第3話:招かれざる訪問者

あれから三日。

私のうつくしい研究室では、『けがれ』と名付けた黒いもやの解析が続けられていた。しかし、その構造はあまりに異質で、私の知るどの術式理論をもってしても、その本質を掴むには至っていない。


「――それでね、聞いた話なんだけどさ」


そんな私の集中を、燕燕エンエンの能天気な声が破った。彼女は卓の上の菓子を一つまみしながら、どこで仕入れてきたのか分からない噂話を続けた。


尚食局しょうしょくきょくの薬草園でも、植物が急に枯れる奇妙な現象が起きてるんだって。それも、一カ所だけじゃなくて、あちこちでポツポツと」

「……薬草園で?」


思わず、解析の手を止めて顔を上げる。


「ええ。尚食局しょうしょくきょくの女官たちが、『まるで土の精気がごっそり吸われたみたいだ』って気味悪がってたわよ。どんな薬師が診ても、原因はさっぱり分からないらしい」


私の険しい表情を見て、燕燕エンエンははっとしたように口元に手をやった。


「……ねえ、姫さん。これって、もしかしてこの間のアレと同じじゃないのかい? あの気味の悪い黒いもや……」


彼女の言葉を引き取るように、お茶を淹れていたテイも心配そうに眉を寄せた。

「姫様、尚食局でもとは……。あれが、広がっていると?」


「ええ。その通りです。同じ現象である可能性が極めて高い」


私の肯定に、二人は息を飲んだ。後宮全体に広がりつつある『けがれ』の存在は、私に僅かな焦りをもたらしていた。


「あなたの言う通り、これは危険な兆候です。今は冷静に情報を集めるべきです……あなたにしか頼めないことがあります」

「あたしにしか……? なんだい、改まって」

「あなたの情報網が必要です。その噂の出所と、枯れた場所の正確な位置を、可能な限り詳細に調査し報告してください。これは重要な任務です。対価は、先日約束した美肌の丸薬に上乗せします」

「へえ、重要な任務ねえ……。いいじゃないか! その話、乗ったよ!」


「……ただし」と、燕燕エンエンは部屋を出る直前に悪戯っぽく笑った。

「あんまり無茶するんじゃないよ、ひめさん。あんたに死なれたら、あたしの肌が荒れちまうからね」

燕燕エンエンはそう言うと、早速情報収集に向かうべく部屋を飛び出していった。テイも私に一礼すると、彼女の後を追うように静かに部屋を辞した。


***


静寂を取り戻した実験室で、私は思考の海に深く潜った。原因の特定を急がなければ。しかし、先日の簡易的な分析では、けがれの構成要素までは解明できなかった。より詳細な分析には、さらに特殊な魔石ませきが必要となる。


「……計算が合わない。これでは、けがれの内部深くまで『気』を送り込めない……」


私が新たな解析術式の設計に没頭していると、静寂を破るように、固い足音が廊下に響いた。燕燕エンエンテイのそれとは明らかに違う、規則正しく、迷いのない足音。


やがて足音は私の部屋の前で止まり、遠慮のない、しかし統制の取れた扉を叩く音が響いた。


「開けていただきたい。公務での調査だ」


思考を遮られた苛立ちを覚えながら、私は仕方なく立ち上がり、扉を開けた。


そこに立っていたのは、一人の青年だった。涼やかな切れ長の瞳を持つ、すらっとして背の高い男。質素だが隙のない官服を身にまとっている。


「(……妙な男だ)」


それが、私の彼に対する第一印象だった。


私の顔を見た男たちは、たいてい二種類に分かれる。一瞬息をのみ、顔を赤らめるか。あるいは、卑しい視線を胸元に落とすか。どちらも、非論理的で醜い、雄という生き物の標準的な反応だ。


だが、この男は違った。


彼の視線は、私の顔、それも翡翠色の瞳だけを、真っ直ぐに射抜いていた。そこに感情の色はない。ただ、観察し、分析し、評価を下すかのような、冷徹な光だけが宿っている。頬も赤らめず、視線も動かさない。まるで、私が美しい装飾を施された、ただの「物体」であるかのように。


合理的、というべきか。初めて見る反応に、私の胸にわずかな興味という名の不協和音が生まれた。


その背後には、鍛え上げられた体躯を持つ武官が、影のように控えている。眉の上の古い傷跡が、彼の経歴を物語っていた。


「私は殿中監でんちゅうかんシェンと申す」


名乗った青年、シェンは、事務的な口調で続けた。


「近頃、この冷宮れいきゅうから『夜な夜な奇妙な光が漏れ、薬草を焦がしたような異臭が漂ってくる』との苦情が、複数の部署から寄せられている。規則に則り、調査に来た」


彼の言葉は、私の探究心に冷や水を浴びせるものだった。光と匂い。それは術式を起動した際に漏れ出たものだろう。だが、問題はそこではない。


「そのような些事さじよりも、緊急の事態が発生しています。後宮の植物が、原因不明で枯死していることにお気づきですか」


私がそう切り出すと、シェンは表情を変えずに頷いた。


「無論、把握している。尚食局しょうしょくきょくからは庭師の怠慢であるとの報告が上がっている。追って指導する」


「違います。これは自然現象ではありません。何者かが悪意を持って作り出した、『けがれ』によるものです」


私は必死に訴えた。だが、彼の黒い瞳には、何の感情も浮かばない。まるで、異国の理解不能な言語を聞いているかのようだ。


「……けがれ、か。公的な記録にはない、実に非論理的な言葉だ」

シェンは冷ややかに言った。


「記録にないからこそ、調査し、記録すべき新たな事象です。現状を放置することは、より大きな不利益を生む可能性がある。そう判断するのが合理的ではありませんか」


リン姫。あなたの類稀なる知性が、この帝国の利益にならんことを祈るばかりだが……これ以上、奇妙な言動で宮中の秩序を乱すことは慎んでいただきたい。人質としての本分を、お忘れなきよう」


それは、紛れもない警告だった。法と記録された事実。それだけが、彼の世界の全てなのだ。私のような、世界の真理を探求する者の言葉など、彼にとっては意味をなさない戯言たわごとでしかない。


彼はそれだけを言うと、私に背を向けた。隣の武官――李虎リコと呼ばれた男が無言で一礼し、それに続く。彼らにとって、用件はもう済んだのだろう。


私は扉を閉め、その場に立ち尽くした。無力感と、理解されないことへのいきどおりに、私は固く握った拳が白くなるのも構わず、ただ立ち尽くした。人の感情と同じくらい、法や規則というものも、真理の前ではなんと醜く、無力なのだろうか。


諦念とともに、ふと窓の外に目をやった。中庭を横切り、去っていく二人の後ろ姿が見える。


その時だった。シェンが、不意に足を止めた。


彼の視線の先にあるのは、私が昨日発見したのと同じ、黒く結晶化した薬草。


彼はそれに近づくと、屈み込み、汚染された葉を指でつまみ上げた。そして、誰も見ていないと思ったのか、険しい顔で、何かを深く思案するような表情を浮かべた。


その横顔は、先ほどの冷徹な官僚のものとは、まるで違って見えた。

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後宮の片隅に追放された天才術師の姫、帝国の闇を『狂いなき術式』で解き明かす 〜方術姫はうつくしい術式しか愛せない 〜 AKINA @AKINA-SE

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