第2章 予感の青


 一晩明けても、颯真は昨夜の余韻から抜け出せずにいた。

 月明かりに照らされた横顔、笑い声、あの、銀の髪。

 どれも現実だったのか、夢だったのかわからない。

 

 気づけば、本日最後の授業。

 テスト前恒例の自習の時間。

 クラス内の集中力はすでに切れていて、教室の至る所からコソコソと私語を挟む声が聞こえている。


 颯真は、思考は落ち着かないものの、教室の空間に身を置くと、自然といつも通り綺麗な姿勢で机に向かうことができた。

 しかし、授業終了20分前、せっかくの颯真の集中を遮ったのは、前の席に座る涼だった。


「なあ、颯真、放課後遊びに行こうぜ。」

「いや、行かないよ。」


 即答する。間髪入れずに。

 「えー、つれないなぁ」と涼が唇を尖らせた。


 完全に集中を切らして姿勢を崩す涼を一瞥して、颯真は再び視線をノートの上に戻す。

 そんなことでは諦めない涼は、肘をついて、颯真の顔を覗き込んだ。


「どうしてもダメ?」

「どうしてもダメ。全然可愛くないし。それに――」


 脳裏に、あの銀髪の青年が浮かぶ。

 月光を受けた横顔。声。香り。 


「昨日、全然家で集中できなかったから、今日はちゃんとしないと。」

「……お前が?集中できなかった?」

 

「まあ、色々あったの。」


 珍しく言葉を濁し視線を泳がせる颯真に、涼はすかさず食いついた。その表情は、面白いおもちゃを見つけた子供のそれとよく似ていた。

 しまった。と颯真の思考が察知した頃には、もう遅い。


「逃がさないぞ、詳しく聞かせろ。」

「いやだ。」


 拒否する颯真を逃すまいと、涼は完全に身体を颯真の方へ向ける。


「真面目ちゃんのお前が、勉強に集中できないなんてよっぽどだろ。そんなおもしろそ――重要な話、この俺が大人しく引くと思うか?」


 面白がっているのを隠しきれていない親友をじとりと睨み、颯真はため息をついて、観念したように昨日の出来事を語り始めた。


 ◇


「――てなことがあって、なんかずっと、その人のことが頭から離れないんだよ。」


 颯真は、佳代との出会いから、玲央との遭遇、突如訪れた3人での団欒…一部始終を語り終えると、再び大きなため息をつく。

 しかし涼は途中から、別のことに気づいていた。


「って、聞いといて興味無いなら聞くなよ…」

「いや、颯真


 ――それってさ、銀髪で派手な格好している人?」


 その発言を聞いて、颯真は大きく目を見開く。


「なんで、っ……なんで知ってるんだよ!」


 思わず大きな声が出そうになったのをぐっと堪えて、颯真は涼に食いつく。

 涼は、視線だけ颯真に戻すと、涼しい顔をしてくいっと窓の外を顎で指す。

 促されるまま視線を外へ移すと、校門の方には、昨夜からずっと頭から離れない青年の姿があった。


「えっ!」


 ついに、颯真は大きな声をあげてしまい、慌てて手で口を塞ぐ。その様子に、涼はにやにやしながら颯真を小突いた。

 

 颯真は我に返って、周囲に意識を向けると、クラスの女子や、体育で外にいるクラスの女子たちのざわつく声が聞こえてくる。

 その視線は、言わずもがな、門の方にいる玲央に注がれていた。

 

 急に襲ってきたあまりの情報量に、颯真の微睡の午後はどこかへいってしまう。


 ――胸の奥で、何かが静かに鳴った気がした。退屈な日常の外から、青い足音が近づいてくるように。


 ◇


 颯真の困惑が落ち着かないままに、終業のチャイムが鳴り、最後のホームルームの時間も呆然としている間に終わっていた。

 固まってしまっている颯真をよそに、涼はそそくさと荷物をまとめ、「帰るべ」と颯真を急かす。

 

 もちろん、涼は完全に面白がっていた。

 

 半ば涼に引きずられるようにして、下駄箱へ辿り着く。一瞬、意識を取り戻した颯真は、何かの見間違いではないかと、もう一度“彼”がいたような気がする場所へ目を向ける。

 

 もちろん、玲央の姿がそこにはあった――。


「…お前、狙われてんじゃね?」

「は!?いや、違うって!」

「ふはは、まあまあ、直接聞いてみようや。」

「いや、ちょっと待って!涼ちゃん――!」


 靴を履き終えた涼は、学生鞄を肩からかけて、一直線に校門の方へと歩を進める。颯真は、慌てた様子で、バタバタとその背中を追いかけた。


 ◇


 校門の前、玲央は背を預けて立っていた。

 こちらに気づくと、ひらひらと手を振ってきた。


「昨日ぶりだね、颯真。」

「っ…」


 名前を呼ばれ、びくりと肩が震える。

 玲央は楽しそうに笑った。


「ど、どうしてここに?」


 涼に肘で突かれた颯真は、かろうじてその問いを口にする。


「颯真の顔が浮かんだから、来ちゃった。」


 玲央は、昨日と同じ煌びやかな笑顔で、飄々と答えた。その発言に、ますます硬直する颯真の横で、涼は肩を震わせて笑っている。


「散歩にでも誘って、2人でお茶しようと思っていたんだけど…先約があったかな?」


 わざとらしく困ったような表情を浮かべて首を傾げる玲央のその仕草は、先ほど教室で涼がした仕草と似ているようでとても似つかない。


 やはり、ここらでは見かけることのない華やかなオーラを放っていた。

 

 混乱の最中にいる颯真は、一瞬その言葉を理解するのに時間を要したが、はっとして、涼の腕をがしりと掴むと、大きく頷いた。


「そ、そうです!僕、この後涼ちゃんと――」

「いや、全然ないっすよ、先約なんて。」

 

「おい…!」


 非情にも、涼は腕を掴んだ颯真の手をひっぺがして、玲央へと差し出す。


 ――この、裏切り者!!


 颯真は、内心でそう叫びながら、涼を睨みつける。

 

 涼は、相変わらずからかいの笑みを浮かべて、ぐい、とさらに玲央の方へ颯真の腕を引っ張った。玲央は、満足そうに微笑むと、恭しくその差し出された手を取る。


「それじゃあ、姫。ついておいで。」

「や、やめろそれ!!!」

「おや」

「ぶはっ!」


 取られた手を振り払いながら叫ぶ颯真に、これまたわざとらしく驚いた顔をする玲央と、いよいよ我慢できず吹き出す涼。

 周囲の学生たちの視線は、ざわざわと集まり始めていた。


 耐えきれなくなった颯真は、顔を真っ赤に染めて、その場から逃げるように早足で歩き出す。その後ろ姿を、玲央は楽しそうに目で追う。


「……何やってんですか!行くよ、もう!」


 颯真は振り向いて、玲央を急かす。


 ――あ、行く(行ってくれる)んだ。


 涼と玲央は、なんとなく同じことを考えた気がして、視線を合わせて笑い合う。

 そのまま、玲央はゆったりとした足取りで颯真を追う。涼は、ぷりぷりと歩くその後ろ姿に、これでもかというほどの満面の笑みで手を振った。


「楽しんでこいよー!」


 わざとらしい大声を背に、颯真は耳まで真っ赤にして歩くスピードをさらに早めた。


 ◇ ◇ ◇


「ねえ、どれにする?」


 数刻後。涼と玲央の二人に押し切られる形で、颯真は玲央とともに、商店街の外れにある昔ながらの喫茶店へと訪れていた。


 二人がけのソファに腰をかけて、玲央がメニュー表を差し出す。その光景は、明らかに異彩を放っている。

 

 やけくその颯真は、「同じのでいいですよ」と無愛想に答えて、そっぽを向く。

 その様子に臆する様子もなく、玲央は慣れたふうに店員を呼びよせ、注文を済ませる。

 注文を終えると、颯真と距離を詰めるよにして座り直した。颯真は、それを避けるように距離を空ける。


「ふふ、緊張しているのかな、姫。」

「っ、いちいち近い!」

「はは、反応が可愛くてつい。」

「〜〜〜っ、!」


 ここまでくると、もはやどんな反応もからかわれそうで颯真は言葉を失う。


 そもそも、喫茶店という空間もほとんど初めての経験で、颯真は落ち着かない。それに比べて、優雅にソファへもたれて近くにあった雑誌にパラパラと目を通す玲央の姿は、さながら映画のワンシーンのようである。

 

 しばらくして、二人の座るテーブル席には、二人分の飲み物と、二種類のケーキが運ばれてきた。一つは大きな苺が乗った王道のショートケーキ。もう一つは、黄金の輝きを纏うベイクドチーズケーキ。

 

 ――同じのでいいと言ったのに。

 

 無難かつ、どちらかが苦手でも良いような配慮を感じる流石の選択。


「わぁ、迷うね。颯真は、嫌いなものある?」

「別に……どっちも好き寄りです。」

「よかった、俺と同じだ。分けっこしよ。」


 ふふ、と小さく笑った玲央は、楽しそうにケーキと飲み物を写真に収めて、ケーキの包みを外し始める。

 その姿を横目に見ながら、颯真は、グラスへと手を伸ばして、玲央が頼んだ飲み物へ口をつけた。


「苦っ……!」


 舌の上を通り過ぎた液体に思わず顔を顰める。その声に反応した玲央は、くつくつと喉を鳴らして笑って「坊やにブラックコーヒーはまだ早かったかな?」と軽口を叩いた。


「そういえば、昨日佳代ちゃんと飲んでたのは砂糖入りだったね。砂糖もらおうか?」


 からかいつつも、玲央は、再び店員を呼びシロップを注文する。スマートすぎる所作のひとつひとつを目の当たりにして、颯真はさらに苦い顔をした。

 ここまで乱されっぱなしのペースに、颯真は内心で敗北を認めざるを得なかった。


「…ありがとう」

「どういたしまして。…ふ、俺も甘い方飲みたくなっちゃった」


 到着したシロップの小瓶を颯真のグラスに注いで、軽くかき混ぜた玲央は、「どう?飲めそう?」とストローを颯真の方へ差し出す。

 促されるままもう一度口をつけると、どうにか飲める甘さになったそれが、じんわりと先ほどの刺激を中和していった。


 颯真がこくり、と頷いてグラスを持ったのを確認すると、玲央はそっと手を離して、残ったシロップを自身のグラスにも注いだ。そして、ケーキの乗った皿も颯真の前へ差し出す。


 颯真は、おずおずと一番手前にあったショートケーキに手をつけた。


「っ!美味しい…」

「ほんと?…んっ、チーズケーキも美味しいよ。」


 どうぞ、と差し出されたもう一方の皿にも、颯真は手を伸ばす。ふんわりと鼻を通り抜けるチーズの風味と優しい甘さとともに、颯真の警戒心が解されていく。

 

 夢中でケーキを味わううちに、いつの間にか玲央に見られていることに気づいた。


「……なんですか。もしかしてずっと見てました?」

「うん。餌付けがいがあるなぁ、って。」

「僕のこと、小動物かなんかだと思ってる?」

「さぁ、どうでしょう。」


 颯真は、呆れて本日何度目かのため息をついた。


「――そういえば。」

「うん?」


 無駄に甘い空気をかき消すように、颯真はふと気になっていたことを思い出して、玲央の顔を見ながら尋ねる。


「ホストって話、流石に冗談ですよね?」

「いや?本当だよ。――まあ、もう辞めちゃったけどね。」

「…えっ、マジ?」


 なんて事のないふうに、さらっと告げられる事実に、颯真は驚く。同時に、颯真の中に日頃潜んでいる好奇心がじんわりと顔を出した。


「やっぱり、料金って高いの?」

「まあ、高校生には高いだろうねぇ」


「指名制とかってさ、どういう仕組みになってんの?」

「んー、受付で写真見ていいなって人がいたら好きに指名できるよ」


「お金かかるんだよね?どんなお客さんが来るの?というか、若い女性たちはどうやってお金を稼いでくるの?男性も入れたりする?それと――」

「ふふ、待って待って」


 ぐっと距離を詰めて質問攻めにする颯真の口が、人差し指で優しく抑えられる。

 玲央は一瞬困惑したような表情を浮かべたが、すぐにいつもの軽い調子に戻って、唇に当てていた手で流れるように颯真の顎を掬う。


「……こうやって、お互いの事しか見えない距離で、愛を囁くんだよ。」

 

「――!?!?」


 どろっ、と甘い空気を纏い、全身を溶かしてしまいそうなほど甘い眼差しと声を出す玲央に捉えられ、颯真は目を離せなくなる。

 先ほどケーキをつつき合っていた時に向けられていた甘さとは、また別のベクトルの、踏み込んでしまえばもう二度とは戻って来れないような――

 猛毒のような甘さが二人にまとわりつく。


「――なんてね。」


 玲央は、ぱっと、颯真から手を離すと、何事もなかったかのように、からからと氷の溶けかかったグラスを揺らして、颯真から距離をとる。


「まだお子様には早い話だよ。」


 いつも通りのからかい口調のようでいて、どこか線を引くような発言に、颯真は黙ったまま玲央と同じように距離をとった。


 ◇


 二人の間に、気まずい沈黙の時間が流れる。


 氷の溶ける音が、静かに鳴る。

 玲央のまつげが、一瞬だけ震えた。


「人に合わせるのは得意だよ。笑顔も、嘘もね」


 「がっかりさせちゃったかな?」とおどけたように肩をすくめる玲央からは、ほんの少し影を感じる。


「――寂しくなかった?」


 玲央を励ますでもなく、純粋に思ったことが颯真の口から溢れた。溢れたそばから、失礼な発言に気づき、慌てて取り繕おうと玲央の方に顔を向ける。

 玲央の唇が、微かに震えた。そこにあったのは、哀しみと呼ぶしかない色だった。


「ごめ、」

「……そうかも。寂しかったのかもね、俺」


 今にも泣き出しそうな玲央を前にして、颯真はなんの言葉もかけられなかった。


「あは、なんで颯真が泣きそうなの?」

「……ごめん。」

「大丈夫だよ、ありがとう。」


 玲央は穏やかに笑って、俯く颯真の頭を撫でる。その手のひらが、どこか頼りなく震えている気がした。

 そのまま黙りこくってしまった颯真は、玲央の手を払い除けることは無かった。その様子に、今度はからかうようにその手で頬を撫ぜる。瞬間、ぺしっと颯真の手によって玲央の手はいよいよ払い除けられた。


「……それは、やめて」

「ふは、ほっぺはダメなんだ。顎クイもダメっぽかったしね。」

「っ!……か、からかう余裕あるならもう大丈夫そうですね!」


 触れられた頬を抑えながら颯真がばっと顔を上げると、玲央の表情から漂っていた影はすっかり消え去り、楽しそうに微笑んでいる。その事に、颯真は内心安堵した。


 ――なんか、ほっとけないな。この人


 窓の外、夕暮れの青が静かに沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 喫茶店を出ると、夕陽はすでに傾いていた。

 坂の向こう、校舎の屋上がオレンジ色に染まっている。玲央は片手をポケットに突っ込み、いつものように肩の力を抜いた歩き方で並んで歩いた。


「……今日は助かったな」

「いえ、別に」

「いや、ほんと。颯真、意外と面倒見いいんだね」


 そんな軽口を交わしても、颯真の鼓動は落ち着かない。

 話すたびに、隣の声がやけに近く感じた。

 視線を合わせれば、何かを見透かされそうで、すぐ逸らしてしまう。


 ふと、颯真はもう一つ気になっていたことを口にした。


「そういえば、“元ホスト”ってことは……佳代さんとはどういう関係なの?」

「ああ、佳代ちゃんは俺のばあちゃんだよ。」

「やっぱり!」

 

 颯真の声が、思わず声が大きくなる。

 

「二人とも何も教えてくれないからさ、本気で“出張ホスト”かと思って焦ったんだよ……!」


 玲央は吹き出した。

 

「それはまた、おばあちゃん相手に随分斬新なサービスだね?」

「だって、あの感じ……すごい仲良さそうだったし!」

「まぁね、佳代ちゃんは俺の人生で数少ないファンだよ」

「“ちゃん”付けなのがまたややこしいんですよ……」


 そんな他愛ないやりとりに、颯真はようやく肩の力を抜いた。

 笑うと、胸の奥の警戒心がふっと溶けていく。

 ――やっぱりこの人、ただの“怪しい大人”じゃない。


 しばらく歩くと、道端の街灯が灯りはじめる。

 玲央は立ち止まり、少しだけ真顔になった。


「ねぇ、颯真」

「はい?」

「また会いに来てもいい?」


 唐突なその一言に、息が止まる。

 どうしてだろう、ほんの冗談みたいな問いなのに、胸の奥がざわつく。


「……テストが終わったあとなら」

 

 自分でも驚くほど、自然に言葉が出ていた。

 玲央は、満足そうに口角を上げた。


「約束、だね」


 その笑顔が、夕闇に溶ける。

 オレンジと藍の狭間で、光がゆっくりと青に変わっていった。


 颯真は、胸の奥に残るざわめきをどう処理していいかわからなかった。

 ほんの少しの沈黙。

 けれど、その沈黙の中に確かにあった。

 ――“また会いたい”と思う気持ちが。


 家の灯りが見えても、まだ足は止まらなかった。

 何かが、今日から変わり始めている。

 それをまだ知らないまま、颯真は小さく息を吐いた。


 夕暮れの空には、かすかに残る青。

 その青が、二人の胸に同じ形で残っていた。

 

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