第3章 きらめきの青
あの日から、胸の奥に小さなざわめきが住みついた。勉強中も、部活中も、ふとした瞬間に、あの人の声が蘇る。
――また会いに来てもいい?
あの言葉を思い出すたびに、胸の奥が少しだけ熱を持つ。
そして今日、テスト最終日の放課後。蝉が鳴くにはまだ早い初夏の空気に、光が淡く揺れていた。
「終わったぁぁぁ……! もう勉強したくねぇ!」
教室のあちこちで、開放的な叫びが上がる。答案用紙よりも、誰かの笑い声の方が軽やかに響いていた。
颯真は、ペンをペンケースにしまいながら、静かに立ち上がる。机の上には整理されたノートと、きれいに積まれたプリント。
涼が隣から顔を覗き込んだ。
「なあ颯真、これで放課後は自由だぞ。どうする?カラオケでも行く?」
「遠慮しとく」
「またそれ。……もしかして、例の“約束”とか?」
その一言に、颯真の指がぴくりと止まる。
涼はそれを見逃さない。にやりと笑って、肘で小突いた。
「おいおい、図星? マジで来るのかよ、あの人」
「……来ないって。そんな、わざわざ」
「いやいや、あの人なら来る気がするんだよな~
あの目、なんかそういうタイプっぽかったし」
涼の軽口を流しながら、颯真は鞄を肩に掛けた。
心臓が、ほんの少し速く打っている。“来るわけない”と、何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど――校門の方を見ずにはいられない。
昇降口を抜け、校庭へ出る。夕陽がグラウンドの白線を金色に照らしていた。
帰宅部の生徒たちが笑いながら駆けていく。
ふと、風が頬を撫でた。その風に、微かに香水の匂いが混じっていた。
――まさか。
視線を上げた瞬間、銀の髪が光を跳ね返した。校門の外、歩道に背を預けるようにして立っている。
その姿を見た途端、胸の奥で音が弾ける。
「……ほんとに、来たんだ」
思わず口から零れた呟きを、涼が拾う。
「マジで来てんじゃん! すげぇ、映画かよ!」
涼の声に気づいた玲央が、こちらを見て微笑む。
片手を軽く上げて、まるで舞台の幕が上がるような仕草で手を振った。
その一挙一動が、いつもよりも少しだけ柔らかい。
「行かないん?」
「う、うるさい」
涼の茶化す声を背に、颯真は一歩を踏み出した。制服の裾を風が揺らす。
たった数メートルの距離が、やけに遠く感じられる。
玲央の隣に立つと、彼はいつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「テスト、お疲れさま」
「……なんで、知ってるんですか」
「だって、待ってたから」
その一言が、軽く胸を突く。
からかうでもなく、まっすぐに言われた“待ってた”という言葉。
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
「……それにしても、颯真って真面目だね」
「……?」
「テスト明けくらい、もうちょっと気を抜いていいのに」
玲央は笑いながら、街の方へと歩き出す。その背中を見て、颯真は自然と足を動かした。横に並ぶと、玲央の香水の匂いがふわりと漂う。
「ねえ、散歩でもしない? 学校の近く、案外いいカフェあるんだ」
「……またお茶ですか」
「いいじゃない。前回は俺の奢りだったし、今回は颯真の番ね」
「えっ」
驚く颯真を見て、玲央が声を立てて笑った。
その笑いが、夕暮れの空気をやさしく弾ませる。
「冗談だよ。今日はね、ただ歩きたくて来た」
「歩く、ために?」
「そう。――颯真と」
不意に言葉を継がれて、颯真は息を呑む。
玲央は振り返らず、淡く笑ったまま歩き続けた。
街灯の青白い光が、彼の銀髪をやわらかく照らしている。
“普通の放課後じゃない”――その実感が、ゆっくりと胸に広がっていった。
◇ ◇ ◇
街を抜ける風が、昼よりも少しだけ涼しくなっていた。
歩道のアスファルトはまだ陽の名残を留めていて、足音がかすかに反響する。
玲央は歩くたびに軽やかにポケットへ手を入れたり出したりして、まるでその一歩一歩で時間のリズムを測っているようだった。
「美味しかったね」
「うん、僕結構固めのプリン好きです」
「へぇ、覚えておくね」
新しく開拓したカフェからの帰り道。
他愛もない会話をしながら、颯真は玲央の歩く方向へ付き従う。
本当に、気の向くままといったふうに、ただ歩くだけの時間。
ビルのガラスに映った夕空が、群青へと溶け始めていた。
しばらく歩くと、開けた駐車場が現れる。
玲央は慣れた様子で歩を進め、ポケットから鍵を取り出す。
「ねぇ、次はドライブしようか」
「えっ……今から、ですか?」
「うん。夜風、気持ちいいよ。ほら」
玲央は目の前でキーを軽く回して見せる。
その仕草が自然すぎて、まるで昔からの約束みたいに感じられた。
颯真は一瞬だけためらったが、うなずいて助手席に乗り込む。
エンジンの音が低く響く。
ラジオから流れる曲は、どこか懐かしいメロディだった。
窓の外を、街の灯がゆっくりと流れていく。
「……すごい」
無意識の声だった。
見慣れた街なのに、車の窓越しに見るとまるで別の世界みたいに見える。
信号の赤も、コンビニの看板の光も、どれも宝石のように滲んで、夜の空気の中で瞬いていた。
「映画みたいだ……」
小さくこぼれた言葉に、玲央がくすっと笑う。
「姫のお気に召したかな?」
「……またその呼び方」
「だって可愛いじゃん」
「可愛くないです」
即答する颯真に、玲央は声を立てて笑った。
その笑いはいつもの軽さより少し柔らかく、窓の外の夜風と同じ温度で胸に落ちる。
赤信号で車が止まる。
玲央は片手でハンドルを支えながら、もう片方の手で窓を少し開けた。
涼しい風が車内に流れ込み、髪を揺らす。
「テスト終わって、少しは解放された?」
「……まぁ、そうですね」
「そっか。俺は昔、テストとか嫌いだったなぁ
……あ、でも“終わったあと”の空気は好きだった」
「わかる。なんか、世界が少し広くなる感じ」
「いい表現するね」
玲央は笑いながら、信号が青になるのを待つ。
青の光がフロントガラスを染め、二人の横顔を照らした。
その一瞬、言葉がなくても何かが伝わった気がした。
◇
海沿いの道の先、灯りの少ない小さな防波堤に車を止めた。
エンジンを切ると、波の音だけが残る。
玲央は窓を少し下げ、肘をついて外を眺めた。
「……この海、昔よく来てたんだ。」
「昔って?」
「学生の時。眠れない夜とかにね」
「へえ。今も眠れないんですか」
「どうだろ。最近は、眠りたいって思うようになった。」
その横顔は、街の光に照らされた時よりもずっと静かで、遠くを見ていた。
颯真は胸の奥に、名前のない感情が生まれていくのを感じた。
――この人は、まだ何かを探している。
玲央がカーステレオの音量を少し上げる。
低いベースの音が車内を包み、波のように胸に響く。
「星、多いね」
「うん。――この辺り、灯りが少ないからよく見えるんだ」
玲央は目を細めて夜空を見上げた。颯真もつられて顔を上げる。
ガラス越しの星はどこか遠くて、それでも手を伸ばせば届きそうで。
その光を追うように、玲央の指先がステアリングを軽く叩く。
「ねぇ、颯真」
「はい?」
「こういう時間、嫌い?」
「……嫌いじゃないです、けど」
――なんだよ、その質問!
答えた声が、思っていたよりも小さかった。
玲央は笑って頷く。
「そっか。俺も」
ほんの一瞬、車内の空気が変わる。
言葉の温度が夜風と混ざって、何かを包み込むような静けさが訪れた。
颯真は窓の外を見つめながら、胸の奥に広がるきらめきをうまく言葉にできなかった。
ただ、光が揺れるたびに、その全てが新しくて、少し怖くて、どうしようもなく綺麗だと思った。
――普通の放課後じゃない。
その確信だけが、心の中で確かに光っていた。
◇
夜の光を抱いたまま眠ったせいか、朝の世界はどこかまぶしかった。
翌朝の校舎は、いつもより明るく見えた。
窓ガラスに映る光が強く、教室の埃まできらめいている。
涼が「お前、なんか機嫌いいな」と笑う。
「別に」
言いながら、頬が少し熱くなる。
昨日の夜の光景が、胸の奥で何度も再生されていた。
風の音。窓の青。信号の光。全部が同じ温度を持っていた。
世界が変わったわけじゃない。
――ただ、自分の目が、少し違う色を見つけたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
それから、玲央は現れなかった。
あの夜のきらめきが嘘みたいに、時間は静かに流れていく。
朝のチャイム、ノートの音、昼休みの笑い声。いつも通りのはずなのに、どこか少しだけ違って見えた。
授業中、ペンの先をノートに置いたまま、ふと手が止まる。
青いインクが小さな滲みを作る。
その丸いしみをぼんやりと見つめながら、胸の奥で小さな声が響いた。
――次は、いつ来るんだろ。
頭のどこかで否定する声がする。
「来る」とも「来ない」とも言われていない。
だから、気にする必要なんてない。
……そのはずなのに。
窓の外、澄んだ青空が広がっていた。
どこまでも高く、透明で、見ているだけで吸い込まれそうになる。
玲央が見上げて笑っていたあの夜の星空と、同じ“青”のはずなのに、どうしてか今日は遠く感じた。
「おい颯真、次のページだぞ」
涼の声に我に返る。慌ててノートをめくると、黒板の文字はもう半分消されていた。
いつもなら取り逃すことなんてないのに――。
授業が終わると、机の上のシャープペンがやけに軽く感じた。
集中していた時間の重みがない。
ただ、“何かを待っていた”時間のような空白だけが残る。
◇
放課後。
涼と一緒に下駄箱を出る。
外はまだ明るく、白い雲が緩やかに流れている。
「なあ、今日こそカラオケ行こうぜ」
「……うん、また今度」
「またそれか。最近ずっと“また今度”だな」
涼が呆れたように笑う。
あれから、数日はにたにたと玲央との事をいじってきたが、現れなくなってからしばらく経つといじる事をやめ、部休日の度にカラオケに誘ってくるようになった。
心優しい親友だ。
下駄箱を出て、門へ向かう。
その途中、気づけば視線が自然に校門の外を探している。
歩道、街角、バス停。
どこにも、あの銀の髪はなかった。
「いるわけない」
そう言い聞かせながらも、胸の奥でかすかな落胆が生まれる。
足元に落ちた影が、夕陽を受けて長く伸びた。
日が暮れるのが少しずつ遅くなってきた。その日の空は、淡い青と橙がまざり合っていた。
玲央がいたあの夜の“濃い青”とは違う、どこか心もとなくて、掴めない色だった。
「颯真ー! 早く帰んぞー!」
「わかってるって」
涼の声に促され、鞄を肩に掛ける。背中を押す風が、ほんの少し冷たかった。
◇
帰宅しても、部屋は静かだった。
机の上には開きっぱなしの参考書。
時計の針の音が、やけに大きく響く。
ペンを取って問題集を開く。
けれど、ページの文字がまったく頭に入ってこない。
知らないうちに、スマートフォンの画面を何度も点けては消していた。
SNSを開いても、メッセージが来ているわけじゃない。
そもそも、未だ連絡先を交換していないのに――
「……バカみたい」
自分で呟いて、笑う。
その笑いは、乾いていた。
窓の外を見やると、夜の街が遠くに滲んでいる。
高台の上から見た夜景――
あの光のひとつひとつの中に、今も玲央がいるような錯覚を覚える。
胸がざわついた。
理由はわからない。
ただ、静かな夜が少し息苦しかった。
ベッドに潜り込み、天井を見つめる。
スマホの画面が、布団の中で青白く光った。
その光が顔を照らし、目を細める。
指先で画面をなぞりながら、誰にも届かない言葉が唇の奥で零れた。
「……また、会えるよな」
その言葉が空気に溶けて消える。
部屋の明かりを落とすと、夜の群青がゆっくりと広がっていった。
静寂の中で、心のざわめきだけが、かすかに青く光っていた。
◇ ◇ ◇
そんな日々が、しばらく続いた。
待つことに慣れた頃、颯真は放課後の空を“確認する”癖がついた。
校門を出る前に一度、空を見上げる。
信号が青になると、胸の奥がわずかにざわめく。
あの青の先に、あの人を探している。
それだけで一日が少し長くなった。
そうしているうちに、颯真はようやく心のざわめきをやり過ごせるようになっていた。
――そう思っていた。
放課後、下駄箱を抜けて校門を出る。
空は茜から群青へと変わる途中で、遠くの電柱の上に最初の星がひとつ光っていた。
制服の襟を風が撫でる。
そのときだった。
「やぁ、坊や」
唐突に耳に届いた声。
反射的に振り返る。
「わっ……!」
心臓が跳ねた。
街角の影に寄りかかるようにして、玲央が立っていた。
淡い光を受けた銀髪が、夕焼けに淡く光っている。
「……なんで」
「ふふ、会いたくなっちゃって」
いつも通りの軽い調子。
けれど、その言葉に胸の奥の何かが一気に解けた。
安堵、という名の感情がじんわりと広がっていく。
思わず目を逸らして、俯く。
声が少しだけ震えた。
「……急に来るから、びっくりするじゃないですか」
「ごめんごめん。でも、驚いた顔も可愛かったよ」
「……からかわないでください」
頬に熱が灯る。
それでも、心のどこかで笑っている自分がいた。
◇
夕暮れの街を、並んで歩く。
アスファルトに残る陽の光がゆっくりと薄れていく。
ポツポツと街灯が灯り始め、白とも青ともつかない光が歩道を照らしていた。
「なんで今日なんですか?」
颯真の問いに、玲央は少し首を傾げて笑う。
「気分」
「……やっぱり、そうですよね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さな痛みが走る。
“気分”
それは玲央らしい答えなのに、なぜか、思っていたよりも重たく響いた。
――やっぱり、特別扱いじゃない。
……いや、そんなの、そもそも期待していなかったはず、なのに。
そう思った自分に、颯真は小さくどきりとする。
期待していたんだ、と気づいてしまった。
風が少しだけ冷たくなる。
歩道の青い街灯が二人の影を細く延ばした。
◇
駅前の広場に出ると、屋台の甘い匂いが漂っていた。
たい焼きの香ばしい匂いに、颯真の視線が吸い寄せられる。
「……食べたい?」
「え、いや、その、ちょっとだけ」
「じゃ、行こ」
玲央はためらいもなく屋台へ向かい、財布を取り出す。
注文を済ませ、店主に軽く会釈する仕草まで妙に様になっていた。
「はい、お姫様の分」
「だから、その呼び方やめてください!」
たい焼きを受け取った颯真は、むっとした顔で言い返す。
玲央が楽しそうに笑った。
「じゃあ、颯真」
「……うーん、なんか、近すぎる」
「難しいなぁ」
冗談を交わしながら歩き出す。
熱々のたい焼きを半分に割って、あんこの香りがふわりと広がる。
「うま」
「ね、焼きたては格別」
玲央が軽く口元を拭う仕草に、颯真は視線を逸らした。
その横顔を見ていると、どんな言葉も軽やかに聞こえる。
周囲からの視線が気になった。
高校生と、少し年上の男。
並んで笑っているだけなのに、どこか浮いて見える気がした。
「……なんですか」
「ん?」
「さっきから、にやにやして」
「颯真って、ほんとに表情がわかりやすいね」
「うるさいです」
照れ隠しに食べかけのたい焼きをもう一口頬張る。
熱さに目を細めると、玲央が小さく吹き出した。
◇
家の近くまで戻る頃には、空はすっかり夜の色になっていた。
街灯の青白い光が、二人の間を静かに照らしている。
「ここまででいいです」
「ううん、送らせて」
玲央はいつもの調子でそう言うと、家の前まで歩いてきて立ち止まった。
「じゃ、また」
「……うん」
短い返事の中に、たくさんの言葉が詰まっていた。
ありがとう。
嬉しかった。
また会いたい。
――けれど、どれも声にはならなかった。
玲央が手を振り、ゆっくりと背を向ける。
その姿が角を曲がって見えなくなるまで、颯真は立ち尽くしていた。
胸の奥が温かい。
けれど、どこか切ない。
小さく息を吐いて、夜空を見上げる。
青い街灯の光が瞳に反射して、星のように瞬いた。
――ほんと、なんなんだよ……この人。
その言葉が、夜風の中に静かに溶けていった。
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