メリノ種の悪魔
「ねえエミ! 丘の上に何か可愛い生き物がいるよ! ホラ、早く行こうよ!」
トオルは、わたしが身動きできないほどの異常を感じていることに気づいてか気づかずか、無邪気にはしゃぎ出した。そして立ち尽くすわたしの左腕を掴み、強引に前へ進みだした。
「痛っ!」
わたしは思わず悲鳴を上げた。そのぐらいトオルが腕を掴む力は強かった。彼は相変わらず無邪気な声で答えた。
「ごめんごめん、エミが突然立ちすくむからだよ。何を怖がっているの? ただの可愛い羊がいるだけじゃん」
トオルは力を弱めるどころかさらに強くわたしの腕を握り、ぐいぐいと羊に向かって歩き出した。
「痛いってば! 放してよ!!」
わたしは左腕を掴んでいるトオルの手を引き剥がそうとした。その時、図らずも爪が引っかかりトオルの手に引っ掻き傷を作ってしまった。その瞬間、トオルが豹変した。
「落ちつけよ、エミィっ!」
その声には激しい怒りと侮蔑が滲んでいた。トオルはわたしの右手も掴み上げ、両手の自由を奪った。左右の手首に激痛が走る。そんな強い握力があったのかと驚き、たじろいた。そして彼の荒い息遣いが獣のうめき声のように迫ってきた。
「ひっ!」
短い悲鳴。わたしは男に暴力を振るわれる恐怖を初めて知り、慄いた。圧倒的な力の差だった。トオルがまさかそんな……と反芻したところで無意味だった。彼の態度も力も初めて見る凶暴なものだった。わたしはなんとかその手を振り解こうとあがいた。
「放してっ! いやああっ!!」
だがトオルは両腕を容赦なく締め上げてわたしを引き寄せた。顔を紅潮させて目を大きく見開きつつも、どこか冷静を装っているトオルの顔が眼前に迫った。わたしは思わず顔をそむける。トオルの吐息がうなじの辺りに荒々しく当たった。首筋に悪寒が走り、体を硬直させた。
しかしなぜかそこでトオルの動きは止まった。そして大きく深呼吸した。なんとか自分自身を落ち着かせようとしているようだった。
「そんな大声出して怖がらないでよ。相手はおとなしい羊なんだよ? もう……」
妙に穏やかで、なだめすかすようなトオルの声にわたしは違和感を感じた。その声からは怒りや侮蔑の感情は消えていたが、どこか気味悪かった。
両腕を締め上げる力も緩み、ゆっくりと腕を下ろし始める。わたしはトオルの変化を確かめようと、彼の顔を窺った。
そこには見たことのないトオルがいた。作り物のような薄笑いを浮かべ、その瞳は磨き上げた黒曜石のような黒く冷たい闇と狂気の光を湛えていた。しかも瞳はまっすぐわたしを捉えているはずなのに、わたしの顔を映していなかった。それはまるで虚無へと続く二つの黒い穴が並んでいるかのようだった。
突然わたしの奥歯がカチカチと音を立て始め、全身に悪寒が走った。激しい虚脱感と、冷たい闇にすべての体温を奪われてしまうような寒気だった。四肢から力が失われ気が遠くなり、膝から落ち崩れそうになった。
それでもわたしはトオルの瞳から目をそらすことができなかった。トオルの瞳から放たれた邪悪な何かに侵され、わたしの意識は混濁の中にゆっくり沈んでいこうとしていた。もはや自分の身に何が起こっているのかすら理解できないでいた。
「さあ、歩こう。もう少しだよ」
わたしはトオルに引きずられるまま、力なく歩き始めた。手を振り解いて逃げたり、抗おうという意思は既に失われていた。
丘の頂は十字路になっていて、その真ん中に〝羊〟は居た。行く手をさえぎるかのように横向きで立ち、その左目が横長の瞳孔でわたしを冷やかに見下していた。そう、実際にわたしたちを見下ろすほどに大きな羊だった。
身の丈二メートルは優にある。例えが分かりにくいかもしれないけど、アメリカバイソンに羊の着ぐるみを被せたぐらいのサイズ感だった。わたしは混濁した意識の中でボンヤリとその羊を見上げていた。
――大きなオバケ羊。わたし食べられちゃうのかな――
捕食者に捕らえられた被食者が悟るかのように、わたしは自分が食べられてしまうと感じていた。草食動物の羊が人を食ったりするはずがないけれど、圧倒的存在を前にして至る諦めの境地というのは「食われる」という感覚になるらしい。
「ルーシー、待たせてゴメンね。エミリアを連れてきたよ。ちょっと手こずったけどね」
トオルはオバケ羊をルーシーと呼び、わたしのことをエミリアと呼んだ。意味不明だった。トオルはルーシーと呼んだ羊の首のあたりを優しく撫でた。
「ああ、フカフカしていて気持ちいい……」
トオルは羊を撫でながら恍惚の表情を浮かべていた。羊もまた横長の瞳孔を歪ませて喜びを表したように見えた。その歪んだ瞳孔にもまた、トオルと同質の闇と狂気が静かに湛えられていた。トオルと化け物羊のルーシー、両者は丸と横長、形は違えど同じ瞳をしていた。
だけどこの時、わたしにも異変が起きていた。自分の瞳も同じく黒曜石のような闇と狂気の光を湛え、何も映さない虚無と化していたのだ。まるでここに集まった三者は、何か共通の禍々しい力で共鳴し合っているかのようだった。
「さあエミリア、手伝って欲しいことがあるんだ。こっちに来て」
トオルに手を引かれるままに、わたしは羊の右側に回り込んだ。羊の首元をすり抜ける時、ムッとする獣の臭いが鼻腔に充満した。正気のわたしなら思わず咳き込んで、脱兎の如く逃げだしただろうけど、そこにはこの匂いが懐かしくも心地よいものに感じている自分がいた。
そしてなぜかルーシーの首元を右手で撫でていた。わたしではない誰かによって、体が操られているかのようだった。
柔らかく暖かな感触が手のひらを包まれ、なんて気持ちの良い手触りなんだろう、と喜んでいるわたしが居た。そして小さいころお気に入りだった羊のぬいぐるみのことを思い出していた。
――ああ、この手触りってルーシーの手触りじゃん。……そうか、あの子も羊のルーシーだったっけ。ルーシー、久しぶりだね。元気にしていた?――
幼いわたしは、大好きな羊のぬいぐるみをルーシーと名付けていた。だけどそんなことはこの時まで、なぜか忘れていた。
トオルが羊の右前脚の前にしゃがみこんだ。わたしも促されるまま、いっしょにしゃがんだ。トオルは羊の足首辺りを指し示した。そこには何か赤色の紐のような物が結ばれていた。
「これを外して欲しいんだ」
ルーシーの脚に結ばれた紐のもう一方は、地面に打ち付けられた金属製の小さな
それはバイソンのような巨大羊をつないでおくにはどう考えても小さすぎた。わざわざ紐を解かなくても、巨大羊がその気になれば簡単に引き抜けそうだった。
でもわたしにそんなことを考える思考力はなく、トオルに言われるがまま赤い紐に手をかけた。そして結び目をどうしたかよくわからないうちに、紐はたちまち解けてしまった。その瞬間、羊が雄叫びを上げた。前脚を振り上げ、嘶く馬のように雄々しくも高らかに。
「モオオオォォオオオッ!」
たぶん普通サイズの羊なら「メエェェエッ」となっていたんだろうけど、なにしろ大きさならバイソンに負けない巨体なのだ。まるで闘牛の咆哮を思わせるような声だった。雄叫びは大地を震わせ、一陣の風を呼び、土埃が舞い上がった。
わたしはその勢いで無様に後ろへひっくりかえり、お尻を
「いったあぁぁっ!」
闘病生活でやせ細り、大臀筋と皮下脂肪が薄くなっていたわたしは、ジーンズと下着のわずかな布地越しに、尾てい骨と骨盤がアスファルトの路面とぶつかる痛みを味わった。文字通り目から火花が飛び散るような激痛だった。
おかげでわたしは正気に戻ることができた。お尻を左手で押さえながらよろよろと立ちあがり、改めて目の前の異様な羊を見てうろたえた。
「な、なんなのよ、これっ?!」
「だからルーシーだよ。可愛いでしょ、ねえ?」
トオルは相変わらず狂気の瞳でにこやかに言い放った。わたしはその瞳を見ないようにしながら後ずさりしつつ、トオルを罵倒した。
「可愛いわけないじゃん! アンタおかしいわよ! 久しぶりに人を散歩に誘っておいて、なんなのこれ!? こんな非常識なサイズの羊といきなりご対面して『キャア可愛い!』とか言うとでも思ったの!」
「そんな風に言わないでよ。僕はエミを喜ばせたかったんだ。キミだってルーシーと再会できて嬉しかっただろう?」
彼の言うことが理解できなかった。むしろトオルの言葉はわたしをイラつかせた。
「喜ぶわけないでしょ! こんな羊、知らないし!」
「いいや、キミはルーシーを知っている。今も昔も僕たちはルーシーに仕える特別な従者なんだ。だから二人の力でルーシーを再び自由にしてあげることができたんだ。ルーシーは今までずっと不自由な思いをして可哀そうだったんだよ?」
そう言われて、さっき自分が羊の脚から赤い紐を外したことを思い出した。なんでそんなことをしたのかわからなかった。そして再びあの嫌な虚脱感が襲ってきた。
すでに五、六メートルの間合いは取ってはいたが、その程度の距離ではトオルと羊の瞳が放つ〝呪いのようなもの〟からは逃れられないようだ。後ずさりしつつ、正気を保つためにトオルを罵倒し続けた。
「あんな紐、誰でも外せるじゃない! その羊なら簡単に引きちぎれるでしょ? なにが『二人の力で』よ? こんなことにわたしを巻き込んでどうしようっていうの? 羊の共同飼い主を探しているんなら他を当たってよね!」
「封印はエミリアにしか解けないんだ。僕だけじゃルーシーを救い出すことはできない。そしてこれからもエミリアの助けが必要なんだ。お願いだ、これからも力を貸してくれ!」
トオルは懇願した。
「誰よエミリアって? 気持ち悪い!」
エミリアというのが、今さっき自分に憑依しようとした「敵」だと感じ取っていた。わざわざ敵を助ける義理などなかった。もしかしたらトオルもエミリアとやらに唆されて狂ったのかもしれなかった。
「お断りよ! 一応わたしは病人なんだからね、自分のことだけで精いっぱいなの。大体こんな大きな羊、例えわたしがトオルに協力したところでなんになるの? 狭いマンション暮らしでお金もない病人には迷惑でしかないわよ! そのぐらいわかるでしょ?!」
トオルは全く意に介さず言い放った。
「エミの部屋にルーシーを迎えてもらうだけでいい」
「無理! ウチのマンションはペット禁止」
「ルーシーはペットじゃない、神だ」
「は?」
予想外の言葉にわたしは間抜けなリアクションをしていた。
「カミサマホトケサマのカミ?」
念のため確認までしてしまった。
「そう、羊の姿をした神様。それがルーシー」
ついに神様まで登場してしまった。あまりに馬鹿げたやりとりに、わたしはトオルとこれ以上話すのは無駄だと、ようやく悟った。距離も十分離れて「呪い」の影響も無くなった。
「こうなったらもう、警察呼ぶんだから!」
わたしはポーチから携帯電話を取り出すやいなや、素早く地元警察署の生活安全課の番号を検索してコールしていた。さすがに一一〇番をコールするのははばかれた。この段階では羊の遺失物拾得に過ぎなかった。さっきのトオルの乱暴な振る舞いを暴行罪と訴える事も頭をよぎったが、それは勘弁してやった。わたしは意外と冷静だった。
もちろん電話をかける間も、トオルたちとの間合いを広げることは忘れていなかった。わたしは彼らに動きが無いことを確かめつつ、早歩きで丘を下り始めていた。トオルと羊はわたしの行動を静観していた。いや、どちらかというと余裕で見物しているという趣だった。
羊が『ふっふっふ、無駄な悪あがきは止めて諦め給え』と嘲笑っているような気がした。わたしの耳元ではひどくゆっくりと電話の呼び出し音が鳴っていた。
──まさか警察もお役所だからって、五時を回ったら普通の電話には出ないなんてことないでしょうね?──
わたしは急に不安になった。変に冷静ぶらず初めから一一〇番をコールすればよかったと後悔した。
何回コールを待っただろう、ようやく電話がつながったころにはトオルたちとの間に五十メートルの距離は稼いでいた。もし彼らが追いかけてきても、住宅街の通りまではなんとか逃げ切れるはずだった。それに警察とも連絡が取れた。もう大丈夫──微かな安堵を覚えた。しかしそれは長続きしなかった。
「……ああ、大きな羊ね、ハイハイ。大きいけどおとなしい子ですから、変に刺激しなければ大丈夫ですよ。もうすぐ飼い主の宗方さんか日下部さんが迎えに行きますから。ああ、もう迎えに行ってますね。ご心配なく。じゃあこれで失礼します」
警察の人は面倒くさそうにそう言って電話を切った。
――どういうこと? 日下部はわたしで宗方はトオルだ。なんで飼い主がわたしたちで、今から羊を連れ帰る事になっているワケ? 全てあらかじめトオルが仕組んで、警察にも手を回してあったとしか考えられない。でも何のために? 本気であのオバケ羊をウチで飼おうっていうの? ……狂ってる! ──
頭が混乱する中、わたしは左手に握ったままの携帯電話を力なく見つめていた。一度安堵を覚えた後の失望は堪えるものだ。警察にすら裏切られた気がして呆然としていた。
「気が済んだかい、エミ」
振り返るとトオルたちがゆっくりとこちらに向かって歩き出していた。
「さあ、いっしょに帰ろう、僕らの家へ。ルーシーは熱いお風呂と暖かい食事をご所望だ」
『熱いお風呂と暖かい食事』……悪い冗談だと言いたかった。しかし彼は本気だった。冗談抜きでオバケ羊をわたしの家に連れてきて、風呂に入れたり餌を与えたりする気だ。絶望感に浸っている場合じゃなかった。
「悪い冗談はやめて! 本気でわたしん家に連れてくるつもり? ありえない! 絶対拒否だからね、こんなバケモノ!!」
わたしはありったけの力を振り絞って叫んだ。だけどトオルはちょっと困った顔をしただけだった。そしてなだめるように言った。だがその声には嫌味と悪意が満ちていた。
「エミ、君はルーシーの巫女なんだ。無責任なことを言って困らせないでくれよ。ちゃんと君の家で祀らなきゃどうするんだい?」
「わたしは巫女になんかなった覚えはない! 勝手なこと言って人を困らせているのはお前だろ! トオルっ! ふ・ざ・け・ん・なーっ!」
はしたないけどわたしはキレた。思いっきり罵倒されたトオルは一瞬怯んだように見えた。わたしはその隙を見逃すことなく、全力疾走で駆け出した。本当は走ったりしてはいけなかったけど、そんなことを気にしていられなかった。これ以上彼らに付き合っていたら、本気で頭がおかしくなりそうだった。
そうでなくても、一度はあの瞳に侵されておかしくなったのだ。このまま彼らと一人で対峙し続けるのは危険だと判断したわたしは、とにかく人目のあるところへ脱出し、無事に家まで帰ることしか頭になかった。
──チェーンロックして雨戸閉めて籠城しなきゃ。絶対ヤツらを部屋に入れちゃいけない。そして誰か助けを呼ばないと。でも誰に助けを求めればいいの? 警察も当てにならないのに……あ、大家さん!──
マンションの大家さんしか頼る当ては無かった。とはいえ齢七十歳を過ぎたお爺さんに、トオルとオバケ羊の撃退は期待できない。それでも味方がいないよりはマシだし、あの大家さんなら警察にもコネがあって動かしてくれるかもしれない。
大家さんにかくまってもらうためにも、マンションまで帰り着くことが至上命題となった。半年ぶりに走る体があちこちで悲鳴を上げ始めていることも無視した。
――お願いだから家に着くまで頑張って──
そう自分の体に懇願しながら走り続けた。
ひつじが丘の外へと続くカーブした道を駆け下ると、崖と雑木林に囲まれた道は来た時よりも薄暗く、鬱蒼としていて気味悪さを増していた。
だけどここさえ抜ければ住宅街に、わたしが知っている日常の町に、戻れるはずだった。あそこまで行けば人目もあるし、トオル達も滅多なことはできないはずだ。そうでなくてもあんな大きな羊が現れたらひと騒ぎ起こるはず──だった。
だがカーブを曲がり切ったとき、そこには無かったはずの大きな門扉がわたしの前に立ちはだかった。門扉は太くて丈夫そうな
たしかここへ来たときは門柱を残すのみで、門扉なんて無かったはずだ。まるで魔法のように突如現れた障害物に、わたしは混乱した。
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