第5章 眩い青


 助手席のドアが閉まると、軽やかな電子音が鳴った。

 ほんの数秒の静寂。

 その沈黙ごと、夏の熱が閉じ込められたようだった。

 車内はエアコンの風が静かに流れ、外の蝉の声が遠ざかっていく。


「シートベルト、ちゃんとね」


 玲央がちらりと横を見る。

 その声がやけに近くて、颯真は慌ててベルトを引き出した。

 バックミラー越しに映る玲央の横顔は、街灯の光を受けて淡く青白く光っている。

 その横顔を見ているだけで、胸の奥が少し熱くなった。


「ハンバーガー、食べる?」

「え、今!?」

「ふは、ドライブスルーの匂い、気になってるでしょ」


 玲央が笑う。

 言われてみれば、袋の中から漂う温かい匂いが、車内に満ちていた。

 少し照れくさくなりながら受け取ると、紙の包み越しに指先が触れた。

 ほんの一瞬なのに、心臓が跳ねる。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして。ジュースはそのカップね。ストロー挿しておいたよ」


 軽い口調。けれど、その何気なさが心地よかった。

 車が静かに走り出す。

 タイヤがアスファルトを撫でる音が、一定のリズムを刻む。

 言葉がなくても、空気が穏やかに流れていく。

 夕暮れの光がフロントガラスを透かして、車内を群青色に染めていた。


 窓の外を流れていく景色。

 並木道、電線、沈みゆく太陽。

 どれも見慣れた町のはずなのに、玲央と並んで見るだけで、少し違って見えた。


「ねぇ、玲央さん。どこ行くんですか」

「ひみつ」

「えっ、またそれ……」

「ほら、“気分”ってやつ」


 あの言葉。

 もう驚かなくなったけれど、聞くたびに少しだけ嬉しくなる。

 気まぐれでいい。自分を選んでくれた、それだけで十分だった。


 しばらく走ると、見覚えのある道に入った。

 カーブの先、見えてきたのは綾城家の門。


「え、ここ……」

「うん。佳代ちゃん、今外に出てる時間だから俺も退屈だったんだよね」


 玲央が軽くウインカーを出し、車をガレージへ滑り込ませる。

 扉がゆっくりと閉まり、外の蝉の声が完全に遮断された。

 静寂の中に、微かに機械音のようなものが響いている。


 暗がりの奥で、ぽうっと青白い光が灯った。


「……え、なにこれ」


 目を凝らすと、壁一面に映し出された映像。

 夜空を飛ぶ飛行機、流れる雲。

 その下には古びたソファと、小さなテーブル。


「簡易映画館。ほら、今日お互い退屈でしょ?」


 玲央がリモコンを操作すると、映像が切り替わり、タイトルロゴが浮かび上がった。

 プロジェクターの光が空気の粒を照らし出す。

 その青白い光の中で、玲央が笑った。


「俺、映画好きなんだ。夜にひとりで観るの、落ち着くんだよね」

「へぇ……意外です」

「でしょ?でも、今日はひとりじゃないから、特別」


 “特別”という言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。

 玲央はソファの端に座り、脚を組む。

 颯真は少し間をあけて、隣に腰を下ろした。


 スクリーンには、広い空と、少年が走る姿。

 青が画面いっぱいに広がる。


 映画の中の青と、プロジェクターの青。

 その二つの光が混ざり合って、ガレージ全体がやわらかく染まっていた。


 玲央は肘をついて、頬杖をつきながら見ている。

 横顔が、スクリーンの光に照らされて淡く浮かび上がる。

 その姿が、映画のどの場面よりも綺麗に見えた。


 映画の中の光が強くなり、画面の青がふたりの頬を照らした。

 玲央が少し前に身を乗り出した拍子に、肩がかすかに触れる。

 颯真の呼吸が浅くなった。

 わざと視線をスクリーンに固定する。

 でも、視界の端に見えるのは、ほんの数センチ隣の横顔。

 まばたきすら、もったいないと思った。 


 心臓の鼓動が、映画のBGMに溶けていく。

 退屈だったはずの夏が、静かに色を変えていく。


 ――退屈しない。

 この人といると、本当に。


 そう思った瞬間、スクリーンの中で青空がまぶしく広がった。


 ◇ ◇ ◇


 映画のクライマックスで、少年が海へ走り出す。

 スクリーンの中で青空と波が溶け合い、ガレージの壁いっぱいに光が揺れた。


「……すげぇ」


 思わず声が漏れる。

 玲央は横で、うっすら笑っていた。


「昔の映画なのに、綺麗でしょ。CGなんてないのに、空と海の景色が鮮やかで」

「……うん。なんか、空気まで涼しく感じますね」


 玲央がリモコンを軽く押すと、エンドロールが流れ出す。

 青い文字が黒い背景にゆっくりと浮かんでいく。

 その淡い光が、二人の顔を交互に照らした。


 静かな音楽。

 冷房の音。

 そして、並んだふたりの呼吸だけが聞こえる。


「……玲央さんって、こういう映画、よく観るんですか」

「気分によるけどね。ホラーもアクションも観るよ。でも、こういう静かなやつが一番落ち着く」

「……なんか、意外です」

「ふふ。そう言われると思った」


 玲央が肩をすくめる。

 ソファに深く沈み込む姿が、普段よりずっと穏やかに見えた。

 都会の夜にいた頃の、どこか尖った雰囲気がここでは少しもない。


 颯真は思わず口にした。


「玲央さん、こういう顔、するんですね」

「どんな顔?」

「……優しい顔」


 言ってから、顔が熱くなった。

 玲央は少し驚いたようにこちらを見て、それから小さく笑った。


「映画のせいかな。静かな時間って、気持ちが柔らかくなる」

「……そうかもしれないですね」


 静けさが戻る。

 プロジェクターのファンの音が、小さく空気を撫でる。

 ふたりの呼吸が、同じリズムで重なっていた。 


 そのとき、玲央が立ち上がった。

 古い木箱を開けると、中にはびっしりと並んだDVDケース。

 海外のタイトル、日本の名作、モノクロ映画。

 どれも丁寧に手入れされていて、ラベルには日付とメモが細かく書かれていた。


「……これ、全部観たんですか?」

「ほとんどね。お気に入りはここ」


 玲央が指さした棚には、“空”“光”“風”と書かれた付箋が貼られている。


「……テーマで分けてるんですか?」

「うん。結局、どの映画にも“色”があるんだよ。空、海、夜、光――全部、少しずつ違う青」

「……玲央さん、やっぱり変わってますね」

「それ、褒め言葉?」

「……多分」


 ふたりの笑い声が、密やかにガレージに響く。


 映画が終わってもしばらくそのまま、光だけが残っていた。

 プロジェクターのランプがかすかに明滅し、青白い残光が壁に淡く揺れている。


 気づけば、颯真は半分眠りかけていた。

 頬に当たる風が冷たくて、体温が少しずつ奪われていく。

 まぶたの奥に、映画の青空がまだ残っていた。


 ぼんやりとした意識の中で、何か柔らかいものが肩に触れる。

 薄いタオルケットだった。


 ――玲央さん。


 声に出す前に、眠気が勝った。

 微かに感じるのは、もうすっかり覚えてしまった香水とシャンプーが混じった香り。

 心地よくて、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。


 玲央はスクリーンの明かりを落とし、静かに腰を下ろした。

 並んだ二人の影が、壁に青く伸びている。


 小さな音で呟く。

 誰にも届かない声で。


「……退屈、しないでしょ?」


 その言葉は、眠る颯真の耳に届く前に、青白い光の中に溶けていった。


 外では、風が木々を揺らしている。

 夜の匂いと、遠くで鳴く虫の声。

 ガレージの中だけが、青い夢のように静かだった。


 ◇ ◇ ◇


 夏休みの午後。

 午後の日差しが廊下を照らし、居間から母の話し声が微かに聞こえた。

 テレビのニュースが夏休み特集を流している。

 “普通の家”“普通の午後”

 その日常の中に、どこか非日常の影がひそんでいた。

 

 扇風機の羽が、のんびりと空気を撫でていた。

 床の上には教科書とノート、そして汗でくたびれたシャツ。


「うわー、全然頭に入らねぇ」


 涼が机に突っ伏して呻いた。

 その向こうで、颯真はシャーペンを走らせる。


「英語のリスニング、もう一回やる?」

「お前なあ、詰め込みすぎ!休憩しよーぜ」


 伸びをする涼を横目に、颯真は苦笑する。

 窓の外では、真夏の太陽がじりじりと照りつけていた。

 セミの声が、音の壁みたいに押し寄せる。


「なあ、宿題って七月中に終わらせる派?」

「終わらせたい派。終わらないけど」

「だよなー」


 そんな他愛のない会話。

 この退屈な時間が、なぜか少しだけ心地よかった。


 そのとき――。


 玄関のチャイムが鳴った。


「ん?誰か来たっぽいな」


 涼が立ち上がり、廊下の方へ顔を出す。

 階下から母の声がした。


「颯真ー!綾城さん来てるわよー!」


「……え?」


 ペンを握ったまま固まる。

 涼が振り返って、にやりと笑った。


「おお、噂の“綾城さん”か」

「ち、違う、そんな噂してないし」

「はいはい、そういうことにしとく」


 階段を上がってくる足音。

 軽い来客用スリッパの音が、心臓の鼓動に重なって響いた。


「やぁ、少年たち」


 ドアの向こうから、玲央が顔をのぞかせた。

 白いTシャツに薄いグレーのパンツ。

 涼しげな格好が、部屋の暑さを少しだけ和らげたように見えた。


「……玲央さん、どうして」

「近くまで来たから。ほら、ドライブのついで」

「気分、ですか?」

「正解」


 軽く笑いながら部屋に入ってくる。

 その自然さに、涼がぽかんとした。


「え、颯真の親戚とかだっけ?」

「ふふ、まぁ……そんな感じ?」

「そんな感じってなんだよ、違うよ」


 玲央が笑って、持っていた袋をテーブルに置く。


「アイス。溶ける前に食べよ」


 袋の中には、棒アイスが三本。

 包み紙を破る音が重なって、部屋に甘い香りが広がった。


 しばらくして、涼が問題集を持ち上げる。


「なあ、これさ、答え写してもいい?」

「ダメに決まってるでしょ」

「お前、先生かよ」


 笑い合う二人の横で、玲央がノートを手に取る。


「これが宿題?」

「そうです。読書感想文とか、作文とか」

「へぇ、懐かしいなぁ。俺も手伝おっか?」

「え、ほんとに?」

「こら、涼ちゃん」

「“清書担当”ならね」


 玲央がシャーペンを握る。

 けれど、数秒後。


「……玲央さん、字、読めません」

「え、うそ」

「これ、“夏”ですか? “麦”ですか?」

「味があるって言って」

「ミミズみたいって、この事っすね」


 涼が大笑いし、つられて涼のノートを覗き込んだ颯真も吹き出した。

 玲央はわざとらしく肩を落とす。


「ひどいなぁ。俺の努力を返して」

「努力の方向が違うんですよ」

「じゃあ、見本見せて」


 玲央が顎で示す。

 颯真が新しい紙を取って、ペンを走らせる。

 その横顔を、玲央はじっと見ていた。


 真剣に文字を書く颯真の姿。

 額にかかる前髪が、汗で少しだけ張りついている。

 静かな集中の時間。


 玲央の視線に気づいて、颯真は顔を上げた。


「……なんですか」

「いや。やっぱり、真面目だなって」

「褒めてます?」

「もちろん」


 玲央が笑う。

 その笑顔が、夏の光に溶けていくように柔らかかった。


 涼がわざと咳払いをして、空気を壊した。


「はいはい、青春だなぁ」

「ちょ、やめろって」

「いやぁ、見てるだけで眩しい」


 冗談めかした声。

 けれど、その言葉に込められたものを、颯真は聞き流せなかった。


 ――眩しい。


 確かに、今この瞬間は眩しかった。

 窓の外の夕空が、群青と橙の境目で揺れている。

 その光の中に、三人の笑い声が溶けていく。


 涼の無邪気な明るさと、玲央の穏やかな笑み。

 どちらも好きだった。

 でも、胸の奥を焦がすように熱くするのは――玲央の方だった。


 言葉にならないその想いを抱えたまま、颯真はそっとノートを閉じた。


 夕暮れの光が、机の上のペンを青く照らしていた。


 ◇ ◇ ◇


 箪笥の奥から母に浴衣を出してもらった。

 皺を伸ばすアイロンの音。

 薄い藍色の布に触れるたび、心臓が小さく跳ねた。

 勉強会の後、涼が発した「花火大会」の単語に、微かに興味を示していた玲央を思い出す。

 

 ――明日、もしまた会えたら。

 

 そんなことを考える自分に気づいて、慌てて首を振る。

 “期待するな”と言い聞かせながらも、指先は震えていた。


 ◇


 夕暮れが町を金色に染めていた。

 どこからか、太鼓の音と人のざわめきが聞こえてくる。 


「ほら、行くぞ!」


 涼が先に走り出す。

 颯真は浴衣の裾を直しながら、少し遅れて後を追った。


「そんな急がなくても、花火は逃げないって」

「屋台は逃げる!」

「意味わかんねーよ」


 笑いながら歩く。

 アスファルトの上に、提灯の光が波のように揺れていた。

 焼きそばの香り、金魚すくいの水音、遠くで響く笛の音。

 町全体がひとつの夏の夢みたいにきらめいていた。


「なあ、颯真、あの射的やろうぜ」

「金使いすぎだって」

「いいから!青春の投資だ!」


 涼が笑いながら駆け出す。

 その背中を追おうとして、颯真はふと足を止めた。


 ――人混みの中。


 見慣れた銀色が、提灯の灯りに反射して光っていた。


「……え」


 浴衣姿の男が、屋台の向こうに立っていた。

 白地に藍の模様、帯はゆるく結ばれ、手にはうちわ。

 髪が風に揺れて、頬に落ちる光を散らす。


 綾城玲央。


 人波の向こうで、ゆっくりとこちらを見た。


「……玲央さん」


 声が自然にこぼれた。

 玲央はこちらに気づくと、その遭遇が当然であったかのように、笑って手を振る。


「やあ。浴衣、似合ってるね」

「どうして、ここに……」

「気分」


 また、それだ。

 けれど、今夜はその言葉が違って聞こえた気がした。

 まるで“君に会いたくて来た”のを、照れ隠ししているように。


 ……なにを、考えてるんだ僕は。


「涼くんと来たの?」

「そう、こないだ話してたやつ」

「そっか」


 短く答える玲央の笑みが、どこか寂しそうに見えた。

 胸の奥が小さく鳴る。


「俺も、ここなら颯真に会えるかなって思って」


 まっすぐな声。

 人混みのざわめきの中で、その言葉だけが鮮やかに響いた。


 返す言葉が見つからない。

 ただ、喉の奥が熱くなる。


「……行こっか」

「え?」

「せっかくだし。祭り、案内してよ」


 玲央がそう言って歩き出す。

 少し遅れて並ぶと、袖がふと触れ合った。

 それだけで、夏の夜が一段と暑くなった気がした。


 ◇ ◇ ◇


 焼きそばを分け合い、輪投げで笑い、金魚すくいの前で足を止める。


「やりたい?」

「……子どもじゃないですよ」

「じゃ、俺がやる」


 玲央がポイを受け取り、水面を覗き込む。

 手際は慣れているようで、金魚が次々とすくわれていく。


「うまっ……」

「昔、佳代ちゃんに連れてこられたからね。練習の成果」


 玲央が小さな袋を差し出す。

 水の中で赤い金魚が尾を揺らしていた。


「はい、プレゼント」

「え、なんで」

「取ったから」

「理由になってません」

「でも、喜んでるじゃん」


 からかうように笑うその声が、花火の前触れのように胸を弾ませた。


 その瞬間、背後で「うわ、離れた!?」と涼の声。

 振り返ると、祭りの人波に押されて姿が見えない。


「涼ちゃん!?」

 

 声を張ったが、太鼓とざわめきにかき消される。


「……どうしよう」

「探しても見つからないよ。人、多いし」

「じゃあ、どうするんですか」

「せっかくだから、二人で花火見ちゃう?」


「そんな、のんきな――」

「……こっち」


 返事を待たず、玲央は颯真の手を引いて歩き出す。

 颯真は動揺を隠しきれないまま、握られた手をきゅっと反射で握り返してしまう。

 二人が辿りついたのは、屋台会場から少し離れた高台。


「ここなら、涼くんも探せたりして」

「……な、るほど」


 立ち止まった玲央の隣に立つ。

 足元には、先程までいた屋台の数々が広がっている。

 ただ、二人を包む空気はどこか静けさを纏う。


「全然、見つかる気がしな――」 

 

 言いかけた瞬間、夜空が一閃した。


 ドン――。

 腹の底が震える。

 暗い空を裂いて、青白い光の花が開いた。


 息を呑む。


 玲央の横顔が、その光を受けて浮かび上がる。

 いつもの柔らかい笑みが、今は静かな光の中で揺れていた。


「きれいだね」

「……はい」


 言葉がそれしか出なかった。

 頭の中も、胸の中も、すべてが光に包まれている。


「颯真」


 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。


 ――沈黙。


 玲央が視線を夜空からこちらへ戻す。


「やっぱり、一緒にいると退屈しないね」


 まっすぐな声だった。

 軽い冗談でも、気まぐれでもなく、

 たったひとつの本音みたいに響いた。


「……はい」


 ただそれだけで、世界の音が遠のいた。

 花火の音も、ざわめきも、心臓の鼓動さえも。

 残ったのは――玲央の声の余韻だけ。 


 次の花火が夜空を照らす。

 その青白い光が、ふたりの距離をほんの少しだけ近づけた。

 世界の輪郭が、青の中に溶けていった。


 胸の奥で、何かが弾けた気がした。

 音も、光も、もう聞こえない。


 ただ、隣にいる玲央の笑顔だけが、世界のすべてだった。


 ――また、青が咲いた。


 ◇ ◇ ◇


 花火が終わったあとも、夜空はまだ明るかった。

 遠くの余韻のように、煙の向こうで小さな光が瞬いている。

 屋台の提灯が一つずつ消えていき、祭りのざわめきが静まっていく。


「帰ろっか」


 玲央の声は、花火よりずっと穏やかで柔らかかった。

 人混みを抜けて歩道へ出ると、夜風が火薬の匂いを運んでくる。

 群青の空に、白い月がにじんでいた。


「そういえば、涼くんと連絡取れた?」

「ああ、うん。玲央さんといるって言ったら、変なスタンプ送られてきました」

「あはは、どんなの?見せて」


 颯真は、スマホを開いて玲央に画面を見せる。

 そこには、熱血そうなゆるキャラが〈がんばれ!〉とエールを送るスタンプ。


「ふは、本当に変」

「なにが頑張れだよ、まったく」


 ぼやく颯真の横で、玲央は喉を鳴らして笑う。


「楽しかった?」

「……はい。たぶん、今年で一番」

「それはよかった」


 そう言って、玲央が小さく笑う。

 その横顔が、月明かりに照らされて光っていた。 


「でも、疲れたでしょ。足、もう平気?」

「だいぶ。……たぶん、もう走れます」

「走るなよ。治りかけが一番危ない」

「……はい」


 ふと、ふたりの影がアスファルトに並んだ。

 街灯の青白い光が、まるで波のようにその輪郭を揺らしている。

 玲央の影が少し伸びて、颯真の影と重なった。


 胸の奥で、何かがきゅっと鳴った。


「……玲央さん」

「ん?」

「今日、会えて嬉しかった……ありがとうございます」

「ん、こちらこそ」


 言葉はそれだけ。

 なのに、空気の温度が少し上がった気がした。


 帰りの車内は静かだった。

 会話はないけれど、不思議と寂しくなかった。

 夜風が頬を撫で、遠くで虫の声が響く。

 世界がゆっくりと息をしているようだった。


 ◇ ◇ ◇


 家の前まで来ると、玲央が足を止めた。


「じゃ、また」

「……また」


 玲央は軽く手を上げ、車に戻る。

 ライトが点き、青白い光が道路を照らした。

 その光の中で、颯真は無意識に立ち尽くしていた。


 車が角を曲がって見えなくなるまで。

 心臓の鼓動だけが、夜の中に残った。


 ◇


 部屋の中もまた、静かだった。

 カーテンの隙間から、青い月明かりが差し込む。

 ベッドに寝転ぶと、まぶたの裏にまだ花火の光が残っていた。


 赤、白、そして――青。


 最後に夜空を裂いたあの閃光の色。

 それが、玲央の笑顔と重なって離れなかった。


 ――一緒にいると退屈しない。


 その言葉が、何度も胸の中で響く。

 意味なんてわからない。

 けれど、嬉しかった。

 痛いくらいに。


「……なんなんだよ、ほんとに」


 小さく呟く。

 声に出すと、少しだけ涙が出そうになった。


 枕元に置いた金魚の袋の水が、月の光を反射して揺れている。

 赤い魚が尾をひらめかせるたび、光の粒が天井に踊った。

 その瞬きが、花火の残り火みたいで、思わず笑ってしまった。


 水の中で金魚が光を掬うたび、部屋の空気もかすかに揺れた。

 静けさの中で、水音が心臓の音と重なる。

 この夜が終わるのが、少し怖い。 


 ――退屈しない。


 たった一人の言葉で、こんなにも世界が変わるなんて。

 その人を思い浮かべるだけで、夏の夜が眩しくなるなんて。


 目を閉じる。

 まぶたの裏に、青い残光がまた広がった。


 風がレースのカーテンを揺らし、遠くで鈴虫が鳴いた。

 静かな夜の底で、胸の鼓動だけが生きていた。


 ――これが“恋”なんだろうか。


 答えはまだ、わからない。

 けれど、心の中に確かに灯ったその“青”は、

 もう消えそうになかった。


 そして――

 その青は、まだ名前を持たないまま、夏の夜を照らし続けていた。

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