第1章:冷宮の天才と最初の穢れ

第1話:冷宮はうつくしい研究室

蒼龍そうりゅう帝国。

その広大な版図の片隅、絢爛豪華けんらんごうかたる後宮の最奥に、忘れ去られた一角がある。

冷宮れいきゅう

季節の彩りさえ訪れるのをためらうかのような、静寂と埃に支配された場所。


「……完璧です」


私、リンは、目の前に広がる光景に満足の息を漏らした。


部屋の中央、巨大な水桶で衣類が静かに渦を巻く。動力はない。ただ、水桶の縁に等間隔に置かれた七つの小さな魔石ませきが淡い光を放ち、水流を精密に制御しているだけだ。


私が昨夜改良したばかりの『自律回転式洗濯術式』だ。布同士が絡まることなく、汚れだけが効率的に分解されていく。その寸分の狂いもない流れは、完璧な数式が奏でる音楽のようだった。


翠明すいめい王国の王女という身分を剥奪され、人質としてこの帝国に送られてきて一年。世間は私を鳥籠とりかごの鳥と憐れむだろうか。だが、それは大きな間違いだ。


侍女もいない。訪れる者もほとんどいない。嫉妬や羨望といった、人の感情がもたらす非論理的で醜い雑音の一切が存在しないこの場所。世界の真理たる「方術ほうじゅつ」を探求するための、完璧な研究室に他ならない。


「(祖国を追われた非力な王女。ですが、ここでは私だけが世界の法則を決めることができるのです)」


「あら、ひめさん。また朝から薄気味悪い笑みを浮かべて。そんな水桶を眺めて何が楽しいんだい」


その静寂を破ったのは、戸口に軽薄そうに寄りかかる一人の女性だった。元宮廷楽師の燕燕エンエン。彼女は数少ない、この静寂を乱すことを許された人間の一人だ。


「これは『妙な術式』ではありません。生活の質を向上させるための、合理的でうつくしい仕組みです。あなたにはこの数理的な調和が理解できないのですか」


「さっぱりね。あたしにわかるのは、姫さんがまた夜更かしして、目の下に隈ができてるってことくらいさ。まったく、国が傾くほどの美貌の無駄遣いだよ」


燕燕エンエンは、術式の調整に没頭するリンの横顔を眺めていた。


埃っぽい作業着を着ていても、その立ち姿だけで育ちの良さが隠せない。すらりと伸びた背筋、細い腰。そして、きつく結い上げられた長い黒髪が揺れるたびに、豊かな胸の輪郭が衣越しに浮かび上がる。


「……」


燕燕エンエンは、思わずごくりと喉を鳴らした。


切りそろえられた前髪の下で、術式の真理を映すかのように澄んだ翡翠色の瞳が、目の前の水桶にだけ注がれている。その整然とした横顔は、まるで精緻な絵画のように、非の打ち所のない気品をたたえていた。


本人がその価値に全くの無頓着であるからこそ、その美しさは、いっそう際立って見えた。


燕燕エンエンは、やれやれと肩をすくめながら部屋に入ってくる。


「それより、頼まれ物の薬草だよ。見返りは、いつもの『おしろい』だろうね?」


「ええ。ですがその前に、あなたに渡した化粧水、最近効きが悪くなったとは感じませんか?」


「え? ああ、言われてみれば……。あんた、あたしに不良品を掴ませたのかい! それだけじゃないんだ。最近なんだか体も鉛みたいに重くってさ。後宮じゃ、が流行ってるって噂だよ。熱もないのに、まるで生気を吸われちまったみたいに、みんな体がだるいんだとさ」


声を荒らげる燕燕エンエンに、私は淡々と事実を告げる。


「原因はあなた自身です。その生活では、肌の『』の流れが淀むのも当然でしょう。不摂生という醜い行為の結果です」

「うっ……。い、言われなくてもわかってるよ!」


彼女はばつが悪そうに顔をそむけると、懐から薬草の包みを差し出した。私は代わりに、方術ほうじゅつで精製した純度の高い化粧水を詰めた小瓶を渡す。物々交換。これが、私と外界を繋ぐ唯一の論理的な関係だ。


彼女は、化粧品や薬を侍女たちに高値で売りさばく代わりに、様々な材料や面白い情報を仕入れている。


「ほっほっほ。また賑やかですな」


いつの間にか背後に立っていた老宦官のテイが、皺の深い顔をほころばせた。彼の足音は、まるで落ち葉のように静かで、いつも気づくことができない。


テイこそ、今日の食事は運んでこないのですか。私の計算によれば、すでに予定時刻を七分過ぎていますが」

「これは申し訳ございません。厨房で少々、いざこざがあったようでして」


テイが差し出す盆の上には、質素だが湯気の立つ食事が並んでいる。


「いざこざって?」

燕燕エンエンがすかさず食いついた。彼女はゴシップが何よりの好物なのだ。

「それが、麗華レイファ様付きの侍女と、暁蘭シャオラン様付きの侍女が、食材のことで取っ組み合いの喧嘩を……」


「へえ! あの気の強い女同士がねえ。まあ、そんなの可愛いもんさ。今、宮中で一番の噂といやあ、チョウ大将軍のことだろうね。なんでも軍の工房に籠りきりで、村一つを吹き飛ばすような、とんでもない新兵器を開発してるって話さ。きな臭いこと」


下世話な話に花を咲かせる燕燕エンエンと、困ったように笑うテイ


「(村一つを吹き飛ばす兵器? なんと非効率で、醜い力の使い方でしょう)」

私は内心で吐き捨てると、二人の下世話な会話を思考から遮断し、さじを口に運んだ。


非論理的ではあるが、不快ではない時間。私が気づかぬうちに築かれつつある、奇妙な調和の一片だったのかもしれない。


***


食後、私は自ら手入れをしている中庭に出た。ここは薬草の栽培も兼ねた、もう一つの研究室だ。


全ての植物は、生育に最適な間隔を計算し、完璧な幾何学模様を描くように植えられている。土の配合も、水の量も、日照時間さえも私が最適化したものだ。その結果、どの薬草も青々と、力強く育っている。この庭は、私の完璧な理論が正しかったことの証明でもあった。


だが、その一角に、異物があった。


一株だけ、不自然に枯れている薬草。それも、ただ枯れているのではない。葉の一部が、まるで黒い玻璃はりのように結晶化し、その周囲の大地だけが、色を失っている。


ありえない。


栄養不足でも、病でもない。私の完璧な計算と管理下に置かれた庭で、このような非論理的な現象が起こるはずがない。


それは、完璧に奏でられていた交響曲に割り込んだ、耳障りな不協和音。

私のうつくしい世界に投じられた、最初のけがれだった。

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