第2話:醜い不協和音

私の完璧な庭を侵した、たった一つの不協和音。

黒い玻璃はりのように結晶化し、生命力を奪われた一株の薬草。


「……ありえない」


私はその場で膝をつき、指先でそっとけがれた土に触れた。ひんやりと冷たい。だが、それはただの冷たさではない。生命が持つべき熱が、根源から奪い去られたかのような、虚無の温度。


「姫さん、さっきからそこで何ブツブツ言ってるんだい? そんなもの、さっさと引っこ抜いちまえばいいだろうに」


いつの間にか背後に立っていた燕燕エンエンが、気味悪そうに眉をひそめた。


「よく見てください。これは、そういう次元の問題ではありません。……みにくい、醜すぎます」

「あたしに言わせりゃ、そんな枯れ草を睨んでる姫さんの方がよっぽど醜いけどねえ」


軽口を叩く燕燕エンエンを無視し、私は腰の道具入れから、魔石ませきを極限まで細く削り出した三本のはりと、小さな墨壺すみつぼを取り出した。この特殊な墨には、細かく砕いた魔石ませきの粉末が混ぜ込んである。


地面に膝をつき、人差し指に直接墨を付けて、乾いた土の上に術式を描き始めた。複雑な幾何学模様が、一切の淀みなく、正確に描かれていく。


「うわっ、また始まった……。の服が汚れても知らないよ」

燕燕エンエンの軽口も、今の私には届かない。


その横顔は、真剣そのものだった。普段は几帳面に結い上げられている黒髪が数本、頬にかかっているのも気に留めず、翡翠色の瞳はただ一点、大地に描かれる術式だけを見つめている。燕燕は呆れながらも、その姿がどこか神々しいもののように思えて、思わず言葉を失った。


「探査術式、構成」


描き上げた術式の上に三本の針を突き立て、自身のを流す。すると、地面に描かれた線が淡い光を帯び、大地を走るの流れを可視化していく。しかし、けがれた薬草を中心とした一角だけは異様だった。術式の光が、まるで闇に開いた穴に吸い込まれるかのように、そこへ向かって弱々しく流れ、輝きを失っていた。


「……なんだい、こりゃあ……」

燕燕エンエンが、思わずといった体で声を漏らす。


そこだけ術式が何の反応も返してこない。本来そこにあるべき「ことわり」が、何者かによって乱暴に消し去られている。


「どうしたのです、リン様。お顔の色が優れませんぞ」

テイが心配そうに声をかける。


私の知的好奇心が、警鐘を鳴らしていた。これは、ただの異常ではない。私の知らない、全く新しい論理体系によって構築された、未知の現象。


「……テイ。これを根ごと、慎重に掘り起こしてください。実験室に持ち込みます」

「かしこまりました。……ですが姫様、そのような得体の知れないものに、直接触れるのは」

「気にするなとは言いませんが、細心の注意を払ってください。燕燕エンエン、あなたも手伝いなさい」

「げっ、あたしがこんな気味悪いものをかい!?」

「報酬は、美肌の丸薬一月分でどうです?」

「……やるよ! やってやろうじゃないか!」


燕燕エンエンは現金なものだ。


***


私の実験室は、私室の隣にある。壁一面の術具が完璧な秩序で配置された、私だけの城。


「うへえ……。何度来ても気味の悪い部屋だねえ」

「このうつくしさが分からないとは、あなたの感性は救いようがありませんね」


軽口を叩き合う私たちをよそに、テイが鉢植えにされた「穢れ」を実験台の中央に置いた。


「今から、詳細な解析を開始します」


私は棚から、人の頭ほどの大きさがある円形の魔石水晶盤ませきすいしょうばんを取り出した。の構造を詳細に映し出すための、魔導具だ。


実験台の上に水晶盤を置き、その上に穢れた土のサンプルを少量乗せる。そして、魔石ませきの粉末を混ぜ込んだすみで、水晶盤の周囲に複雑な術式を描き始めた。円と直線、そして無数の数式が組み合わさった、緻密な幾何学模様。これは、対象のの構造を読み解き、その組成を分解、表示するための『精密解析術式』だ。


テイ励起れいき用の魔石ませきを三つお願いします」


「かしこまりました」


テイが寸分違わぬ大きさの淡い緑色の魔石ませきを三つ、術式の指定された位置に配置していく。


すべての準備が整う。私はそっと水晶盤に手をかざし、全神経を集中させた。


「解析、開始」


静かな呟きと共にを流し込むと、術式がまばゆい光を放ち、水晶盤の内部に光の粒子が走り始めた。やがて、その光が像を結ぶ。


そこに映し出されたものに、私たちは息を飲んだ。


「……なんだ、これは……」


水晶盤に浮かび上がっていたのは、黒いもやのようなものだった。それは、ただの闇ではない。周囲のを、光を、まるで捕食するかのように、自らの内に取り込んでいる。それは、生命が『気』を放ちながら生きるのとは正反対に、周囲の『気』を喰らい、死と虚無をまき散らす、いわば『生命の捕食者』だった。


「これが……この現象の正体……」


みにくい。醜悪だ。生命の調和を乱し、完璧な世界を汚す、不純物。

だが同時に、私の心は歓喜に打ち震えていた。


未知の論理。未知の力。

この世の誰一人として、まだその存在を知らないであろう、新たな研究対象。


私はその黒いもや――『けがれ』と名付けることにした災厄を、恍惚と見つめていた。


「ああ……なんて、みにくい……」


燕燕エンエンは、その横顔を見てぞくりと背筋が震えるのを感じた。未知の災厄を前にして、この姫は、恐怖ではなく純粋な喜びに打ち震えているのだ。


「……あんた、本当に人間かい」


絞り出すようなその声は、リンには届いていなかった。


私のうつくしい研究室に現れた、最初の冒涜。

必ず、その全てを解き明かしてみせる。

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