最近、志乃亜さんとよく、カクヨム上で会う。
それで感じていたことがいくつかあるのだ。
何よりも、この先生の親しみやすさである。
決して、下に見ているわけではなくて、これは尊敬しているのだとわかってもらいたい。
いつの間にか、そこにいて、
数十年も前から友達だったっけ? そんな空気になるのがこの志乃亜先生なのだ。
だからこの先生の事は最近気になっていた。
エッセイを読んでよくわかった。この人の親しみやすさは、本当に我々の感覚に寄り添っているところなのだ。
共感。という部分が近いのかもしれない。我々が絶対に経験してきたことを、我々の代わりに面白おかしく語ることができるのがこの先生なのだ。
……ブーメランパンツは流石にだったが……。
ああ、そういえばこんな友達いたなあ。
この感覚こそが、志乃亜先生という人間を表すのに適した言葉だと思う。
クラスにいた、みょうに目立つやつではないのだ。
それは必ず、あなたのそばに、いた!
彼のエッセイをぜひ覗いてみてほしい。
あなたのそばにも一人、志乃亜という人間がいたはずだ。
ご一読を。
第一弾「いまそれやるの Early Days」
https://kakuyomu.jp/works/822139839441015499
第二弾「いまそれやるの Glorious Seasons」
https://kakuyomu.jp/works/822139837647206761
上記に続く、第三弾。
サクさんのエッセイには、哀しみがある。
ご本人が「哀しい」と云っているわけではない。
勝手にわたしが、哀しいな、と想っているだけだ。
その理由を考えてみると、映画「ライフ・イズ・ビューティフル」に行きあたる。
お調子者の主人公は美しい女性教師にひとめぼれ、幸せな結婚を果たし可愛い子どもにも恵まれる。
だがそんな幸せは長くは続かない。
映画の後半、家族は収容所に送られる。
そこでの父親はまだ幼い息子に「これはゲームだよ」と云いきかせる。
「今からゲームがはじまる」
「ママにあいたくても、おやつが欲しくても我慢するんだ。ゲームに勝てば戦車をもらえるよ」
幼い息子に悲惨な状況を自覚させるまいとして、剽軽者の父親は精一杯、面白おかしく過ごすのだ。
だがそこは絶滅収容所。
逃げ切れぬ死刑を前にしたその時、父親は死への恐怖を乗り越え、その様子を隠れた場所から見つめている息子の前でぴりぴりーっと電気が入ったように立ち直り、おもちゃのような仕草でおどけてみせる。
(ゲーム中だよ!)
息子は安心して連行される父親を見送り、隠れ場所から出て行くこともない。
父親は最後まで息子を騙して消えていく。
斎藤隆介「ベロ出しちょんま」に通じるような、滑稽さと哀しみがそこにはあった。
……。
……こんな笑えるエッセイに何をそんな重たいことを書いてくれちゃってんの??
でも三部作を読み終わった時にわたしの頭に浮かんだのはそれだったのだから仕方がない。
エッセイ中のサクさんは『サク´(サクダッシュ)』であって現実のサクさんとは別人ということにわたしの中ではなっているのだから、構わないだろう。
どんな時にもなにか笑えることを周囲から見つけ出すこと。
笑顔という宝物を自分で掴みにいくこと。
娘にそう教える文中の父親が、あの映画の父親と重なってしまうのだ。
「お前は女運が悪い。――それが臨終に駈けつけた、当時まだ学生だった自分に対する祖父の最期の言葉でした」
最近某トーク番組で披露されたゲストのこの逸話に大笑いしたが、笑いすぎると涙が出てくる。
サク´(サクダッシュ)さんも、きっと、その生涯が終わる時には子どもや孫に囲まれながら最期に何かよく分からないこと呟いて、
「もう、おじいちゃんったら……」
遺族の泣き笑いを誘いながら死んでいくのだろう。
貧しさの中からも哀しさの中からも、懸命に滑稽さを捜し出すのは豊かな感性をもった人間の特権だ。
優れた笑いは、他者を指さして嘲り笑うのではなく、自分の側を落す。
自らを道化役にした自虐エッセイを書ける人は日々の隅々からキラキラした何かを拾い上げる天賦の才を持ってる。
そのあまりのいじらしさに、人間の一生の儚さを重ね合わせて、なんとなく哀しくなってしまうのだ。笑いながら。