ひつじが丘
翌日の午後五時ちょうど、ドアホンの呼び出し音が鳴った。モニターには、マンションのエントランス前で待つトオルの姿が歪んで映し出された。
「今行くからちょっと待ってて」
わたしの声に笑顔で応えたトオルの白い歯が、モニター上で大きく誇張されて映し出されていた。久々に見る〝お馴染みのヘン顔〟だった。
部屋を出て廊下の手摺り越しにエントランスの方を見下ろすと、そこにトオルの姿があった。彼はわたしに気づいて、今度は誇張されていない白い歯を見せ、笑顔で手を振った。わたしも軽く手を振り返し、急ぎ足で階段を下りた。
「お待たせ」
「思ったより元気そうで良かった」
トオルは満面の笑顔で右手を差し出してきた。
「うん、今のところは順調だよ、ホラ」
わたしは両手を軽く広げ、体を左右に振って元気な姿を見せるふりをしながら、半ば強引にトオルの手を拒絶した。トオルは中途半端に行き場を失った右手で後ろ頭を掻いた。
握手ぐらいはして良かったのかもしれないけれど、そのままなし崩し的に手をつないで歩くという展開は避けたかった。
「さて、とっておきの丘とやらへ案内していただきましょうか?」
わたしはトオルの手に警戒しつつ、両手を後ろ手に組んだまま歩き出した。
「はい、かしこまりました。夕焼けの丘はこちらでございます」
照れ隠しの「令嬢と従者ごっこ」だった。なんだかんだ言っても、元カレ元カノ的よそよそしさを、二人とも感じてはいたのである。
トオルはマンションを出ると左方向へ歩き出し、少し急な上り坂がある方を目指していた。わたしたちはゆっくりと歩みを進めた。
日は傾き、待宵草の匂いを微かに含んだ風がそよぎ、わたしの頬を撫でた。お散歩には持ってこいの気持ちがいい夕方だった。
坂を登りきると、そこからは傾斜が緩やかでほとんど平らな道が続いていた。
この辺りはわたしも何度か歩いたことがあった。もう少し行けば美味しい珈琲豆屋さんがある。そこは何度か訪れて店主とも顔見知りになっていた。少し前にキリマンジャロ・ブレンドを勧められて買った事をわたしは思い出していた。それまでキリマンジャロはあまり飲んだことがなかったけど、店主お薦めだけあって香りも味も申し分なかった。
「この先にある珈琲豆屋がさ、けっこうイケるらしいよ」
今わたしが考えていた珈琲豆屋さんの事を、トオルが自慢げに話した。その口ぶりからは実際には行ったことがないのが見え見えだった。わたしはおかしくて思わず笑ってしまった。
「なにがおかしいの? 俺、変なこと言った? その珈琲豆屋って実はダメだったりするの?」
「ううん、とってもおいしい珈琲豆を売っているよ。どうせ雑誌かなんかで仕入れた知識でしょ?」
「知ってたんだ。……まあね、俺は行ったことないよ、うん」
トオルは照れ隠しに、少し前へ歩き進んで背中を向けて顔を隠した。
やがて歩き始めて十分が経とうとしていた。昨日のトオルの話ではそろそろ丘に着くはずだった。だけど辺りにそんな開けた場所は見当たらなかった。
「こっちこっち」
トオルはそういいながら不意に角を左に曲がった。角の両側には高さが二メートル程あるコンクリート製の門柱があり、鉄製の大きな蝶番が錆びついていた。それはかつてここに大きめの門があったことを示していた。
その先に続く道の両側は高さ三メートル程の低い崖になっていて、崖の上には雑木林が生い茂っていた。木々の枝葉が道の上にまで覆いかぶさり、薄暗くひんやりとした空気が漂っていた。
しかも道が大きく右にカーブしながら上り坂になっているので見通しがきかず、その先に何があるのかわからなかった。舗装のアスファルトは黒くて真新しかったが、なんだかちょっと気味の悪い道だった。
わたしは何度もこの前を通りかかっているはずなのに、この道には覚えがなかったし、大きな門があったという記憶もなかった。この辺りについては、左手が小高い雑木林になっていたような気がする程度の、おぼろげな記憶しかなかった。
まだ残暑が残る頃に通りかかり、雑木林の木陰にホッと一息ついたことを思い出していた。
「ねえ、ここって私有地かなんかじゃないの? 勝手に入り込んで怒られない?」
「うん、かつてはね。今は大丈夫だよ」
トオルはずんずん先に進んでいき、わたしも仕方なくついていった。ほどなく坂道のカーブ登りきると、いきなり視界が開けた。
『L&M不動産 宅地分譲地 〝ひつじが丘〟 好評発売中』
まず目に飛び込んできたのは不動産会社の大きな看板だった。
――ひつじが丘?……なんで羊なんだろう?――
わたしはそのネーミングにちょっと違和感を感じた。もっとも、こんなのは不動産会社が適当につけるんだろうし、わたしがここに住むわけじゃないから気にすることでもなかった。
目の前には細かく区画整理された緩やかな丘が広がっていた。住宅用地には雑草が生い茂り、見ようによっては「草はら」と呼べなくもなかった。
新たに造成された住宅地……なるほど地図に載っていないはずだと納得した。そして近所にこんな広大な土地がまだ残っていたことが驚きだった。
「どう? 素敵な場所でしょ? 今だけ期間限定の見晴らしだよ」
「そうね、やがてここには家が立ち並ぶんでしょうね」
「丘の上からの見晴らしが最高なんだ」
トオルは丘の頂を指差した。
「さあ、もう一息。歩こう」
わたしたちは丘の頂上を目指して、分譲地のメインストリートと思しき道を再び歩き始めた。二車線の車道と広い歩道。街路樹はまだ植えられたばかりで、細い幹を添え木に支えられていた。トオルは車道の真ん中を、今だけの特権とばかりにセンターラインの白線を踏みながら歩いていた。
道の両サイドにはところどころにポケットパークが設けられていて、ベンチや花壇が用意されていた。途中にはコンビニ出店予定地の看板が立てられている一角もあった。
丘を登るにつれて分譲地の区画が大きくなっていった。丘の高いところほど高級住宅地ということらしい。
トオルはそんな中でもひときわ大きい南向きの分譲地に走り込み無邪気に叫んだ。
「南向きで眺望も最高! ここに俺とエミの家を建てよう!」
わたしはそれを遠巻きに眺めながら、あっさり否定してあげた。
「こんなとこ嫌よー! わたしは海の見える丘に住むのが夢なんだから。もちろんそこにトオルはいないよ」
「え~、そうなの?!」
トオルが慌てて駆け寄ってきた。わたしは何事もなかったように歩き続けた。
「海が見える丘かあ。湘南の方とか? どんなイメージ?」
「瀬戸内海が見えるところ。尾道とか鞆の浦とか、憧れるわー」
穏やかな多島海を思い浮かべつつ、今の自分には叶わぬ妄想を口にしていた。
やがて道の両側にコスモスが群生している場所に差し掛かった。微かに吹く優しい風にピンク色の花たちが揺れていた。草叢からは虫の音が聞こえていた。たぶん松虫。エンマコオロギも混ざっているようだった。
空にはコスモスと同じピンク色に染まり始めたひつじ雲が、大きな群れとなって丘の頂へとつながっていた。
まさかこの光景のために「ひつじが丘」と命名したわけじゃないだろうけど、まさしく羊たちが群れる丘だった。秋の夕暮れの美しい風景がそこにはあった。
でも丘の頂へ近づくにつれて、そんな悠長なことは言ってられなくなっていた。自分が目指す先に、ひつじ雲と同じシルエットをした別のモノが在ることに気づいてしまったのだ。
初めは目の錯覚か何かと思った。しかし残すところ百メートル程という所まで近づくと、急に足がすくんで動けなくなってしまった。今やわたしの視界には丘の頂に待ち受けるモノがはっきりと捉えられていた。
……それは羊そのものだった。しかも単なる羊じゃなかった。ただならぬ気配を感じて全身に鳥肌が立つ。畏れにも似た言い表しようのない感覚だった。
その羊は『絶対に近づいてはいけない種類のもの』だと、わたしの本能が叫んでいた。
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