第1章 出会いの青
新緑の季節。
校舎の周りを囲む木々は青々と生い茂り、夏の匂いを忍ばせ始めていた。
朝の教室。
颯真はいつも通り、窓際の席で自習を始める。
背筋を伸ばしてノートにペンを走らせる音だけが響く。
「おはよう、颯真!」
「おはよう、涼ちゃん」
快活な親友が、どかっと目の前の席に腰掛ける。
荷物の整頓もそこそこに、颯真のノートをペラペラとめくりながら、にやりと笑った。
「相変わらず真面目ちゃんやってんのな」
「そんなことないよ、勉強は学生の本分でしょ。」
「パーっとはしゃぐのも今しかできないことだぜ?」
「それは、涼ちゃんの本分でしょ。僕は横で見てるくらいがちょうどいいや。」
授業が始まると、颯真は黙々とこなす。時折、教師から雑用を頼まれても素直に応じる。
級友からも、教師からも、「信頼」されている、とは思う。
だが、浮いてはいない。目立ってもいない。
――それが、高瀬颯真の立ち位置だった。
放課後、颯真は部活動に参加する。
先輩チームメイトからの「ナイス、高瀬!」の声に笑顔で応える。
真面目に練習に取り組む姿勢は信頼を集めるが、特段突出した能力があるわけではない。器用で安定感がある――それだけだ。
帰路につく頃、日が暮れ、単調な一日が静かに終わる。規律と調和の中で回る世界は、どこまでも退屈だった。
◇ ◇ ◇
程なくして、本格的にテスト期間が始まった。部活動も休止期間に入り、颯真はいつもより早い時間で帰路についていた。
この頃、じんわりと蒸し暑くなってきて、夏の前に梅雨が訪れることを思いださせてくれている。
内心うんざりとしながらのんびり歩いていると、背後から、穏やかながらも焦りの滲んだ老婆の声が耳に入ってきた。
「あら!あらあらあら……」
颯真はその声に反応して振り返ると、こつん、とつま先に何かが当たる感覚がした。
足元を見ると、つやつやと輝く青リンゴが落ちている。光を受けて、瑞々しい緑が一瞬だけ眩しく光る。
その色は、この日初めて、颯真の「退屈な世界」に差し込んだ色だった。
それが転がってきた先を視線で辿ると、困ったようによろよろと坂を下る老婆の姿が。
颯真は咄嗟に、「おばあさん、危ないですよ!」と声をかけ、足元のリンゴを拾い、彼女の元へ駆け寄る。
「ああ、ありがとうねえ」
「いえ…転んだりしていないですか?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっとつまずいた拍子に、転がっていっちゃったのよ。」
おどけた調子で、お茶目に笑う彼女の荷物に目をやると、青い鳥の刺繍が施されたシンプルなエコバックに、これでもかというほどの食材が詰め込まれていた。
こんなにたくさん…買い物を手伝える家族はいないのか?と内心疑問に思いつつも、颯真は口を開いた。
「よければ、僕にその荷物持たせてもらってもいいですか?」
「あら、いいのかしら。」
「はい。進行方向も同じようですし、お手伝いさせてください。」
颯真は、拾ったリンゴをエコバッグに戻し、おばあさんの荷物を受け取った。
「っ――!?」
思わず息が詰まる。想像していた三倍は重い。
腕にずしりとのしかかる重みを感じながらも、引き受けた手前、すぐに平静を装って肩にかける。
汗がぶわっと滲む。不快感よりも、転びかけたおばあさんに気づけた安堵の方が勝っていた。
胸の奥で、そっと息を吐く。
◇
そこから数分ほど歩いた先に、彼女の自宅だという一軒家が見えてきた。
歩くあいだ、彼女はいろんな話をしてくれた。その中で、この大量の買い物の理由も聞けた。
――時々、いいことが起こる予感がして、気持ちよく目覚める朝があるらしい。
そんな日は、ほんの少しだけ嬉しいことが本当に起きるのだという。
だから彼女は、自分の勘を信じているようだった。
そして、自分にとっていちばん嬉しいことを思い浮かべたとき、どうしても買い物をせずにいられなくなるのだとか。
だからって、こんな量……
思わず心の中でつっこんだが、幸せそうに笑うその横顔を見ていると、それも悪くないと思えてくる。
むしろ、そんなふうに“予感”を信じられる彼女が、少し羨ましくなった。
「はあー、ついたついた。ありがとうねえ、颯真くん。」
「いえ、色んなお話を聞かせてくれてありがとうございます、佳代さん。」
途中で教えてもらった名前を呼ぶと、佳代はニコッと満足そうに笑った。
そして、颯真の荷物を持たない方の手をぎゅっと優しく握る。
すると今度はふふん、と悪戯っぽい笑みを浮かべてきた。颯真は、きょとん、と首を傾げて佳代を見つめる。
「せっかくだから、拾ってくれたリンゴ食べて行かない?」
「えっ、いや、せっかく買ったものなのに、申し訳ないです。」
「いいのよ!優しい颯真くんに出逢えた記念と、そのお礼よ。」
「や、その……」
穏やかながらも、女性らしい静かな強引さを含んだその声色に、颯真は困惑する。母や姉で幾度か経験したその眼差しに、やがて颯真は白旗をあげた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……荷物、中まで運びます。」
「ふふ、ありがとうね」
◇
「それじゃあ、いつもは娘さんと2人で?」
颯真は、噛み砕いたリンゴを入れてもらったお茶で流し込むと、台所に立つ佳代の背中に話しかける。
家に上げてもらった直後、手際よく買ってきたものを片付け、丁寧に切った青リンゴを皿に盛り付けお茶を用意した佳代は、そそくさと台所で別の料理を始めてしまった。
その間、もちろん颯真は、何か手伝いを…と打診したものの、「いいから座って」「私の話し相手になって頂戴」と佳代に押し切られて、ダイニングテーブルから佳代の背中と会話をすることになったのだった。
いつの間にか、暖かい出汁の匂いが部屋中に立ち込めている。その暖かな雰囲気と佳代の軽やかな身の上話に、颯真はいつの間にか絆されて、気づけば自宅のように肩の力を抜いていた。
「そうよー。どうにも昔から、奔放で不憫な娘でねぇ。ついこの間、大荷物を抱えて出ていくもんだから、いい年して家出でもするのかと思ったのよ
……そしたら、あの子、なんて言ったと思う?」
「ええっと…なんだろう。自分探しの旅、とか?」
「惜しいわね」
佳代は、颯真の若々しい回答にくつくつと笑いながら質問の答えを続ける。
「新しいボーイフレンドと海外旅行、ですって!」
その回答を聞いて、颯真は違和感を覚える。確か、佳代さんは70代後半のはずで、その娘さんと言ったらそこそこ大人な女性のはずでは…?
「失礼ですけど、娘さんって一体おいくつなんですか?」
「あはは、そうなるわよねえ。もう40は既に越えているはずよ。」
「それは…なんというか、本当に奔放ですね」
「そうねえ、次の恋はうまくいくといいけど…」
佳代は、朗らかに笑いながらも、その言葉の節に心配と寂しさを滲ませている。
ふと、うちにも似たような人間がいたな…と恋に奔放な姉の顔が颯真の頭をよぎる。姉が今のまま大人になったらこんな感じなのかと想像して、思わず苦い顔になる。
「颯真くんは、他にご兄弟はいるの?」
「はい。兄と、姉が。……その、佳代さんの娘さんと、うちの姉が似ているなぁと思っていたところです。」
「あら、それは賑やかそうなご家庭ね!」
「あはは……」
颯真は、乾いた笑いを誤魔化すように、ずずっとお茶を啜る。
ひと段落ついたのか、佳代は手を手拭いで拭きながら振り返った。
そして、颯真の空いた湯呑みに目をとめ、新しい湯呑みを並べてお茶を注ぐ。
すっかりこの家の空気に馴染んだ颯真は、遠慮を忘れて、素直に「ありがとうございます」と湯呑みを受け取った。
「どういたしまして」と佳代が微笑み、そのまま彼の向かいに腰を下ろす。
湯呑みをひと口啜り、やわらかく息を吐くと、再び口を開いた。
「そういえば、うちにはもうひとり――」
その声をかき消すように、がらがら、と引き戸が開く音がした。
颯真は、はっとしてそちらを振り向く。
鼻腔をくすぐる、甘くスパイシーな香水の香り。
視界の端で、銀色の光がきらりと跳ねた。
――現実離れしたその姿に、思考が止まる。
目の前に立っていたのは、端正な顔立ちの男だった。
彼は、颯真の瞳をじっと見つめながら、どこか謎めいた笑みを浮かべている。
一瞬のにらめっこ。
先に口を開いたのは、颯真だった。
「あの……どちら様ですか?」
声が裏返りそうになる。
“それを言いたいのは向こうだ”――そんなツッコミが喉まで出かかった瞬間、自分の言葉に気づき、顔が耳のあたりまで熱くなる。
男は小さく肩を揺らし、楽しげに笑った。
そして、煌びやかな笑顔のまま、ゆるく首を傾げる。
「俺?――そうだな。ただの出張ホスト、ってところかな」
◇ ◇ ◇
「…ほすと、って……?」
男の口から飛び出した、認知はしているものの耳馴染みのない言葉を、ぎこちなく反芻して、颯真の頭の中はさらに混乱を極める。
「あら、玲央。来たのね」
対して、佳代はニコニコとしたまま彼を受け入れると、手を洗ってきなさいと促す。
「はーい」と呑気な返事をして、慣れた様子で家の奥まで歩いていく「レオ」と呼ばれた男の背中を、颯真は口をあんぐりと開けたまま目で追うしかなかった。
男の登場から、今に至るまで、硬直しっぱなしの颯真であるが、その脳内は実に騒がしかった。
――なんなんだ、あの男の人は!?
……すっごいいい匂い、した。
それに「出張ホスト」って何!?!?
「ホスト」って僕の知っているホスト?
あの、ドラマとかでよく見る「カブキチョウ」の人?
田舎の空気に、都会の香水が混ざったような違和感――
ただそれだけで、世界が少しズレて見えた。
「はは、面白い顔してんね」
「はっ…!」
どれくらい意識を飛ばしていたのだろうか。
――甘い、という表現が相応しい声が鼓膜を揺すり、颯真は現実世界に引き戻される。
視線を身体の向きと同じ方向に戻すと、先ほどまで佳代が座っていた席に玲央が腰掛け、こちらをじっと見つめていた。
颯真は、心の中で浮かんだ疑問を言葉にしようとするが、玲央の纏う雰囲気に飲まれて、言葉を失ってしまう。
「その……お邪魔、しています。」
「ふ、こちらこそ。お邪魔します?」
こてん、と首を傾げる仕草すらも様になっていて、「僕がやったら笑いものにされそう…」と、ショート寸前の脳内は阿呆な呟きをする。
玲央は、未だ状況が読み込めていない様子の颯真を前に、くつくつと相変わらず肩を揺らして笑っている。そのまま、テーブルの上に置かれた湯呑みに視線を戻した後、玲央は家の軒先に向かって声をかける。
声の先には、洗濯物を取り込みに行った佳代がいる。
「佳代ちゃーん、このお茶飲んでもいいー?」
「佳代ちゃ……!?」
衝撃の呼び名に、再び目を丸くする颯真の様子を見て、玲央は悪戯っぽく笑う。
――その顔を、颯真はどこかで見覚えのある気がしたが、その記憶を辿るのを遮るように目の前に広がる異質な光景に、ただ目を白黒とさせるしかできない。
玲央は、佳代の返事を待たずに、湯呑みをゆったりとした仕草で持ち上げて、口をつける。たったそれだけの、たかが湯呑みからお茶を飲むだけの仕草なのに、いちいち妖艶な雰囲気を放つ。
そして、玲央が湯呑みから視線を移動させると、ぱちり、と颯真の視線と絡み合った。瞬間、颯真の心臓がどきりと音を立てる。
「っ……」
慌てて視線を逸らす颯真をからかうように、玲央はふは、と何度目かわからない笑い声をこぼした。
◇
――高瀬颯真は、こんらんしている。
「佳代ちゃん、お醤油取って。」
「はーい、どうぞ。あら、颯真くんご飯おかわりいる?」
「は、えと……」
「ん、そーま、細いんだからいっぱい食べなよ」
「ふふ、それもそうね。ほら、お茶碗貸して。」
どうして、僕はここで夕食を取っているんだ――!?
時は、数刻前に遡る。
洗濯物を取り込み終えた佳代が、ダイニングへと戻ってくるなり、「そうだ!」と朗らかに声を上げた。
「颯真くん、うちでご飯食べていきなさいな!」
流石に断ろうと、佳代の声がした方を振り向くと、家にあげてもらうときにも見た、笑顔の中に強かさの滲む表情で颯真のことを見ていた。
その表情に捉えられると拒否のできない颯真は、あれよあれよと促されるまま、自宅への連絡を済ませて、佳代と玲央の3人で食卓を囲むこととなったのだ。
そして、今に至る。
「颯真は、部活とかしてんの?」
「あ、一応…」
「へー、何部?……あっ、まって当てたい!」
終始居心地の悪い颯真とは裏腹に、玲央は「そうだなぁ、颯真華奢だしなぁ」と、ひとりでにクイズ大会を始める。佳代も佳代で、「あら、楽しそうね」「頭が良さそうだから、文芸部とかかしら?」と玲央に便乗する。
「えー、文芸部なんてこの時代あるの?」
「あら、あるんじゃないかしら。確か、南町の〇〇さん家の娘さんが文芸部だったはずよ。」
「〇〇さんて、はは、そこの娘さんならもう結構大人になっているんじゃない?」
「あら、そう?」
「んー、なんだろう、颯真に似合う部活……」
まさに団欒という言葉が似合う空気感に、ますます居心地の悪くなった颯真は、玲央から向けられる視線にぎこちない笑みを浮かべる。
「バド部とか?あれ、〇〇高ってバド部とかあったっけ?」
「いや、その……バスケ部です。」
「え!」
耐えられなくなった颯真は、早々に答えを述べると、玲央は大袈裟に目を見開いて驚きの表情を見せる。
その表情は、どこか演技がかっていて、まるでテレビの中の芸能人と会話しているような感覚に陥る。
「あはは、バスケ部!大丈夫なの、颯真潰されたりしてない?」
「なっ…!こ、これでも170cmは超えてます!!」
「あははは、ごめんごめん!怒んないで?」
玲央は、おかしくて仕方がないとでも言うように、手の甲で口元を隠して笑っている。
ややあって、「はあ、楽しいね」と言いながら、佳代の作ったたくさんのおかずに箸を伸ばす。
玲央の一挙一動が、颯真の目には全て新鮮に映る。
都会的な口調に、優雅な仕草――。箸の持ち方や食べ方ひとつとっても、どこか都会的で、洗練されている。
同時に、やはりこの周辺では浮いて見える。
颯真の身近な染髪をしている人物といえば、涼か姉くらいだ。
冗談かどうかもわからない、「ホスト」という自称も、やけにしっくりくる。
「ふう、ごちそうさまです。」
玲央の挙動に目を奪われている間に、いつの間にか食事を終えた玲央が手を合わせて、席を立つ。
その動きに、はっとした颯真は、慌ててお椀に残る白米を口にかきこんで、倣うように手を合わせる。
「ごちそうさまでした。」
「はい、お粗末さまです。」
佳代は、その光景に幸せそうな笑みを浮かべて、食卓を片付けに取り掛かり始めた。
「いっぱいお買い物していてよかったわ。やっぱり私の勘は当たるわね。」
そう言って、佳代は颯真に向かって、茶目っ気たっぷりにウインクを飛ばしてくる。
「勘が当たった」ということは、佳代にとって今日という日がいい事が起きた日に分類されるのだろう。それはよかった、と颯真の中で眠っていた冷静な自分が安堵する。
玲央はそのやりとりを見て、「なんの話ー?俺にも聞かせてよー」と呑気に声をあげた。
そして、流れるように佳代の隣に立つと、まるで女性をエスコートするような仕草で佳代から自然に食器を取り上げ、洗い物を始める。
続けて、「佳代ちゃんはゆっくり休んでて」と佳代に座るように促す。
佳代は「はいはい」と言いながら、マグカップをいくつか出してきて、インスタントコーヒーをお湯で溶かし始めた。
――なるほど、そうやったら、佳代さんは手伝わせてくれるんだ。
ぼんやりとそんなことを考えながら、おもむろに自分のスマホに目をやる。時間は20時を示していて、颯真はギョッとした。
「すみません、僕、門限が…!」
「大丈夫よ、高瀬さん家には私からも連絡してあるから、ゆっくりなさい。」
慌てて立ち上がる颯真を、佳代は制止する。
なぜ僕の家を知ってるんだ?という気持ちが、思わず顔に出ていたらしい。
佳代は、ふんと得意げに笑って「佳代ちゃんの町内会パイプ舐めないでよね!」と胸を張っていた。
それに続いて、玲央が口を開く。
「遅くまで付き合わせちゃったし、俺が姫を家まで送り届けるよ。」
「姫」という単語が、颯真自身を指していることに数秒たって気づいたが、ツッコミを入れるには微妙な間が経ってしまっていて、颯真はそのまま口を噤んだ。
◇ ◇ ◇
その後、洗い物を終えた玲央と、鼻歌を歌いながらコーヒーをかき混ぜる佳代と再びテーブルを囲み、ひと息ついたところで、玲央が席を立った。
「さて、そろそろ帰ろうか、子猫ちゃん?」
「…その、姫とか子猫とかやめてくれませんか?」
「ふは、ほんとかわいーね、颯真は。」
「かわいいもやめてください…!」
玲央と颯真のすっかり軽快なやりとりに、佳代はあたたかい視線を向ける。「その目もやめてください!」と言いそうになった颯真だが、おそらく佳代にからかいの意思はないので、その言葉は飲み込むことにした。
颯真は、忘れ物がないか学生鞄の中身まで確認した後、玄関で待つ玲央の元へと歩を進める。
後ろからついてきて見送りをする佳代に深々とお礼をすると、佳代は、「また遊びにいらっしゃい」と颯真の肩を優しく叩いた。
◇
「今日、楽しかった?」
颯真を自宅まで送り届ける道中、玲央は颯真の顔を覗き込んで訪ねる。颯真は、突然投げかけられた玲央からの質問に一瞬怯みながら「えっと…」と呟く。
「楽しい楽しくないというか、なんだか不思議な気持ちでした。」
「あはは、俺も。」
玲央は、軽い調子で笑いながら、
「佳代ちゃんが家にあげたのが、颯真でよかったよ。この時代に全く警戒心てものがないんだから。」
と、心配そうな声色でいう。
「娘さんが旅行に行っちゃったらしくて、寂しかったんですよきっと。」
「…そうなんだ。」
颯真がなんとなく佳代を庇うように伝えると、玲央はどこか寂しそうに呟いた。
――颯真にとってそう聞こえただけで、見上げた玲央の横顔は月明かりと逆光になっている。表情までは読み取ることができなかった。
不意に訪れた沈黙に、颯真は気まずい雰囲気を断ち切るように口を開いた。
「ていうか、玲央さんも充分怪しいですよ!」
「えー、そうかなぁ?」
「そうですよ、この辺では全然見かけない風貌だし…」
颯真の声に、玲央の声色は元の調子に戻ったような気がする。
「変かな?」
「うーん、変というか、個性的?で素敵だと思います。…僕がその格好したら絶対笑われるだろうけど。玲央さんはその…似合ってる、と思います。」
玲央の寂しそうな雰囲気に、思わず励ましモードに入った颯真は、話しながら、なんだか恥ずかしいことを口にしているような気がして、語尾がもごもごとしてしまう。
その様子に、玲央は完全に元の調子に戻って、たまらないといったふうに、颯真の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ちょ、本当に子猫扱いするのやめてください!」
「ごめんて。――ふは、ちょっと、颯真面白すぎるかも」
「からかわないでくださいよ、もう!」
「ふふ、ごめんごめん…」
――街頭の少ない薄暗い帰路の中、月明かりが煌々と2人のことを照らす。まるで、この出会いを祝福するかのように。
颯真にとって、どんよりとした濃紺のイメージだった午後9時前。今夜は、ほんのちょっとだけ純粋な青に近い気がしていた。
◇
「――じゃあ、ここで。」
「うん、またね」
玲央は、柔らかい笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振る。
つられて手をあげた颯真だが、なんとなく気恥ずかしくて、そのまま手を下ろした。そそくさと玲央に背を向けて、颯真は家族の待つ灯りの中へと入っていった。
◇
家の中に入ると、こちらはこちらで団欒の気配がした。姉が帰ってきているらしく、リビングの方から母と姉の話し声が聞こえてくる。
颯真は、「ただいま」とリビングに顔を出して声をかけつつ、その足はいつも通り洗面所に向かう。手を洗っていると、背後からからかう姉の声が振ってくる。
「よぉ、非行少年。」
「非行なんてしてないよ、ちゃんと連絡したし。」
「ふーん。てか、綾城さん家といつ知り合ったの、あんた」
「え?今日初めてだけど……姉ちゃん知ってるの?」
「まぁ、知ってるってか――」
姉が何か言いかけたところで、リビングから母の姉と颯真を呼ぶ声が入ってくる。その声と共に会話が途切れ、二人揃ってリビングへと向かう。
普段、門限には厳しい母親だが、今日は咎めることもなく、食後のデザートを勧めてくれた。
その様子を見て颯真は、佳代が言う「町内会パイプ」に合点がいく。なるほど、彼女はだいぶ信頼されているようだ。
それはともかくとして、颯真はもう1人の大人の存在が気になって仕方なかった。
姉も綾城家については知っている様子だし、母にも聞いてみようと口を開こうとした颯真だが、女親子の盛り上がる会話の中に入れそうもない。
ただ悶々と「玲央」と呼ばれたその青年のことを脳内で反芻していた。
「――って、颯真もそう思うよね!?」
突然、女親子の会話の矛先が颯真に向かう。先程まで蚊帳の外で、別の事に思考を割かれていた颯真は、お手本のように豆鉄砲を食らった。
「……なんの話?」
「だからー、付き合うならやっぱり、父さんみたいなありきたりなサラリーマンじゃなくてさ、なんつーか、オーラがあって刺激的な人?の方が良くない?」
「いやいや、将来的には堅実に家庭を支えてくれる男性の方が素敵よ?颯真も父さんと兄ちゃんを見習ってよね!」
「いや、硬いよー母さん!」
「なんですって!」
ぎゃいぎゃいと、また女同士の論争に戻ってしまった2人を眺めながら、颯真は物思いにふける。でも確かに――
「――刺激的な人って、気になるよね」
ポロッと、颯真の口から言葉が飛び出す。今度は、母と姉の2人が豆鉄砲を食らう番だった。
らんらんと目を輝かせる姉と、青ざめる母。
颯真は上の空で、考えていることが口からこぼれ落ちたことに気付いていなかった。
「そろそろ部屋戻るね。」
「え、あ、颯真……」
混乱した様子の母に目もくれず、颯真は立ち上がって、ぼんやりとした表情のまま自室へと向かう。
背後から聞こえてくる、姉の「ちょっと、颯真ぁ――!?」という声も、颯真の耳には届いていないようだった。
自室に戻ると、青白い月明かりが室内を照らしている。颯真は、電気も付けず、ベッドの上に腰掛けた。
ああ、お風呂に入らないと。
それから課題をして、テスト勉強に明日の準備もしないと。
そんな思考も、すぐに頭の隅に追いやられてしまう。
――ああいう人を“ミステリアス”と形容するんだろうな。
所作のひとつひとつがどこか都会的で洗礼されていて、おどけたりからかったりしているようで、どこか哀愁を漂わせている。月明かりに照らされる笑顔と、ふわりと纏う匂いも、頭から離れない。
風呂や明日の準備を済ませて、颯真はベッドの中に入る。勉強は……全く手につかなかった。眠れる気配もしない。
「……なんなんだよ、もう。」
呟きながら、寝返りを打って目を閉じる。
落ち着かない気持ちのまま、颯真は静かで不安定な夜に沈んでいった――。
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