第4章 揺れる青


 あの夜から、ほんの少しだけ時間が経った。

 校庭には、蝉の声と夏の匂いが混じり始めている。

 梅雨が明けたばかりの陽射しは強く、空はどこまでも澄み切っていた。

 それでも、颯真の胸の中には、なぜか曇り空のような影が残っていた。


 教室の窓際の席。

 真っ青な空がガラス越しに広がる。

 白い雲の流れを目で追い、ペンの先をノートに走らせる。

 ――のはずだった。


 文字の途中で手が止まる。

 指先に力が入らない。

 頭の片隅に浮かぶのは、銀色の髪と、あの低い声。


 ――「気分」。


 あの日、玲央が笑って言った言葉が、今でも耳の奥で反響する。

 “気まぐれ”だと分かっているのに。

 それでも、また現れるんじゃないかと期待している自分がいる。


 ため息をついて、ノートを閉じる。

 青いインクがひとしずく、ページの端に滲んだ。

 その小さな青が、胸のざわめきを写しているように見えた。


「おい、颯真」


 隣から声をかけられて、はっとする。

 涼がペンをくるくる回しながら、にやりと笑った。


「お前、またボーッとしてただろ。……最近、多くね?」

「そんなことない」

「嘘つけ。顔に“考えごとしてます”って書いてある」


 軽口を叩かれて、肩をすくめる。

 涼の明るさが、少しだけ眩しかった。


「そういやさ、夏休みどうする? 大会も近いし、遊ぶ暇ねぇか?」

「まぁ、部活メインかな」

「真面目だなぁ。海とか祭りとか、青春っぽいことしようぜ」

「……考えとく」


 返事をしながら、窓の外をちらりと見る。

 プールの水面が太陽の光を反射して、眩しいほどに青く揺れていた。

 波紋がきらきらと踊る。

 ――あの夜の街灯と、同じ色だ。


「ん? どうした?」

「……なんでもない」


 視線をそらして笑う。

 けれど胸の奥では、形にならない何かが、静かにうごめいていた。

 名前をつけられない感情。

 それが、日ごとに少しずつ大きくなっている。


 放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気にゆるんだ。

 夏休み目前の浮き立つようなざわめき。

 友人たちの笑い声や、部活に向かう足音。

 そのすべてが、どこか遠くに感じられた。


 颯真は鞄を手に取り、廊下へ出る。

 窓の外は真っ青な空。

 風が吹き抜け、カーテンの裾がゆらめく。

 その揺れの中で、心の奥もわずかに波打った。


 ――「じゃ、また」


 あの夜に玲央が短く呟いた言葉が、ふいに胸をかすめる。

 自分でも気づかないうちに、またその名前を探していた。


 ◇ ◇ ◇


 体育館に響くバスケットシューズの音が、夏の午後を切り裂く。

 湿った空気の中、ボールが床を叩くたびに、汗の粒が飛び散った。


「ナイスパス! 高瀬、打て!」

「……っはい!」


 颯真の放ったボールがリングを弧を描いて吸い込まれる。

 チームメイトの歓声が一斉に上がった。

 照明に照らされた木の床が、汗と反射で青白く光っている。

 その光が波のように揺れて、どこか海を思わせた。


 ――あと一本。


 顧問の笛が鳴り、練習試合の最終プレー。

 速攻の流れの中、颯真は味方のパスを受けて跳び上がった。

 だが、着地の瞬間。


「……っ!」


 足首に鈍い衝撃が走った。

 右足がぐらりと傾き、床に手をつく。

 視界が一瞬、白く霞んだ。


「高瀬!?」

「……大丈夫、平気」


 すぐに立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

 それでも笑って見せる。

 「大したことない」と。


 顧問が近づき、「無理するな、冷やしてこい」と言う。

 颯真は「すぐ戻ります」とだけ答えて、体育館の隅へ移動した。

 タオルで汗を拭い、深呼吸。

 痛みを押し殺すように、拳を握る。


 ……これくらい、我慢できる


 弱音を吐いたらなにかが崩れそうで、汗と一緒に無理やり不安を流し込んだ。

 

 練習後、氷嚢を軽く当てただけで靴を履き直す。

 涼がバスケットゴールの下で声をかけてきた。


「お前、さっきの転び方やばくね?」

「見てたの……平気だって」

「ほんとに?絶対、無理すんなよ」

「……わかってる」


 そのやり取りの最中も、痛みは静かに広がっていく。

 歩くたびに、足の奥で熱が膨らむような感覚。

 それでも、帰る方向だけは変えられなかった。


 ――このまま、いつもの帰り道を歩こう。

 それがなぜか、決まりごとのように思えた。


 ◇ ◇ ◇


 校門を出る頃には、空の色がゆっくりと橙から群青へと変わっていた。

 痛む足をかばいながら、ゆっくりと歩道を進む。

 街路樹の影が長く伸びて、アスファルトの上に淡い青の帯を作っている。


 ふと、門の外で見慣れた姿が目に入った。


「……あ、」


 銀色の髪が夕陽を受けて光っていた。

 ポケットに手を突っ込みながら、こちらを見つめる男。


「やぁ」


 声を聞いた瞬間、胸の奥が跳ねた。


「玲央さん……なんでここに」

「気分」


 また、それだ。

 でも、前とは違って聞こえた。

 まるで“理由なんていらない”と言われているようで、どこか心が安らぐ。


「部活だった?頑張ってるね」

「……まぁ」


 玲央は颯真の歩き方を見て、すぐに表情を変えた。


「……それ、痛いでしょ」

「え?」

「右足。びっこ引いてる」


「だ、大丈夫ですよ。さっき冷やしたし。」

「本当に?」


 そう言うと、玲央はふっと笑って、颯真の手を取り、何も言わずに歩き出した。


「ちょ、ちょっと!」

「ほら、いいから座って」


 道端の縁石に促されるまま腰を下ろす。

 玲央はコンビニに駆け込み、すぐに冷却スプレーと湿布を手に戻ってきた。

 膝を折って、颯真の足元にしゃがみこむ。


「靴、脱げる?」

「え、いや、自分で――」

「いいから」


 抵抗する間もなく、玲央の指先が靴紐を解いた。

 指の動きがあまりに自然で、妙に慣れている。

 シュッという音とともに、冷たいスプレーが肌に触れた。


「ひゃっ……!」

「ごめん、ちょっと冷たいよね」


 玲央の声が優しく笑う。

 その笑みが、どんな言葉よりも安心をくれた。


「……なんで、そんな手慣れてるんですか」

「酔っ払いって、よく転ぶんだ。だから応急処置くらいは、自然に覚える」

「そんな理由ですか」

「そんな理由で、十分でしょ」


 冗談めかした声の中に、どこか温かい色があった。

 颯真は顔を上げる。

 目の前にいる玲央の横顔が、夕暮れの群青に染まっていた。


「……ありがとう、ございます」

「どういたしまして」


 玲央は立ち上がり、手を差し出す。

 

「立てる?」

「はい、多分――」


 その手を取った瞬間、指先が触れた。

 ほんの一瞬なのに、全身に電流が走るような感覚。

 心臓の音が、自分でもうるさいほど響く。


 玲央は軽く笑い、肩を貸して歩き出す。


「おんぶしようか?」

「い、いらないです!」

「じゃ、肩で我慢して」

「我慢ってなんですか、それ……」


 照れ隠しの言葉が、熱を帯びた空気に溶けていく。

 群青の空の下、街灯がぽつぽつと青白く灯り始めた。

 歩くたびに影が揺れて、ふたりの距離がわずかに近づく。


 玲央の肩に触れた部分から、全身が熱を持つ。

 それが足の痛みなのか、別のものなのか、もうわからなかった。


 ◇ ◇ ◇


 ドアを閉めた瞬間、蝉の声が遠のいた。

 家の中の空気は、外よりも冷たくて、静かすぎた。


 リビングから母の声が飛ぶ。

 

「おかえり、部活どうだった?――って、ちょっと!その足どうしたの!?」

「ちょっと捻っただけ。たいしたことないよ」

「たいしたことないって!すぐ病院行くよ!」

「明日でいいってば……」


 慌てふためく母をなだめながら、ソファに腰を下ろす。

 さっき玲央に巻かれた湿布の匂いが、ふわりと立ち上った。

 薄荷の冷たい香りの奥に、彼の香水の残り香が微かに混じっている。


「ほんとに大丈夫?」

「うん。ちょっと冷やせば治るから」

「絶対明日行くのよ。――お兄ちゃんに連絡しとかないと」

「大袈裟だって!」


 母の声が廊下に遠ざかる。

 その背中を見送りながら、颯真は自分の足首を見つめた。

 白い包帯の端から、玲央の手の感触がよみがえる。


 ――あの人、どうしてあんなに自然なんだろう。


 優しいのに、近すぎる。

 近いのに、掴めない。

 言葉では説明できない“温度”だけが、皮膚の奥に残っていた。


 階段を上り、自分の部屋へ入る。

 机の上には開きかけのノートと、昨日のままのシャープペン。

 カーテンの隙間から、薄い青の光が床を照らしていた。

 夕暮れと夜の間――その曖昧な色の中に、心が沈んでいく。


 ベッドに倒れ込み、足を少し高くして寝転ぶ。

 天井の白がぼやけて見えた。


 ――「ちゃんと病院行きなよ」


 帰り際、家の前でそう言った玲央の声が、耳の奥で柔らかく反響する。

 口調は軽かったのに、不思議と“心配してくれた”という実感が残っていた。


 枕元のスマホを手に取る。

 何を開くでもなく、ただロック画面の青白い光を眺める。

 その光が顔に落ちて、夜の静けさに溶けた。


 ……なんで、あんなに気になるんだろう


 考え始めた途端、胸の奥がざわめく。

 「気まぐれ」でしか動かない人のはずなのに、なぜかその言葉の裏に“優しさ”を見つけてしまう。


 窓の外では、風がゆるやかに吹いていた。

 レースのカーテンが揺れて、青い月の光が壁に流れる。

 その揺れを見ていると、まるで心の中まで、静かに波立っていくようだった。


 ――僕は、どうしたいんだろう。


 小さく息を吐く。

 その問いは、声にならなかった。

 でも、確かに胸の内で形を持ちはじめていた。


 思い出したくないような、思い出していたいような。

 痛みと安堵が、同じ場所にある。

 それが“恋”というものなのかどうかは、まだわからなかった。


 目を閉じると、まぶたの裏に青い残光が広がる。

 その中で、玲央の笑顔がゆっくりと滲んでいった。


 ――また、会えるかな。


 そんな言葉を胸の奥でつぶやいて、颯真は静かな夜の底へと沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。

 病院の待合室は、真夏の日差しを跳ね返すように白く光っていた。


 診察の結果は「軽度の捻挫」。

 安堵と同時に、医師の一言が胸に刺さった。


 ――しばらく安静に。大会は難しいでしょうね。


 その瞬間、胸の奥で何かが静かに落ちた。

 音もなく、でも確実に。


 涼が待ってくれていた。

 

 「マジか……お前、スタメンだったのに」

 

 彼の言葉は責めるでも慰めるでもなく、ただ真っ直ぐだった。


「仕方ないよ」

 

 颯真は笑って答えた。

 その笑いは、自分でもわかるほど不自然だった。


 窓の外で、夏の風が木々を揺らす。

 葉の隙間からこぼれる光が、青く白く滲んで見えた。

 空があんなに綺麗なのに、胸の奥だけが重かった。

 足首よりも先に、胸の奥が痛んだ気がした。


 ◇ ◇ ◇


 夏休みに入ってからの毎日は、想像していたより静かだった。

 友人たちは部活に行き、グループチャットには練習の動画や冗談が流れる。

 涼からも「大会終わったら打ち上げな!」とメッセージが届いた。


 嬉しいはずなのに、画面を見てもうまく笑えない。

 返信の文面を何度も打っては消した。


 ――頑張れ。

 ――行けたら行く。

 ――応援してる。


 どれも嘘にはならないけど、本当でもなかった。


 窓の外は、溶けるような青空。

 太陽の光が真っ直ぐに差し込んで、カーテンの影まで白く染めていた。

 部屋の中の空気が止まっているようで、時間の流れがどこか遠く感じられた。


 机の上には、まだ治りかけの足首の包帯。

 その白がやけに目に付いた。

 玲央に巻かれた感触が、まだ皮膚の奥に残っている気がした。


 ……また、会えるかな。


 再び、何度も反芻している言葉が浮かぶ。

 声に出すと、部屋の静けさがより濃くなった。


 ◇ ◇ ◇


「颯真ー! スイカ切ったよー!」


 階下から母の声。

 「今行くー」と答えて立ち上がる。

 足を引きずるほどではないが、まだ完全には治っていなかった。


 リビングのテーブルの上には、赤く光るスイカが並んでいる。

 扇風機の風が切り身の水滴を揺らし、涼しげな香りが漂った。


「外、暑いからね。もう少し部屋で休んでなさいよ」

「うん」

「退屈でしょ? 本でも読む?」

「……まあ、そうするか」


 笑ってごまかした。

 母が気を遣ってくれるのが、かえって胸にしみた。


 退屈。

 そう、きっとそれだけのはずだった。

 なのに、心の奥では別の名前を探している。


 涼でもなく、家族でもなく。

 ――玲央。


 思い出した瞬間、胸がわずかに疼く。

 痛いのか、恋しいのか、自分でもわからなかった。


 ◇ ◇ ◇


 夕方。

 影が長く伸び、風が少しだけ涼しくなる。

 母が出かけて、家には自分ひとり。


 冷蔵庫の音と時計の針の音だけが響いている。

 退屈というより、“空白”に近かった。

 静けさの中で小さくため息をつく。


 外からは蝉の声。

 その合間に、車のエンジン音が微かに混じった。


 ――ブゥン。


 静かな住宅街では、その音さえ大きく聞こえる。

 何気なくカーテンの隙間から外を覗く。


 家の前に、見覚えのある車が止まっていた。

 シルバーのボディが、夕暮れの光を受けて淡く輝く。


 心臓が一拍遅れて跳ねた。


 ドアが開く。

 運転席から降りてきたのは、やっぱり――。


「……玲央さん?」


 言葉が漏れるのと同時に、玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


 音が、夏の静けさを破る。

 胸の奥の空白が、一瞬で色を取り戻した。


 慌てて玄関まで降りる。

 扉を開けると、玲央が立っていた。


 白いシャツの袖をまくり、片手にはペットボトルのスポーツドリンク。

 日焼けひとつない肌に、相変わらずの穏やかな笑み。


「退屈してない?」


 その一言で、世界が少しだけ息を吹き返した。


「な、なんでここに……」

「気分」


 また、それだ。

 けれど、今回は――少し嬉しかった。


「乗る? ドライブ」

「え、でも……」

「外、気持ちいいよ。ほら、足痛めてても俺がエスコートするよ?」


 軽く指をさされる。

 反論しようとした声が、喉の奥で消えた。


 玲央の車の向こうで、夜がゆっくりと沈み始めている。

 空の青が、街灯の青白い光に溶けていく。

 胸の奥で、またあの日の鼓動が甦った。


「……ちょっとだけ、なら」

「はいはい、“ちょっとだけ”ね」


 玲央が微笑む。

 その笑みは、夏の終わりの空みたいに穏やかで、どこか切なかった。


 颯真は靴を履き、玄関を出た。

 夕風が髪を揺らす。

 車のドアが開かれ、青白いメーターの光が夜気の中で瞬いていた。


 ――また、非日常が始まる気がした。

 

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