銀貨
文月 郁
銀貨
私が以前住んでいた街では、朝となく夕となく、一人の浮浪少年の姿が見られた。親も兄弟もなく家もなく、敷石を枕にし、凍えればパン屋の壁で暖まり、あちこちを歩き回り、戯れ歌を歌い、時にはちょっと店先から食べ物をかっぱらう、どこにでもいるような、あの快活な浮浪児の一員だった。
少年は破れたような女物のシャツを着て、裾を折って縄で縛った大人用のズボンを履き、足には何も履かずに、そこここで歌を歌い、白墨で道や塀に落書きをし、時には荷車の荷降ろしを手伝い、あるいは道案内をしてやって、小銭を貰って日をすごしていた。
だが、時には、その浮浪少年も“身綺麗に”することがあった。そんなときには、少年は髪を撫でつけ、胸ポケットに手巾を差し入れ、靴を履いて、真面目くさった顔で肩をそびやかして、教会堂の片隅に立っていた。もっとも、少年がその縮れた栗色の髪を撫でつけるのに使ったのは、香油の類ではなく川の水であった。手巾は何処かで手に入れたらしい古毛布の切れっ端で、靴に至ってはどこからかちょろまかしてきた麻袋の端を、麻紐や色褪せたリボンでようよう足に縛り付けたものだった。
サン・ショルメ通りの、あの小さな教会堂のそばに住んでいる人の中には、今でもこの浮浪少年のことを思い出す人がいるであろう。
ある日曜日、私はいつものように教会堂の礼拝へ出かけた。ここしばらく、流感で寝こんでいたというK牧師は、病み上がりの顔で説教をしていた。その説教は、以前と同様、あまり上手くなかった。
礼拝のあと、私はR夫人が少年を捕まえて、何やら叱りつけているのを見かけた。このR夫人という人は、悪い人ではないのだが、何事も自分が正しいと信じて疑わず、その上虚栄の心の強い人だった。流石に着飾って教会に来ることはないものの、高級なバランシュ製のレースがついたヴェールに、しわひとつない絹の黒服、顔が映るかと思われるほど磨きたてた黒い靴。胸元にはいつも、夫人ご自慢の骨董品、銀と紫水晶のブローチが光っていた。
密かに聞き耳を立てていると、どうやらR夫人は、少年が献金盆に古い銅貨を入れたというので叱っていたようだった。
「そんならあのお金が何だったか言ってやろうか、婆さん」
R夫人がちょっと言葉を切った瞬間、少年は丸い目をくるくるさせながら口を挟んだ。
「あのお金はな、一昨日の晩飯と、昨日の朝飯と昼飯と晩飯と、それから今日の朝飯と昼飯だったのさ!」
憎らしげな、それでもどこか誇らしげな、そしてどことなく滑稽なその調子に、私は思わず口元が緩むのを抑えられなかった。周りからも二、三、失笑が聞こえた。
少年は辺りを見回して鼻を鳴らし、両手をポケットにつっこんで、胸をそらして教会を出ていった。
この日の夕方、私はその少年を街で見かけた。少年は快活に歌を歌いながら、小石を器用に投げあげて弄んでいた。
普段の私なら、黙って、省みることなく行き過ぎただろう。視界に入れまいと、目を逸らしたかもしれない。
しかし私はこのとき、少年を呼び止めると、急用を思い出したので、持っていた荷物を家に届けてくれるように頼んだ。私の家はすぐそこで、急用と言えるようなものなど、本当はなかったのだが。
駄賃として銀貨を一枚渡すと、少年はしばらく私の顔と手の中の銀貨を見比べていた。
私も何だか気恥ずかしくなって、頼んだよ、と強引に荷物と銀貨を握らせ、その場を立ち去った。
適当にしばらく時間を潰してから家に帰ってみると、戸口には私の荷物が置かれていた。
そして荷物を取り上げると、その下には、銀貨が一枚、ひっそりと置かれていた。
銀貨 文月 郁 @Iku_Humi
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