体育館のざわめきは、夏の終わりの蝉の声よりも賑やかだった。

　ステージでは演劇部の照明が点滅し、外では焼きそばと綿あめの匂いが混ざっている。

　笑い声、カメラのシャッター音、スピーカーのハウリング。

　そのすべてが、文化祭という一日の“熱”を作っていた。

「高瀬ー！こっちこっち！」

　クラスメイトの声に振り返る。

　出し物の看板を立て直しながら、颯真は軽く手を振った。

　Ｔシャツにはクラスカラーの青いペイント。

　腕に滲む汗が、光を反射してきらりと光る。

「焼きそば完売！次はドリンクー！」

　涼の声が響く。

　笑って返そうとしたとき――ざわ、と空気が変わった。

「……お、きたきた！玲央さーん！」

　耳に届いたその名前に、颯真は反射的に顔を上げた。

　人混みの向こう、屋台の陰から銀色の髪が風に揺れる。

　どこにいても目立つその姿。

　玲央が、まるで観客のように微笑んで立っていた。

「玲央、さん……？」

　声にならないつぶやき。

　涼がにやついた顔で彼の肩をつつく。

「こないだ偶然会ってさ。呼んどいたぞ」

　「いやー、相変わらずモデルみてぇだな」と腕を組んで呟く涼。

　颯真は、目の前の幻のような光景に硬直していた。

　そのとき、玲央と目が合った。

　ゆっくりと歩み寄ってくる。

　笑みは穏やかで、まるで“訪問”ではなく“登場”だった。

「やぁ、颯真。やっと見つけた」

「な、なんでここに……」

「気分」

　いつもの調子。

　だけど今日は、その言葉がやけに響いた。

　玲央が周囲を見回し、クラスメイトたちの視線を軽く受け流す。

　その動作ひとつで、空気が一段階ざわめいた。

「え、誰？」「颯真の兄？」「イケメンすぎない？」

　そんな囁きが、熱気の中を駆け抜けていく。

　そして――。

「恋人です」

　軽く笑いながら、玲央が言った。

　その一言で、世界が一瞬止まった。

「れ、れ……れおさん！？な、なに言って――！」

　声が裏返る。

　周囲から爆発するような笑い声と歓声。

　涼が机を叩きながら「マジかよ！」と叫び、女子たちは「きゃー！」とスマホを構える。

「ちょ、違う！冗談だから！」

　慌てて否定するが、誰も聞いていない。

　笑い声とカメラのシャッターが飛び交い、その中心で玲央だけが落ち着いていた。

　まるで、騒ぎも含めて“演出”の一部であるかのように。

「ふふ、ノリ悪いなぁ颯真。冗談だよ」

　その穏やかな笑顔に、言葉が詰まる。

　周りの熱気と笑いが戻るまでの数秒間――

　胸の奥でだけ、時間が止まっていた。

　笑えばいい。

　いつもみたいに、照れ隠しで流せばいい。

　だけど、どうしてもできなかった。

　笑うたびに、どこか痛む。

　その痛みの正体がわからないまま、颯真は無理やり口角を上げた。

「……ほんと、やめてくださいよ」

　玲央は片手を上げて謝るふりをし、「ちょっと他も見てくるね」と、そのまま人混みの中へ溶けていった。

　残された笑い声の中で、颯真はただ立ち尽くしていた。

　――胸の奥で、何かが小さくきしんだ気がした。

　◇　◇　◇

　文化祭が終わる頃、校舎の外は橙に染まっていた。

　片づけの声と笑い声が入り混じり、廊下には段ボールとポスターの切れ端。

　昼間の熱気がまだ空気の中に残っていて、頬を撫でる風さえも少しぬるかった。

「……終わったなぁ」

　

　涼が大きく伸びをする。

　隣で玲央が笑って、「お疲れさま」と軽く手を叩いた。

「颯真、人気者だったね。

　“恋人です”って言われた瞬間、みんなの視線が集まってた」

「もう、その話やめてくださいよ……」

　

　思わず声が上ずる。

　涼は「照れてる照れてる」と肘で突きながら笑った。

「なあ玲央さん、あれ本気だったんすか？」

「どうだろうね」

「うわ、さらっとかわすのずる」

「恋人って言葉、便利でしょ？……一瞬で空気が変わる」

　玲央は軽く笑い、手に持ったペットボトルをくるくる回した。

　夕陽がそれを透かして、指先が赤く染まる。

「……そういうところですよ」

　

　颯真が小さく呟く。

　けれど、その声は風に消えた。

　校門を出て、三人で並んで歩く。

　道路脇の水たまりに、夕空と街灯の青が滲んでいた。

「颯真ってさ、意外と顔赤くなるよな」

　

　涼が茶化すように言った。

　

「そういうとこ、かわいいね」

「からかわないでください」

「本当のこと言っただけだよ」

　

　玲央の言葉に、心臓が跳ねる。

　――冗談だ。

　そう思いたいのに、その声があまりにもやさしく響いて、笑えなかった。

　信号が青に変わる。

　玲央が先に歩き出し、颯真は少し遅れて続く。

　背中を見つめながら、胸の奥で何かがざらついた。

　“恋人です”

　ただの冗談。

　それくらいわかっている。

　でも、あの一言が、自分の世界を少し壊した。

　楽しいのに、苦しい。

　笑いながら、心の奥だけが締めつけられる。

　まるで、明るい音楽の裏で静かに鳴る低音のように。

「どうしたの？」

　

　玲央が振り向く。

　光の中で、表情が一瞬ぼやけた。

　颯真は首を横に振る。

　

「……なんでもないです」

　言葉と一緒に、笑顔を作る。

　でも、それは自分の顔じゃないみたいだった。

　そのまま三人で歩いた。

　道端の木々が影を落とし、夕暮れの色がゆっくりと群青に変わっていく。

　遠くで花火の音が一発だけ響いた。

　――もう、あの夜のようには笑えない。

　胸の奥に浮かんだその思いを、誰にも聞こえないように飲み込んだ。

　

　◇　◇　◇

　数日後。

　風が少しだけ秋の匂いを帯び始めていた。

　夕方の空は淡い灰色で、どこか色を失ったように見えた。

　あれ以来、玲央とは普通に会っていた。

　いつものように突然迎えに来て、「ドライブでも行く？」と笑う。

　颯真も、何事もなかったように頷いた。

　だけど、ほんの少し――間が空いた。

　言葉を選ぶ時間が増えた。

　笑うタイミングが、わずかにずれた。

　車の中では音楽が流れていた。

　エアコンの風が頬をなで、沈黙だけが、いつもより濃く漂っていた。

「文化祭、楽しかった？」

　

　玲央がハンドルを握りながら言う。

　柔らかな声。

　けれどその奥に、どこか探るような響きがあった。

「……まぁ、はい。楽しかったですよ」

「そっか」

　玲央は短く答えた。

　それきり会話は途切れる。

　信号待ち。

　ウインカーの音だけが静かに響く。

　ダッシュボードの淡い光が、二人の顔を微かに照らした。

　◇

　車から降りて、いつも通り颯真の自宅までの道を二人歩く。

「……顔、怖いよ」

　

　玲央がふいに言った。

　

「え？」

「ここんとこ、あんまり笑ってない気がして」

「そんなこと――」

　

　言いかけて、言葉が続かなかった。

　――図星だった。

「……そういえば、こないだ佳代ちゃんがさ」

　その空気を断ち切るように、明るい声で玲央が口を開く。

　そこから、佳代が寝ぼけてテレビのリモコンを冷蔵庫にしまった話が飛び出してきた。

　唐突で他愛もない、玲央を囲む日常の切り抜きに、思わずふっと笑ってしまった。

「……やっと笑った」

　

　玲央がそう言って、少し安心したように笑う。

　その笑みに、颯真もようやく笑顔を返した。

　その瞬間だった。

　玄関の方で、車のドアが閉まるような音がした。

　遠くから足音が近づく。

　舗道を踏む靴音が、夕暮れの静けさをかすかに揺らす。

「……玲央？」

　低く落ち着いた声がした。

　振り返ると、玄関先に立っていたのは、叔父の悠真だった。

　腕を組み、玲央と颯真を穏やかな表情で見つめている。

　けれど、その瞳の奥だけが、静かに光を帯びていた。

「……久しぶりだね、悠真」

　

　玲央の声が、わずかに硬い。

　

「本当に、久しぶり。十年ぶりくらいか？」

「そんなになるかもね」

　言葉の表面は穏やかだった。

　けれど、空気の温度が一瞬で変わった。

　蝉の声も、風の音も、遠くに消えていく。

「颯真、家に入りなさい」

　

　悠真の声は低く、穏やかで、それでいて抗えない。

「え、でも――」

「大丈夫。ちょっと玲央と話をするだけ」

　そう言って、悠真はゆっくりと笑った。

　その笑みが、いつもの優しさとは違って見えた。

　颯真は玄関のドアに手をかけつつ、ちらりと二人の様子を伺う。

　門の前で向かい合う玲央と悠真。

　同じ年頃に見えるのに、まるで異なる光をまとっている。

「君は――また“舞台”を壊す気か？」

　空気が凍りついた。

　颯真は思わず足を止めた。

　玲央は視線を逸らさずに、ただ静かに立っていた。

　その表情は穏やかで、でもどこか遠い。

「……まだその話？」

「当たり前だろ。あの時、何人の人が君のせいで――」

「やめよう」

　

　玲央の声が静かに重なった。

　

「颯真がいる」

　その名前が出た瞬間、悠真の瞳が揺れた。

　それでも、引き下がらない。

「颯真が、また君に“使われる”んじゃないかと心配してるだけだ」

「……使う？」

「そう。君はそういう人間だよ。

　誰かを惹きつけて、最後に裏切る人間だ。

　舞台でも、人生でも、いつもそうだ」

　沈黙。

　玲央の表情から、感情が消えた。

「……そうかもね」

　その声は、まるで自分自身を責めるようだった。

　悠真が息を呑む。

　玲央は短く笑って、一歩後ろに下がった。

「じゃあ、俺はもう帰るよ」

　それだけ言って、振り返らずに歩き出した。

　その瞬間、光の色が変わった。

　雲が厚くなり、夕陽が翳る。

　ドアの隙間から、その背中がゆっくりと遠ざかっていく。

「玲央さん！」

　思わず呼び止めた。

　でも、彼は振り返らなかった。

　――その背中が、やけに寂しく見えた。

　家の中に残された空気が、重く沈む。

　悠真は何も言わず、ただ玄関を閉めた。

　◇　◇　◇

　玲央の背中が見えなくなったあと、

　玄関の外に残った風が、まだ彼の匂いを運んでいた。

　颯真はしばらくその場から動けなかった。

　頭の奥で、さっきの言葉が何度も反響する。

　――舞台を壊す気か。

　――裏切る人間だ。

　胸の奥に冷たいものが沈み、

　世界の色がゆっくりと薄れていく。

　やがて、静かにドアが閉まる音がした。

　◇　◇　◇

　夜の空気は少し冷たくなっていた。

　時計の秒針が静かに部屋を刻む。

　悠真が、ため息をひとつつく。

　その音が、やけに大きく聞こえた。

「……驚かせたね」

　ようやく口を開いた悠真の声は、穏やかだった。

　けれど、その穏やかさの下に、硬い何かが隠れている。

「玲央さんと……知り合いなの」

　

　颯真は、思わず問いかけていた。

　悠真は短くうなずく。

「昔ね。高校のときからの仲だよ。

　同い年で、演劇部に一緒にいた」

「演劇部……？」

　意外な言葉に、息を呑む。

　あの玲央が――舞台に立っていた？

「玲央は、すごく目立つ人だった。

　台詞をひとつ言うだけで、空気が変わる。

　でも、それと同じくらい……危うかった」

　悠真はそう言いながら、ゆっくりと立ち上がる。

　本棚の上段に置かれた古いアルバムを取り出し、テーブルに置いた。

　表紙の端が少し剥がれていて、長い時間を経たことがわかる。

「懐かしいな。……見てみる？」

　ページを開くと、少し色褪せた写真が並んでいた。

　舞台袖、衣装を着た生徒たち、照明の眩しいステージ。

　その中心に、確かに玲央がいた。

　笑っていた。

　照明の光を受け、まっすぐ前を見つめるその目は、颯真の知る玲央よりも、ずっと若くて、痛いほどに輝いていた。

「これ……玲央さん、だよね」

「そう。二年の文化祭でやった舞台。『雨の向こう側』っていうタイトルだった。脚本は俺が書いて、主演は玲央」

「すごい……」

　

　思わず声が漏れる。

　悠真はページをめくりながら、淡々と語った。

「この作品で、彼は本当に天才だった。

　教師たちも驚いて、県の大会にも推薦された。

　――でも、直前になって、彼は全部を壊した」

「壊した……？」

「公演の前日、急に“やめる”って言い出してね。

　主演も、演出も、全部放り出して。

　代役も間に合わず、舞台は中止になった」

　静かな声。

　それなのに、言葉の端々に残る痛みが、空気を震わせる。

「理由は誰にも言わなかった。

　でも、僕はなんとなくわかってた。

　あいつは――あのとき、“退屈”だったんだ」

「退屈……」

　どき、と颯真の胸が冷ややかに鳴る。

　その年頃の“退屈”という感情に心当たりがあったからだ。

「舞台の上で誰かを演じるより、現実の中で、誰かの心を動かす方が刺激的だと思ったんだろうね」

　悠真はページを閉じた。

　その表紙を指でなぞりながら、どこか懐かしむように笑った。

「最高の時間だった。

　だけど、あいつは背を向けた。

　僕らが作った“青”の光から、ふいに降りていった」

　颯真は、胸の奥が重くなるのを感じた。

　その“青”という言葉が、ひどく静かに響いた。

「あいつは舞台を降りたけれど、あの光は多分まだ、

　どこかで人の心を照らしているんだろうな」

　悠真は、寂しさを含んだ笑みを浮かべ、天を仰いだ。

「……玲央さん、昔からそうなの？」

「そう。

　心を惹きつけて、誰よりも輝いて、気づいたら、誰よりも遠くに行ってる」

　悠真は立ち上がり、窓の外を見た。

　夜風がカーテンを揺らし、月の光が薄く差し込む。

「颯真。君が、今の玲央をどう見てるかは聞かない。

　でもね――彼の中には、まだ“あのときの光”が残ってる。

　それがまた誰かを照らすか、焼くかは……わからない」

　颯真は言葉を失った。

　胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。

　机の上には、写真の一枚が残っていた。

　ステージの中央で、笑う玲央。

　その背景には、青い照明がぼんやりと滲んでいる。

　それを見つめながら、颯真は思った。

　――自分の知らない玲央が、確かにここにいた。

　あの光の中に立つ彼は、誰のものでもなかった。

　その光は、今もどこかで、ゆっくりと曇りはじめているのかもしれない。

　ページの端が、冷たい風にめくられた。

　夜が、静かに深まっていった。

　◇　◇　◇

　朝から曇っていた。

　カーテンの隙間から差し込む光は白く、どこか冷たい。

　机の上には、数日前のまま閉じたままのノートと、開きっぱなしのアルバム。

　ページの端に残る青い照明が、まだ胸の奥にちらついている。

　あの夜のことを思い出すたび、息が詰まる。

　悠真の言葉――“裏切る人間だ”。

　その響きが、胸のどこかにこびりついたままだった。

　それでも、玲央の笑顔を思い出すたびに、

　“そんな人じゃない”と否定したくなる自分がいる。

　信じたいのか、知りたいのか、もうわからなかった。

　◇　◇　◇

　その日の放課後。

　校門を出たところで、見覚えのあるシルバーの車が目に入った。

　エンジンを切って寄りかかるように立っている玲央。

　曇天の下でも、その髪だけは微かに光を帯びていた。

「……また、気分ですか」

　自分でも驚くほど、声が冷たかった。

　玲央は少し目を細めて笑う。

「うん。気分」

　そのいつもの軽さに、胸の奥がわずかに痛んだ。

「乗ってく？」

「別に、どこも行く予定ないですよ」

「じゃあ、行こうよ」

　強引な誘いに、ため息が漏れる。

　それでも、拒めなかった。

　車のドアが閉まる音が、曇り空に小さく響いた。

　◇

　車内ではラジオが流れていた。

　流行りのバラードが、どこか遠くから聴こえるように響く。

　玲央の横顔を盗み見ながら、颯真は口を開いた。

「……悠真くんとは、もう会わないんですか」

　ハンドルを握る指が、ほんの一瞬止まった。

「どうだろうね」

　

　軽く笑って言う。

　それだけで、何もかもをかわされた気がした。

「……何かあったんですか。昔」

「昔の話は、昔のままでいいよ」

「でも――」

「颯真は、涼くんをちゃんと大事にするんだよ？」

　突然、話を逸らすように言われた。

　視線は正面のまま。

　その声だけが、少し揺れていた。

「どうして、そんなこと言うんですか」

「さぁ……。なんとなく、そう思ったから」

　曇り空の中、信号が青に変わる。

　玲央の横顔を照らす淡い光が、一瞬だけ青白く反射した。

　――何を考えてるんだろう。

　わからない。

　どれだけ近くにいても、掴めない。

　優しく笑うたび、遠くに行ってしまう。

「玲央さん」

「ん？」

「僕は……玲央さんにとって、何者ですか」

　空気が止まった。

　ハンドルを握る手が、ほんのわずかに震えた気がした。

　返事はない。

　代わりに、微笑が浮かんだ。

　穏やかで、どこまでもやさしい――けれど、届かない笑み。

　外の空が、ゆっくりと曇っていく。

　ガラス越しに見える世界が、白と灰に滲む。

　胸の奥に、冷たいものが広がった。

　――この人は、きっと僕の知らない場所で、生きている。

　言葉にできないその感覚が、痛みとも温度ともつかないまま、静かに形を持ちはじめていた。

　信号が赤に変わり、車が止まる。

　車内の空気が、糸を張ったように張り詰めている。

　玲央は小さく息をつき、こちらを見た。

「……怖い顔してるよ、颯真」

「……怖いのは、玲央さんのほうだよ」

　ふと、言葉がこぼれた。

　玲央が少しだけ目を見開く。

　次の瞬間、笑った。

　まるで、何もかも理解しているように。

　――その笑顔が、いちばん怖かった。

　車の中に、冷たい風が流れ込んだ。

　窓の外では、灰色の雲がゆっくりと動いていた。

　――そして、青が完全に消えた。