚えのある名前が目に入った。
――“綾城玲央”
心臓が、跳ねた。
その隣には、“脚本:朝比奈悠真”。
記事のタイトルは、
『僕らの青』――光と影の青春劇。
思わずページをめくる。
印刷のインクの匂い。
そこには、高校時代の、どこかあどけなさを残した玲央が写っていた。
白いシャツの袖をまくり、真剣な表情で台本を見つめている。
その横顔を見ているうちに、胸の奥がざわついた。
舞台の上にいる玲央。
眩しい照明の中の玲央。
――自分の知らない“玲央”だった。
指先でページの端をなぞると、
記事の下に、小さな文字で劇団の住所が載っている。
「劇団サンライズ」/市内・北通りの小劇場にて活動中。
それを見た瞬間、頭の奥が熱くなる。
「……ここ、悠真くんの家じゃん」
声に出した途端、胸の奥がざわりと揺れた。
心臓が速く打ち始める。
ページの上の玲央が、今にも動き出しそうに見えた。
会えるかもしれない――
そう思った瞬間、身体が勝手に立ち上がっていた。
「……行こう」
鞄を掴み、ドアを開ける。
靴を履く手が震えている。
玄関のドアを閉める音が、やけに大きく響いた。
外の空気は少しひんやりしていて、秋の匂いが混じっていた。
それでも、胸の中では夏の名残りがまた燃える音がした。
◇ ◇ ◇
電車を降りると、穏やかな秋風が全身を包んだ。
駅前のざわめきが遠ざかるにつれて、風の音だけが耳に残る。
細い路地を抜けると、赤茶けたレンガの壁が見えてきた。
――劇団サンライズ。
看板の文字は少し掠れていて、何度も塗り直された跡がある。
ガラス扉の向こうから、舞台の照明の残光が漏れていた。
その光は、まるで遠い記憶の断片みたいに青く滲んでいる。
ポスターが何枚も貼られていた。
“第27回公演『薄明の箱庭』”
“脚本・演出:朝比奈悠真”
その下の古い公演記録の中に――ひときわ色あせた一枚があった。
『僕らの青』
若い頃の玲央が、舞台衣装のまま笑っている。
他の出演者たちと肩を組んで、眩しいライトの中で目を細めていた。
指先が自然に写真に触れていた。
少しざらついた感触。
紙の向こう側に、玲央がまだ息づいているように感じた。
「……来たのか、颯真。」
背後から穏やかな声がした。
振り返ると、黒いシャツにジーンズ姿の悠真が立っていた。
手には脚本と、紙コップのコーヒー。
いつもより少し驚いたような顔で、それでも柔らかく笑う。
「びっくりした。まさかここに来るとは思ってなかったよ。」
「……ちょっと、見てみたくて」
「そうか。昔の玲央を?」
その名前を口にされた瞬間、胸の奥が跳ねた。
悠真は少し視線を落としてから、そっと言葉を継いだ。
「まだいくつか残ってるよ。玲央がいた頃のDVD。……見たいか?」
「……うん。見たい」
迷いのない声だった。
悠真は短くうなずき、劇場の奥へと消えていく。
颯真は、公演記録の前から離れ、外で待つことにした。
ほどなくして、手のひらほどの薄いケースがいくつか入った紙袋を持って悠真が戻ってきた。
その中の表紙には、あの公演タイトル――『僕らの青』
「これは、俺にとっても特別な作品だ。……大事にしろよ」
「ありがとう、悠真くん」
受け取った瞬間、胸の奥が熱くなる。
透明なケース越しに、玲央の名が光を反射していた。
「玲央さん……この中に、いるんだ」
思わず漏れた言葉に、悠真は少しだけ目を細めた。
その表情の奥に、複雑な色が宿っていた。
「……そうだな。けど――」
何か言いかけたその時、風が吹いた。
乾いた秋風の中に、ふと甘くスパイシーな香りが混じる。
颯真はハッと顔を上げた。
その香りを、知っている。
あの日、玄関の向こうから漂ってきた香水。
街灯の下で微かに揺れる残り香。
玲央の匂いだった。
「……玲央さん?」
反射的に、声が出ていた。
悠真が何かを言う前に、颯真は走り出していた。
風の中に残る香りだけを頼りに、
夕暮れの街を駆け抜ける。
胸の奥で、何かが叫んでいた。
――まだ終わってない。
玲央は、きっとすぐそこにいる。
◇
息が切れる。
心臓の鼓動が、足音よりも速くなっていた。
曲がり角の先、夕陽に照らされた横断歩道の向こう。
銀色の髪が、風に揺れている。
――玲央だ。
ほんの一瞬、世界の音が止まった。
赤信号の点滅、遠くの車のクラクション、すべてが霞んでいく。
「玲央さん!」
叫んだ瞬間、玲央が振り返る。
驚いたように目を見開いて、それから少し笑った。
「……颯真?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
ずっと聞きたかった声。
何度も夢で呼ばれた声。
颯真は駆け寄り、息を整える間もなく言葉を吐き出した。
「どうして……避けるんですか!」
玲央は目を瞬かせる。
そして、困ったように笑った。
「そんなつもりじゃないよ」
けれど、その笑みはどこか薄かった。
光の中で浮かぶ横顔が、まるで遠い誰かのように見えた。
「嘘だ。あの日から……悠真くんと話したあの日から、全然会いに来てくれないじゃん」
声が震えた。
風が通り抜け、木の葉を揺らす音がした。
玲央はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと視線を落としながら言った。
「……会いたかったよ」
優しい声。
でも、その指先が、ポケットの中で小さく震えていた。
「だったら、どうして逃げるんですか!」
言葉が、涙と一緒にこぼれ落ちた。
玲央は何も答えない。
ただ、風の方を見ていた。
沈黙の中で、ふたりの間に風が吹き抜ける。
ほんの数歩の距離が、永遠みたいに遠く感じた。
「……玲央さん」
颯真は胸に抱えていたDVDのケースをぎゅっと抱きしめた。
「止められても、見るから。
玲央さんにもう会えないなら、僕はこの中で何度だって玲央さんを追い続けてやる」
言葉の最後が掠れた。
玲央の目が、一瞬だけ揺れた。
「颯真……」
その名を呼ぶ声は、懐かしくて、痛いほどに優しかった。
けれど、次の瞬間にはもう笑っていた。
壊れかけた笑み。
その奥にある感情を、誰も掬うことはできなかった。
「――颯真は、強いんだね」
玲央はそれだけ言って、背を向けた。
光の中で、銀色の髪がひときわ明るく揺れる。
「玲央さん!」
呼び止めても、もう振り返らなかった。
信号の向こうに、彼の背中が溶けていく。
風に混じって、香水の残り香がふっと漂った。
それが消えた瞬間、ようやく涙が落ちた。
――届かない。
その痛みが、胸の奥で静かに広がっていった。
◇ ◇ ◇
夜風が頬を撫でる。
さっきまで全力で走っていたせいで、息がまだ整わない。
街の灯りが、遠くでまたたいている。
信号の光が歩道に滲んで、アスファルトが青く輝いて見えた。
玲央の背中が、頭の中で何度も繰り返される。
振り返らなかった姿。
壊れかけた笑み。
それでも、確かにあの目は――自分を見ていた。
ポケットの中で、DVDのケースが冷たく光っていた。
取り出して、街灯の下にかざす。
透明なプラスチックの奥で、タイトルの文字が青く反射している。
『僕らの青』
指先がわずかに震えた。
胸の奥が熱くなる。
「……玲央さん、そこにいるんだよね」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
答えはない。
だけど、風が少しだけあたたかく吹いた気がした。
家に帰る道の途中、街路樹の影がゆっくりと揺れている。
葉と葉の隙間からこぼれる光が、まるでフィルムのコマ送りみたいに瞬いていた。
あの人は、遠い。
でも、遠いからこそ――追いかけたいと思った。
DVDのケースを胸に抱きしめる。
そこに映る“過去の玲央”に、会いたいと思った。
たとえ今は届かなくても、何度だって追いかけられる気がした。
「また、見つけるから」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
風がその言葉をさらっていく。
どこかで、玲央がそれを聞いて笑ってくれたら――
そんな願いを込めて、そっと目を閉じた。
街の灯りがにじむ。
涙のせいか、世界が少しだけ青く見えた。
でも、その青はもう悲しい色じゃなかった。
それは、前に進むための色。
玲央を追いかけるための、確かな光。
「もう、逃がさない。
だって――僕の青は、あの人の中にあるから。」
夜風が通り過ぎていく。
どこか遠くで、電車の音が響いた。
颯真は、ゆっくりと前を向いた。
その瞳の奥で、かすかな青が光を宿していた。
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