シーン14 南行路


 旅は天気に左右される。


 ユエがアケノを追放され、ペルディアにたどり着くまでに要したのは十五日ほどで、これは道中で雨に降られず、風に吹かれず、しかも国外に出なければ打ち首になるという状況での強行軍だったからだ。


 そのときに使ったのはアケノとエンディムをさえぎり国境の役割を果たしている山脈を北回りに迂回する経路で、普通の日程ならば早くて二十日、悪天候で足止めをくらえばひと月はかかる。


「ですが、南に山を越えれば八日でアケノ領内に入れます」


 ペルディアを出た翌朝、地図を睨んでいたユエに、朝食のため焚火に薪を足したニコラが横から指をさしたのが南行路だった。


「そんな道があるなんて聞いたことがないんだが……」


「ええと……すでに廃れた道なので、アケノでは知られていません。でも、山のふもとに小さな村がありますから、そこで道の状況を聞けば山越えも難しくないと思います」


 つつ、と細い指が地図の下側をなぞる。かすれかけた線が、アーシア大陸南端エンディム領を横切り、山脈の中へと消えていく。麓の村までおよそ四日。馬を休ませ、物資を調達するのに一日。山を越えるのに三日というところか。


「なんで南回りの道を知ってるんだ?」


 とユエが尋ねたのは、朝日が昇りきって馬を進めてからだった。馬の脚を傷めないために速度を落としたので、会話できる程度には緩やかな旅路となる。


 昨夜まではユエの後ろにニコラが乗ってしがみついていたのだが、ニコラの体力が早々に限界を迎えたのでやめさせた。今はニコラをユエの前に乗らせて、背後から抱きしめるようにして手綱を握っていた。このほうが落馬しにくくなる。すぐにニコラに質問しなかったのは、彼女が緊張でガチガチになっていたからだ。


 柔らかそうな桃色の髪からのぞく耳に「初めてじゃないだろ」と囁いたら、夜襲のときのことを思い出したのか顔を赤くして耐えていた。少ししたら気が紛れたらしく、ぽつぽつと話し始めた。


「わたしは、馬に乗れないんです」


 急になんの話か、とは思わない。


 人が唐突になにかを語るとき、それは大抵、ほとんど誰にも打ち明けたことがないような深い思いだからだ。


「何度教わっても駄目で、その……身体を動かすことが得意ではないので」


「教わった、ということは……?」


「はい。わたしは貴族の出です。両親は馬車の事故で命を落としました」


 意外というほどでもないが、ちょっとした驚きがあった。若くして宮仕えをしているわりには世慣れしておらず、箱入り娘なのだろう、とは思っていた。


 ただ、王族であるアイリスが一番の友達だと言うくらいなのだから、ニコラもそれ相応の家柄に生まれていておかしくない。きっと、王国でも重要な領地を治める重臣じゅうしんの家柄なのではないか。例えば、国境沿いは王からの信用厚い貴族の土地であることが多い。


 そこまで考えが及んで、ユエにもわかった。


 ニコラが忘れ去られた南行路を知っているのは、そこが彼女の一族の土地だったからだ。


 ユエはニコラの後ろにいるので、その表情は見えない。だがなんとなく、うっすらと微笑んでいるのではないかと思った。


 過去とは、過ぎ去ったこと。


 だから、ユエは慰めの言葉はかけなかった。


 ユエの反応から大方のところを察したとわかったのだろう、ニコラは出自についてそれ以上のことは言わず、話を続けた。


「運よくアイリス……殿下のお付きとして取り立ててもらって、治癒の魔道ができたので医務官に任命してもらえました。殿下は領地を継ぐこともできると言ってくれたけれど、向いてないと思ったんです」


 たしかに、ニコラは人の上に立ってあれこれと采配さいはいを振るうタイプの人間ではない。


 なんとなくツクヨミに似ている、と思う。違いがあるとすれば、ニコラは貴族としての肩の荷を下ろすことができたが、ツクヨミはそれを選べる立場にはなかった、ということか。


 遠くにかすむ山の稜線を眺めていたユエの顔を、ニコラが振り向いて見上げる。いつもは伏し目がちな薄黄色の瞳が、ぱち、とユエを捉える。


「今、他の人のことを考えましたね?」


「な、なんでわかった?」


「ふふ」


 寂しげでも、悲しげでもない。


 むしろ「やっぱり」と言いたそうな得意げな微笑みは、彼女のほのかに甘い匂いに混じって、ひどくあでやかだ。


 ニコラは理由を答えず、ユエも訊かなかった。


 無言のまま時間が過ぎるが、それで居心地が悪いわけでもない。日差しは温かく、山の嶺から吹き下ろす風は涼しい。野鳥が鳴き声を上げたと思ったら茂みから仔キツネが飛び出して、また草原に消える。


 南行路は本当に使われていないらしく、誰かとすれ違うとこも、人影を見ることもない。湿気の多いアケノと違い、開けていて陽気なエンディムの空は青さが濃い。なだらかに傾斜した緑の草原の中、見渡す限りの空間にニコラとユエの二人だけがいる。危機を伝えるためにアケノに向かっているはずなのだが、それを忘れそうになるくらいに長閑のどかだった。


 陽が傾き始めたころ、小さな林に突き当たった。馬を木立に繋いで水を飲ませてやり、ついでに降りられなくてまごまごしているニコラを抱えるようにして下馬させる。乗り慣れていないと、身体がこわばったり筋肉痛になったりして、まともに乗り降りできないのだ。


 ユエが馬の面倒を見ている間に、ニコラが火を焚き、パンをあぶり、チーズを溶かす。干し肉と葡萄酒ぶどうしゅも欠かせない。エンディム人はこれがなければ始まらないと聞いたことがある。肥沃な草原地帯は羊を肥やし、温暖な気候は酒を造りやすくする。


 それに、酒は口も滑らかにする。


「魔道を勉強したのは王都の養成寄宿舎です。貴族向けの施設だったので、そこでアイリスと友達になりました」


 貴族生まれで離宮仕えのニコラは革袋の葡萄酒を飲もうとして失敗し、結局木のコップに注いで飲んでいた。


「エンディムは魔道師教育に力を入れている、とは聞いたが……」


 ユエが革袋から直に葡萄酒を飲むと、「ずるい」と言いたげな恨めしそうな目を向けてくる。


「間違いではありませんが、正確でもないです。力を入れているというより、魔道教育は国策になっています。素養がある者は魔道を修める義務があります」


 魔道のことを話すニコラは、普段のおどおどした印象が消えて口調も確かだ。


 いつもこれくらい自信を持っていれば、代わりにアイリスがもう少し大人しくなっていたかもしれない。


「国軍の七割が魔道師というのは本当か?」


「はい。上級貴族も基本的に魔道師家系ですね。でも、魔道を使わない兵の地位が特別低いということもないと思います。エルダ隊長がアイリスの護衛をしているのも実力での抜擢ばってきですし……魔道師でないほうがその……面倒がないこともあります


 ユエは一瞬、派閥争いのようなドロドロとしたものを連想したが、ニコラは軽く笑って「魔道の才覚には血統が関わりますから」と二杯目を飲み干した。


 なるほど、貴族ほど血筋にうるさい連中もいない。


「恋文で書庫を増やす、という言い回しがあります。優秀な魔道師が昇進したときによく使われますが、魔道の研究よりも結婚の申し込みの方が多く送られてくる、という意味です」


「アケノに似たような言葉があるな。こっちは下手な弓取ゆみとり筆を射るっていう」


 急峻な山林が広がる東方ではエンディムと違って騎兵を走らせる草原がない。結果、遠間から敵を射ぬく弓が発達してきた歴史があるが、弓を取るより筆を執って詩歌を送る方に熱心になる者もいる。もちろん意中の相手を射止めるためなのだが、そちらの腕前ばかり上達するのも考えものだ。


「アケノでは魔道は人気がないのですか?」


「魔道は王族のものって意識があるからな……」


 アケノの女王は代々、王族だけが受け継ぐ魔道を使う。女王の血筋によって継承され、その特別な血筋ゆえに娘しか生まれず、みな白髪に赤眼となる。建国以来ずっと女王の国であるのには、そういう理由がある。


 ユエがその辺りの事情を説明すると、ニコラは興味深そうに手元の羊皮紙にちょこちょこと書き込んだ。すでに四杯目を飲み干しているのに書き物ができるのだから器用なものだ。


「いつかエンディムにお越しいただきたいですね。女王陛下の魔道について調べることができればアイリスも喜ぶでしょうし」


「そういえば、アイリス殿下は下野して魔道研究者になりたがっている、と聞いた。王族というのはどこも自由が利かないらしい」


 それもまた、ツクヨミがアイリスに親近感を持った理由かもしれない。国のため、民のため、誰かが責務を負わねばらない立場、というのはあるものだ。


「アイリス殿下は……ツクヨミ陛下のことを気にかけておいでです。殿下も幼い頃にお母様を亡くされていますし、二年前の内乱の折にはアケノへの救援を国王に直訴じきそしていました」


「えっ」


 驚きのあまり干し肉を落としたユエに、ニコラは「ペルディアではみんな知っている話です」とくすくすと笑った。


「でも、アケノとエンディムには正式な国交がありません。東方の色んな商品はみんなアケノを通ってエンディムに入ってきますが、アケノはあまりエンディムの麦を欲しがらないので……」


「貿易の摩擦まさつか」


 地理的に、東方のどの国もアケノ領内を通らなければエンディムに自国の産物を流せない。しかし東方は森が豊かだし米食文化なのでエンディム産の穀物を輸入する動機が薄い。葡萄酒もあまりアケノでは人気がない。ツクヨミがああ見えて酒ならなんでも好きなので輸入を増やそうとしたことがあり、カガリが渋い顔で説教しているのを見たことがある。


「エンディム国王としては、アケノを助ける見返りが薄い、と。それも間違ってはいないか……」


 東方四国は微妙な均衡の上で平穏を保っている。どの国も保守的で自国優先主義だが、大陸の他の地域との関係を考えれば互いに潰しあうより東方という大きな括りで連帯する方が得策だとわかっているのだ。


 エンディムがアケノだけに肩入れすれば、後に禍根を遺しかねない。


「ペルディア市民は、アケノが好きです。アイリスが分け隔てのない性格ですから」


「我らが王女様が親しくしているのだから、アケノの女王は悪い人ではない?」


「ふふ、はい」


 市民の印象というのはそんなものだし、それはいかにも開放的な南方人らしいものの見方とも言える。


「会ってみたい、ですね。ツクヨミ陛下……きっと素敵な方なんでしょうね」


 七杯目 を空にしながら、ニコラがしみじみと言う。


「数日で会える」


 東の山の稜線に、鏡のように輝く月が昇り始めている。


 目を凝らせば、そこに故郷が見えるような気がしたのだった。

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