第7章 滲む青


 夏が終わる音は、思っていたよりも静かだった。

 蝉の声が遠ざかってから、もう何日が経ったのだろう。

 風の匂いが変わって、空の色まで薄くなった気がする。


 朝の通学路。

 同じ時間、同じバス、同じ景色。

 でも、あの日の光だけが、どこにもなかった。


 もういないとわかっているのに、体だけが“まだそこにいる”誰かを探していた。


 学祭の片づけが終わって、ようやく訪れた日常。

 けれど、教室のざわめきも笑い声も、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。

 黒板のチョークの音が、やけに乾いて響く。


 席に座ってノートを開く。

 ページの端に、丸っこい字で書かれた「おつかれ」とかすれた文字が残っていた。

 玲央が、ふざけて書いていったやつだ。

 消そうと思って消せずにいた落書き。

 それを指先でなぞった瞬間、胸の奥が少しだけあたたかくなる。


「……バカだな、ほんとに」

 

 小さく笑いそうになって、慌てて口を閉じる。

 隣の席では、友人が眠そうに頬杖をついていた。

 黒板の前では先生が何かを説明している。

 そのすべてが、音のない映像みたいにぼやけていく。


 あの日から、玲央の姿を見ていない。

 頭の中を、最後に見た背中が何度もよぎる。

 振り返って行ってしまう前の、あの笑顔を目に焼き付けたまま。

 ――本当に、“最後”になってしまうのではないか。

 

 声も、笑い方も、記憶の奥に閉じ込めたはずなのに、不意に浮かんでくる。

  

 いないのに、浮かぶ。


 そのたびに、胸の奥のどこかが、ゆっくりと滲んでいく。

 黒板の白い粉が光に溶ける。

 秋の匂いが混じった風が、窓の外をすべっていった。


 ◇


 放課後、空がゆっくりと傾いていく。

 窓の外の雲が薄くちぎれて、陽の光を柔らかく滲ませていた。

 部活帰り、下駄箱前でチームメイトたちがはしゃいでいる。

 何も変わらない放課後――のはずなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。


 歩道の端にある自販機の前で、ふと足が止まる。

 赤と青のランプが光って、風に紙くずが転がっていく。

 ボタンを押そうとした指先が、そこで動かなくなった。


 ――あのカフェ、この辺だよな


 夏の始まりの午後。初めて行ったカフェ。

 颯真が苦くて飲めなかったブラックコーヒーにシロップを溶かしながら、笑った玲央の顔が浮かぶ。

 

「俺も甘い方飲みたくなっちゃった」

 

 その言葉と、ストローをくわえる無邪気な仕草を、今でもはっきり思い出せる。


 あのとき、世界が一瞬だけやわらかく見えた。

 風も光も、隣を歩く人の横顔さえも。

 どこにでもある夏の午後なのに、なぜだか、全部が少しだけ特別に思えた。


「……なんで、今になって思い出してるんだろ」

 

 自分で呟いて、少しだけ笑ってしまう。

 けれど、笑うほどに胸が痛くなる。


 花火の夜。

 車の中。

 プロジェクターの青い光。

 あの人の隣にいるだけで、世界が鮮やかに見えたことをどうしても忘れられなかった。


 今はただの放課後。

 空も街も、見慣れたままの色をしている。

 それなのに――退屈だ、と思ってしまった。


 あんなに何もない時間が好きだったのに。

 あの夏を知ってしまったせいで、“日常”がまた、物足りなくなっている。


 光がまた傾く。

 歩道に落ちる影が、じわりと長く伸びていった。


 ◇ ◇ ◇

 

 気づけば、またテスト期間が始まった。

 放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に軽くなった。

 椅子を引く音、鞄のファスナー、笑い声。

 みんなが“次の予定”に向かって動き出す。


 篠原涼が机の上に腰を乗せ、にやりと笑った。

 

「なあ、今日カラオケ行かね?」

 

 周囲から「行く行く!」と声が上がる。

 教室の温度が、少し上がったように感じた。


「颯真も行くだろ?」

「……ん、うん。そうしようかな」

 

 口ではそう答えながらも、心はどこか遠くにあった。


 クラスメイトたちがわいわい騒ぎながら教室を出ていく。

 その中で、颯真は机の上のペンを見つめたまま、しばらく動けなかった。

 空席になった椅子の列。

 カーテンの隙間から差し込む光が、ゆっくりと机の表面を滑っていく。


 ――この感じ、前にもあった。


 みんなが楽しそうに笑っているのに、自分だけ音のない世界にいるような感覚。

 それは、玲央に出会う前まで、いつものように続いていた“日常”だった。

 けれど今は、もうそこに戻れない。


「おい、行くぞ!」

 

 涼の声に、我に返る。

 慌てて鞄を肩にかけて、教室を出た。


 廊下に出ると、下駄箱に向かうほかの生徒たちともすれ違う。

 塾へ行くのを嘆く声、はしゃいで廊下を走る靴音、少し浮ついた青いざわめき。

 そのすべてが、ひとつの遠い音楽みたいに聴こえる。


「今日、何歌う?」

「え、なにも考えてない」

「つまんねーな、お前」

 

 道中、涼は、飲みかけのコーラをくるくる回しながら言った。

 

「お前さ、なんかこの夏で変わったよな」

「え?」

「なんつーか、目が遠く見てる感じ。前はもっと、うーん……とにかく、なんか変わったわ」

「……そう、かな」

「うん。悪い意味じゃないけど。」


 涼が笑いながら肩を叩く。

 その笑顔がやけに眩しくて、目を逸らした。

  

 夕焼けが、窓の外を金色に染めている。

 だけどその奥に、かすかに青が残っていた。

 沈みきれない色――それが、玲央のことを思い出させた。


 ……玲央さんも、今同じ空を見上げてるかな

 

 心の中で呟いて、苦笑する。

 何言ってるんだろ。

 そんなこと、あるはずないのに。


 けれど、胸の奥がほんの少しだけ熱くなった。

 あの夏が、まだ完全には終わっていない気がした。


 ◇ ◇ ◇


 カラオケのドアが開くと、外の空気とはまるで違う、こもったような熱気が頬に触れた。

 ネオンの青光が壁に反射して、部屋全体がぼんやりと染まっている。

 スピーカーから流れる低いベース音。

 テーブルにはポテトと氷の溶けかけたコーラ。

 それだけで、世界が少し軽く見えた。


「颯真、次歌えよ!」

 

 涼がマイクを渡してくる。

 順番なんて気にしないグループの中で、笑い声が絶えない。


「え、俺?」

「さっきまで黙ってた罰」

 

 そんな軽口に押されて、渋々画面を操作する。

 適当に選んだつもりだった。

 けれど、イントロが流れた瞬間、心臓が小さく跳ねた。


 ――この曲。


 夏の夜、車の中で流れていた曲だった。

 助手席の玲央が、窓の外を見ながら小さく口ずさんでいた。

 光に照らされた横顔と、その淡い声を、鮮明に思い出す。


 「いい曲だよね」

 そう言って笑った玲央の声が、今も耳の奥に残っていた。


 歌い出そうとして、息が詰まる。

 喉の奥が少しだけ熱い。

 どうしてこの曲を選んでしまったのか、自分でもわからなかった。


 “会いたくて でも届かなくて――”


 スクリーンの文字を目で追いながら、

 どこか他人の言葉のように歌っていた。


「……ラブソングかよ」


 涼は、一瞬驚いた表情を見せたが、どこか納得したようにソファにもたれかかる。

 他の友人たちは、デンモクを取り合って次に入れる曲を探している。

 

 サビに差しかかるころには、その歌詞がすべて自分の気持ちみたいに思えてきた。


 “君を知らなかった頃の僕には――もう戻れない”


 声が少し震えた。

 誰も気づかない程度の揺れ。

 けれど、自分の中でははっきりと感じた。

 胸の奥の青が、静かに滲みはじめる。


「おー、意外と歌えるじゃん!」

 

 涼が笑って手を叩く。

 みんなも合わせて拍手を送ってくれる。

 笑って「やめろよ」と返した。

 けれど、笑っているのに、心の奥では何かが震えていた。


「なあ、颯真」


 次の曲に移り、友人が歌っている間、涼が身を寄せてきて名前を呼ぶ。

 騒音の中、声が届く距離まで身を寄せると、耳元に口を寄せた涼が口を開く。


「お前、そろそろ認めろよ」

「……?」


 何の話か分からず、首を傾げる。

 涼はにっこり笑って続けた。


「それはもう、恋だろ。」


 ――恋。


 その言葉はあまりに唐突に、鼓膜を揺らす。

 どきりと鳴る心臓の音を隠すように、思わず目を伏せる。


 恋、なんて。

 そんな大げさなものじゃない。

 ただ、また会いたいだけ。

 あの笑顔を思い出すだけで、少し息が楽になるだけ。


 そう言い聞かせても、

 胸の奥の“会いたい”が、どうしても消えてくれなかった。


 次の曲が始まる。

 涼がバラードを選んで、マイクを握った。

 その声を聞きながら、颯真はぼんやりと画面を見つめる。

 青い照明が反射して、テーブルの上の氷が淡く光っていた。


 “恋をしたと気づくのはいつも遅すぎる”


 歌詞の一節が、心の中でゆっくりと反響する。

 その瞬間、すべての音が遠のいていく。

 涼の声も、笑い声も、何もかもが背景の向こうに沈んで、青い光だけが、静かに瞬いていた。


 ――あの人の笑顔を、もう一度見たい。


 それだけで、胸が苦しくなる。

 息を吸うたびに、心の奥が少しずつ痛む。

 それでも、痛いことがどこかうれしかった。


 だってそれは、生きている証みたいだったから。


 “会いたい”というたった一言が、こんなにも世界を変えてしまうなんて、少し前の自分には、想像もできなかった。


 カラオケの青い光が、彼の頬を照らす。


 ――痛みの中にも、光がある。


 それが、玲央を好きになった証拠なのだろうか。

 

 ◇ ◇ ◇


 帰り道の風は、少しだけ冷たかった。

 街の灯りが遠くでまたたいて、歩道のアスファルトに光が滲んでいる。

 さっきまでの笑い声が、耳の奥でゆっくりと遠ざかっていった。


 涼と別れ、ひとりで家の方向へ歩く。

 コンビニの前を通り過ぎたとき、ショーケースの明かりが頬を照らした。

 その青白い光が、一瞬だけ玲央の横顔みたいに見えた。


 ――会いたい。


 心の中で呟いた瞬間、胸がぎゅっと鳴った。

 さっき歌った曲のフレーズが、また頭の中で流れる。

 “君を知らなかった頃の僕には――もう戻れない”


 ……ほんとだな。

 あの人に出会う前の僕には、もう戻れない。


 夜風がシャツの裾を揺らす。

 街路樹の影が、足元に淡く揺れている。

 そのひとつひとつが、夏の残り香のように感じられた。


 信号の向こうに、自販機の灯りが見える。

 赤と青のボタンが、まるで昼と夜みたいに並んでいた。

 指を伸ばしかけて、やめた。

 どちらを選んでも、味は同じ気がした。


「……なんでだろう」

 

 口の中で呟く。

 ただ会いたいだけなのに。

 声を聞きたいだけなのに。

 それだけで、どうしてこんなに苦しいんだろう。


 夜空には薄い雲が流れていた。

 その向こうで、星がひとつだけ光っている。

 ほんの少しの青が混じった光だった。


 ……もう、恋だろ。


 涼の言葉がよぎる。


「これが、恋。」


 足を止めて、空を見上げる。

 胸の奥が熱いのに、風だけが冷たくて、その温度差の中で、自分が確かに“生きている”と感じた。


 ポケットの中のスマホが小さく震える。

 メッセージでも通知でもなく、ただ時間のアラーム。

 画面に浮かぶ数字の淡い光が、頬を照らした。


 その光の中で、颯真は小さく笑った。


 「……そうか。僕、玲央さんが好きなんだ」


 声に出した瞬間、胸の奥の痛みがすっと静まった。

 まるで、長い間名前のなかった感情が、ようやく居場所を見つけたみたいに。


 夜の空気がゆるやかに流れる。

 カーテンのような薄雲の向こうで、かすかな青が、静かに瞬いている。

 それは、まだ夏の匂いを残していた。


 ――僕の中の青は、まだ滲んでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る