第30話
都会の街は、いつでも人で満ちている。とっくに花が散っている桜並木を二人で歩いていると、彼女はぽつりと言った。
「今年はもう散っちゃったんだねー。ここ、満開の時はすごい綺麗なんだけど」
足元には微かに花びらが残っている。
私は小さく息を吐いた。
「じゃあ来年は、皆で見に来ませんか?」
「それもいいかもねー」
一度、会話が止まる。
彼女は一体、何を話そうとしているのだろう。青々した桜の葉っぱを眺めてみても、彼女の気持ちはわからない。
望月家の中だと、惠利沙はわかりやすい方なのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。一番わかりやすいのは、裏表がない貴守さんだけど。
「ねえ、水葉ちゃん。水葉ちゃんは惠利沙のこと、好き?」
澄んだ声だった。
恵伶奈さんの方を見ると、彼女は真剣な目をしていた。きっと、友達として好きかを聞いているんじゃないんだろう。私は一瞬固まったけれど、すぐに口を開いた。
「はい。大好きです」
「……そっか」
ばさばさと、音が聞こえてくる。
見れば、ベンチに座った人が鳩にパンをあげていた。鳩は凄まじい勢いで集まって、ベンチを囲んでいる。
「私たちの本質はね。奪うことなんだよ」
「奪う?」
「そ。人の目を、生命力を、意識がなくなった後の夢すらも奪う。奪って奪って自分のものにして、それで生きていくのが——サキュバス」
空気が、変わる。
甘く、張り詰めた空気。この空気には、覚えがあった。前にクロエさんがチャームの魔術を使った時と同じ空気だ。私は少し身構えたけれど、あの時感じたみたいな強い衝動はやってこない。
だけどその時、ベンチを囲んでいた鳩が私たちの方にやってくる。
まだパンは、地面に残っているのに。
「根本的にはやっぱり、人と違う悪魔なんだろうね。だからこういうことも、簡単にできる」
彼女の周りには、鳩だけじゃなくてカラスやスズメも集まってきていた。
チャームで魅了できるのは、人間だけじゃないのか。
私はその力に、少し驚いた。
「怖くない?」
「……怖い?」
「だってそうでしょ? 私たちがその気になれば、簡単に相手を好きできるし、生命力を全部奪って干からびさせて、死なせちゃうことだってできる。アリみたいに簡単に、ぷちって」
彼女は何かを摘むような仕草をする。
その指先で潰されるのは私なのか、それとも。
「悪魔は契約を守るもの。でも、契約関係になければ、人のことなんて簡単におもちゃにしちゃうのが悪魔だよ」
恵伶奈さんはそう言って、くすくす笑う。
「世の中には色んな悪魔がいるよね。天災を司る悪魔、知識を司る悪魔、私たちみたいに夢を操る悪魔……中学の頃は、恋を司る悪魔なんてのもクラスにいたっけ」
私の知らない世界の話だ。
私はサキュバスのことしか知らない。いや、サキュバスのことだって、全部知っているわけではないのだ。きっと知らないことはたくさんある。惠利沙のことだって。
「人とは違う力を持っているのに、人と一緒に生きていくことなんて、ほんとにできると思う?」
「それは……」
惠利沙も昔悩んでいたことだ。だけど今の私は、胸を張って言える。
「できると思います」
「どうして?」
「私はずっと、惠利沙と一緒に生きてきましたから」
そう。
私たちは確かに、人と悪魔という異なる種族なのかもしれない。それでも私たちは友達になって、ずっと一緒に生きてきたのだ。惠利沙は私から何かを奪ったりしないし、ぷちっと潰してきたりもしない。
精気を分け与えるというのも、私の意思でやっていることだ。
「悪魔と一緒にいたら、この先色々大変なことがあるかもしれないよ? 普通の人間じゃ経験しないような災難が、降り注ぐかも」
「それでも、いいです。惠利沙と一緒なら」
甘い空気が、少しずつ薄れていく。恵伶奈さんの周りを飛んでいた鳥たちは、逃げるように飛び去っていった。
「なんで惠利沙のこと、そんなに好きなの?」
「わかんないですよ。好きだから、好きなんです。そこに理由なんていらないです」
「もしかしたらとっくの昔に、チャームをかけられてるのかも」
「そうかもしれません。私が惠利沙に魅了されちゃってるのは、間違いないですから」
この胸に宿る気持ちが、何によってもたらされているかなんてどうでもいいのだ。今私が惠利沙のことを好きだという事実に変わりはないのだから。
「悪魔は執念深いよ。一度目をつけた相手は、絶対に離さない。それでも惠利沙と一緒に生きていける?」
「望むところです。私も結構、嫉妬深いですから」
「……ふふ。そっかぁ」
恵伶奈さんは、ふっと笑う。
その笑みは、びっくりするくらい優しい。私は目を丸くした。
「いいなー、惠利沙は。私も水葉ちゃんみたいなパートナーが欲しいなぁ」
「えーっと」
「怖がらせてごめんね。でもこれは、惠利沙の姉として聞いとかないといけないことだったから」
「恵伶奈さんが日本に戻ってきたのって……」
「一応目的の一つではあったけどねー。水葉ちゃんに会いたかったっていうのもあるよ」
「そ、そうなんですか」
「あはは、照れてる。……どう? 同じ悪魔なら、私にしとくっていうのは。私、惠利沙より力のコントロールはできてるから、安定してるよ」
彼女は私に顔を近づけてくる。恵伶奈さんみたいな美人さんに顔を近づけられると、やっぱりドキドキしてしまうけれど。私は笑った。
「いえ。私は、惠利沙が好きなので」
「ありゃ。それは残念」
くすくす笑って、彼女は歩き出す。私は彼女に手を引かれるままに、桜並木を歩くことになった。
「気をつけなよ。惠利沙は、まだ——」
「水葉ちゃん!」
惠利沙の声だった。声のした方を向くと、そこには息を切らした惠利沙と、顔面蒼白の琴春の姿があった。
そういえば琴春、運動は大の苦手だっけ。多分惠利沙に連れられてめちゃくちゃ走り回ったんだろうなぁ。今にも倒れそうだけど大丈夫ですか?
なんて思っていると、惠利沙が私の隣までやってきて、手を引っ張ってくる。恵伶奈さんはするりと手を離して、笑った。
「お迎えが来ちゃった」
「こっち来て、水葉ちゃん」
「ちょ、ちょっと惠利沙! 痛いんだけど……!」
「我慢して」
「えぇー……」
私は惠利沙に引っ張られるままに歩く。振り返ると、恵伶奈さんは琴春を抱えながら手を振ってきていた。いいのかなぁ、これで。ていうか琴春、気ぃ失ってない? どんだけ走ってきたの?
いやいやそれよりも。
「惠利沙、どこ行く気なの!?」
「どっか」
「どっかってどこ?」
「どっかはどっかだよ。いいから、ついてきて」
有無を言わなさない言葉に、私は黙り込むしかなかった。彼女はそのまま、駅まで歩いていく。歩いている間も、電車に乗っている間も、彼女は無言だった。ただ私の手をぎゅっと握ったまま、目を瞑っていた。
そうして、家の最寄駅まで帰ってくる。
私は少し琴春のことが心配になったけれど、恵伶奈さんが一緒にいたから大丈夫……かなぁ。かえって不安になるのだが。
「お姉ちゃんに、何か言われた?」
改札から出ると、惠利沙は言った。
「秘密。恵伶奈さん、惠利沙のことが大好きなんだね」
「それは……そうかもだけど。ダメだよ、水葉ちゃん。油断してると、お姉ちゃんに食べられちゃうから」
「食べられるって……」
「お姉ちゃん、そういうところあるし」
いつもは大人びて見えることも多いんだけど、今日の惠利沙はちょっと子供っぽい。恵伶奈さんの前だと、いつもこんな感じだったりするのかな。わからないけど。
「ねえ、水葉ちゃん。……せっかくだし少し、デートしない?」
思いがけない言葉。私は一瞬目を丸くしたけれど、すぐに笑った。
「いいけど……行きたいとこ、あるの?」
「適当にぶらぶらしよ。疲れたでしょ、お姉ちゃんと一緒にいて」
「あ、あはは……」
確かにちょっと疲れたけど。
私は苦笑しながら、惠利沙と肩を並べて歩き始めた。やっぱり彼女は、私に歩幅を合わせてくれている。意識しているのか、無意識なのかはわからないけど。それに気づくだけで、胸が温かくなるし、きゅってなる。
苦しいような、切ないような……でも嬉しいような。
この感覚が、恋そのものなのかもしれない。
恵伶奈さんは、サキュバスの本質は奪うことだって言っていたけれど。
ちょっと違うんじゃないかな、と思う。だってこの恋も、温かさも、嬉しいって気持ちも全部、惠利沙から与えられたものだ。彼女は確かに、私に温かい感情を与えてくれている。
私が奪われたのなんて、心くらいだ。私の心の大部分は惠利沙が埋めていて、他に何かが入り込む隙間はほとんどない。
……なんて。
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