第二十一話 泉に宿る記憶
一瞬岩と見間違えたかと思ったがそうじゃなかった。ゆっくりと姿を現したのは、巨大な亀。
甲羅は苔むした山のように重々しく、水を滴らせた首がこちらへ伸びる。その双眸は夜空を閉じ込めたように暗く深く、俺たちを水中から見上げていた。
青が声をあげた、袖を掴む手に力が増している。俺自身も言葉を失った。ただの岩だと思っていた存在が、悠然と水から現れる。常識が揺らぐ。
「おや、驚かせてしまったかの」
低く、厳かな声が泉に響き渡る。胸の奥まで響く音だった。
「これがわしの真の姿じゃ。先ほどまでそこの岩におったのは仮の姿じゃ。そこの一般人と言い張る者にしか見えていなかったがの、その力を持った者にしか見えない仮の姿じゃ」
やはりそうか。あのとき青には本当に岩にしか見えていなかった。俺だけがこの亀を見て、声を聞いていた。なぜ俺だけなのか――その疑問が強く胸に浮かんだ。
「なるほどね、大地君が動かなくなっていた間は、この亀さんとお話していたってことね」
黄が静かに言った。冷静な声だったが、その目はいつになく真剣だ。
「あの! 亀岩城と呼ばれていたお城があったのは本当のことなんですか? 泉に浮いていたって聞いたんですが」
青が問う。声は震えていたが、興味を抑えられないのだろう。
「うむ、人はそう呼んでおった。泉の真ん中に人が城を建てての。あの岩のあるところじゃ。そもそもあの岩にわしが住んでおったのじゃが……」
亀は遠い昔を思い出すように目を細め、語り始めた。
「少し、昔話をしようかの」
「その昔、この地に小さな村があった。山に囲まれ、泉の水で田を潤し、細々と暮らす村じゃ。だがある年、雨が降らず、大地はひび割れ、苗は枯れ、田は砂のようになった」
頭の中に、知らないはずの光景が浮かぶ。
干上がった田んぼ。土に膝をつき、乾いた苗を握りしめて泣く農夫。空っぽの米俵を前に祈る母親。痩せ細った子供を抱く腕の震え。
「村人は疲れ果て、空を仰いで嘆いた。雨乞いをしても空は応えず、ただ日差しだけが焼き付けるように降り注いだ」
その声には、見守ってきた者だからこその痛みがあった。
亀は続ける。
「ある夜、一人の若者が泉に来た。わしの甲羅を岩と信じて、その前に膝をつき、必死に祈った。『どうか、この村を救ってください』と」
亀の声が、泉の水に溶けていく。
俺の胸に、若者の切実さが突き刺さった。明日を生きる糧さえなく、ただ藁にもすがる思いで泉に祈ったのだろう。
「わしは、ただそこにいた。ただ聞いていただけじゃ。しかし、その夜から雨が降り出した。大地を潤す恵みの雨が、何日も続いたのじゃ。田は蘇り、枯れかけた苗が再び芽吹き、村は久々に実りを得た」
村人はそれを奇跡と呼び、泉の岩に感謝した。
翌年も、そのまた翌年も、なぜか豊作が続いた。人々は確信した。泉には神が宿る、と。
「わしはただ見守っていただけじゃ。雨を降らせたのも、豊作をもたらしたのも、必ずしもわしではなかったろう。だが人は己の心を安らげるために、意味を求める生き物じゃ。『この岩亀が守ってくれた』と信じれば、苦難の中でも希望を見いだせる」
亀の瞳はどこか寂しげだった。
「やがて人々は、わしを祀るようになった。最初は石を積み、供物を捧げる小さな祠。やがて祠は社となり、さらにその上に城が建てられた。泉を神域とし、城をその象徴としたのじゃ」
静かな語りの中に、重みがあった。
人々の祈りが積み重なり、やがて「信仰」となり、それが形を持つ。
祠。社。城。
積み上がるそれは、ただ人々の心の表れだったのだ。
「わしは城を背負う形で、人々の想いを背負うことにした。わしを神と信じるその祈りが、わしを形づくったのじゃ。……だが、やがて信仰は薄れ、城は朽ち、今はただ岩が残るのみ」
最後の言葉には、どこか哀惜の響きがあった。
人が寄り添い、祈りを捧げ、神と呼んだ時間。その全てが過去になり、信仰は消え去った。亀はそれを寂しいとも悲しいとも言わなかったが、声の奥には確かに感情があった。
俺たちは黙って聞いていた。神話を直に聞かされているようだった。
ただの伝説ではなく、実際にその場で見守っていた存在の言葉。重さが違う。
「……なんで俺にはあなたが見えていたんですか?」
思わず、口をついて出た。これだけは聞かずにいられなかった。
亀は深い瞳で俺を見た。
「ホッホッ、なんでじゃろうなぁ。なぁ、一般人殿」
意地悪な笑みを浮かべる。こんの亀知っているのに教えるつもりないな、この。
「わしが言えるのは、そなたは自身で考えているような凡人ではないということじゃ。……使者殿」
まただ。その言葉。
俺にはわからない何かを、亀は知っている。そしてそれを小出しにして楽しんでいる。胸の奥に苛立ちが生まれた。
「さてと、わしが身を預けるのは……そこのご老体かの?」
亀の視線が品定めするかのように黒に向く。
「ええ。ご尽力いただけますかな?」
黒は落ち着いた声で答える。
「ふふっ、懐かしい気配がすると思うたら……おぬしは恐らく、ここに城を建てた男の末裔かの?」
!? その言葉に場の空気が凍りついた。
誰もが驚き、息をのむ。黒がそんな血筋だったとは。
「なんと、まことですか!?」
黒が声を上げる。
「そうさな、では試しにわしに名前を付けてみるとよい」
「名前を……ですか?」
「勿論、名がないわけではない。最初にわしを祀り始めた男がつけた名がある。わしにとっては大切な名じゃ。それを言い当てることができたら、そなたに力を貸そう。それまでは気長に待つとするぞ」
亀はそう言い残し、黒い風をまとって姿を消した。
泉は再び静寂を取り戻す。ただ、黒の手には小さな根付が残っていた。
それは泉の中央にある岩に似ており、その上に黒い風を纏った小さな亀がちょこんと乗っていた。
それは俺だけが見ていた光景に酷似していた。
――やはり俺は、何かを背負わされているのだろうか。
ただの一般人のはずなのに。
答えは出ないまま、泉の静けさだけが残っていた。
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