シーン15 帰郷

 ユエは胃が痛かった。


 悪いものを食べたわけではもちろんない。精神的な意味で、胃に穴が開きそうだった。


 途中までは順調だった。麓の村で一泊し、食料や燃料を補給した。山道は険しいが天気が崩れなかったおかげで遅れることもなく、国境を超えるのは難しくなかった。アケノを含めて、東方の国々は四国間の勢力争いには敏感でも大陸の他の地域にはあまり関心がない。ましてや誰も使っていない南行路に関所などあるはずもなく、実にあっけなく故郷の土を踏めた。


 踏めたというのは文字通りの意味で、山道に入ってからはニコラを馬上に残してユエは徒歩で馬を引いた。エンディムの軍馬は平野を走るものであって、山岳を登るようには育てられていない。


 山を下ってからも起伏のある森が続き、あちこちに沢や岩場があるので軽快に騎馬で疾走というわけにはいかない。時には倒木を避けるために大きく迂回し、渡れる場所を探して沢沿いに南下する。エンディムの温暖な海風は山脈に遮られて届かず、アケノの森はいつも霧がかっている。


 だからだろう。二日かけて森を抜けたときにニコラが上げたのは、安堵と驚きが混じった声だった。


「わ……あ、え? いつの間にこんな平野に……?」


「驚くよな。わかるよ」


 数日前は石とわずかな草しかない山道を歩いていたのに、豊かな森に入り、かと思えば視界が開けてススキの原が広がっている。北にかすむ山々に並んで、アケノの宮城きゅうじょうの角ばった輪郭がうっすらと見えた。


「南はすぐ海なんですね……?」


 ニコラが地図と景色を見比べながら首をかしげる。たしかに、不思議に思うのも無理はない。地図上で見ると、海岸線がさじですくい取られたように抉れているからだ。


「初代のツクヨミ女王の御業みわざだと言われている。大波から民を守るため、女王の魔道で陸を持ち上げ壁を造った、と」


 事実ならケタ違いの魔道能力ということになる。波を防ぐほどの大質量を動かすなど、作り話と言われても仕方がない。だが現実にアケノの南岸は反り立つような断崖絶壁になっており、ユエたちの右手側は海に向かってゆるやかな上り坂を描いている。


 ユエ自身、ツクヨミから女王の魔道能力は代を追うごとに徐々に弱くなっていると聞いたことがある。


 たぶん、初代ツクヨミは本当に陸地を動かすことができたのだろう。


「で、アケノの宮城もまた同じく、初代女王が岩や土を動かして山しかないような土地を平らにした場所にある……んだが」


「? どうかしましたか?」


 正直言いづらいが黙っていても仕方がない。


「悪い。ニコラはここで待っていてもらえないか」


「え」


 ほとんど吐息と区別がつかない声なのに、「わたしを見捨てていくんですか」と言われたような気がした。


 馬に乗っているニコラと地面に立っているユエでは物理的にありえないはずなのだが、なぜか泣きそうな顔で見上げられているような気分になる。


「あー違う違う。南方人は目立つんだよ。馬も南方の軍馬だろう。それで宮城に向かうのはまずい。迎えを寄越すから、少し休んでいてもらいたいんだ。頼めるか」


 頼めるか、と妙に腰が低くなってしまうが、考えるまでもなく当たり前のことだ。もしもペルディア離宮を襲った者たちがすでにアケノに到達していたら、ニコラの姿を見逃すのは狼の群れに羊が混じっているのを見逃すくらいあり得ない。


「わかり、ました……」


 不承不承、と題を付けて飾りたいくらい不服そうな顔のニコラを残し、ユエは単身でアケノ城へ向かった。


 エンディムでの事件をツクヨミに伝えるのがこの旅の目的であり、そのためにはこうするのが最も合理的。


 と、いうのは半分建前だった。


 宮城のほりをぐるりと回り東曲輪ひがしくるわの方へ向かうと、枯れた古井戸がある。蓋を外して中へ降り、短刀の柄で内壁を叩く。四度目で他と違う音がして、石組みの隙間に刃を差し込めば、簡単に外すことができた。女王近衛だけが知る城の抜け道の一つだ。


 隠し通路に灯りなどあるはずもなく複雑な迷路になっているが、正確な地図ならユエの頭の中にある。記憶が確かならこの通路は城の地下にある倉庫に繋がっており、そこから階段を昇れば城内の近衛詰め所あたりに出る。


 左手を壁に付き、幾度か角を曲がり、突き当たりの隠し扉を押し明けた、その直後だった。


「止まれ」


 言葉が聞こえたのは、喉に切っ先が触れてから。


「まさかその顔を再び見ることになるとはな」


 その声に一抹の懐かしさが込められていると感じるのは思い込みだろうか。


「畏れながら、女王陛下への忠義により」


「ふん……?」


 蝋燭の明かりが灯り、室内が照らされる。すでにユエの後ろの抜け道は塞がれていたが、まったく気が付かなかった。


「お久しぶりです。カガリ隊長」


 きびきびとした動作で刀を納める横顔は、ユエと久闊きゅうかつを叙するようなものではない。


「それで?」


 こちらに問いかける間も、カガリの左手は鞘に添えられたまま。


 不用意なことを口走れば、言い終える前にユエの首は胴体から離れているだろう。


「エンディム第一王女アイリスネシア・エステル・フォン=エンディム殿下より、ツクヨミ陛下に緊急の言伝を預かっています――」


 それからことの次第をかいつまんで話すにつれて、ただでさえ険しい顔のカガリは眉間の皺をさらに深くした。


 軽く目頭を揉んだかと思えば、刀から手を離して壁に背を預け、少し疲れたように言う。


「つまり、その正体不明の集団は王女殿下の暗殺に失敗し、今度は陛下のお命を狙うことで我が国とエンディム国の間に戦争を起こそうと画策している、と?」


「はい。しかし王女暗殺未遂などという大それたことを公式の手段でツクヨミ陛下に伝えることはできません。そこで不肖ながら、俺が」


「その話、信ずる証拠は」


「ありません。ですがアイリス殿下付き医務官が密かに南で待機しています。名はニコラ。爵位は返上していますがエンディム貴族出身です。彼女の身元を確認するのは容易なはず」


「聞き覚えのある名だ。若くして亡くなられたヴァレンタイン伯の一人娘か……」


 そこでようやく、カガリの口調が少しだけ和らいだ。ツクヨミの補佐官として国政に関わるカガリならニコラの領地のことも知っているのではないか、という読みだったが、当たりだったようだ。


「あの、隊長」


「もうお前の上官ではない。なんだ」


「ニコラ……アイリスネシア殿下の医務官は男性が苦手なもので、できればどなたか女性を迎えに出していただけると……」


 立場をわかっているのか、という顔で目をいたカガリが、大きくため息をつく。


「はぁ……。ナデシコ」


「はぁい。どうしました、あなた」


 カガリの呼び声に応えて影が揺れたように見えた直後、一人の女性が完璧に音を立てずに階段を降りてきた。こげ茶の髪をゆるく束ね、おっとりした口調の彼女に、ユエは思わずうめきそうになった。


 ナデシコ・ウワジマ。カガリ隊長の妻であり、女王近衛の副長でもある。弓の名手として名を知られ、アケノの弓取り隊が恐れられているのはひとえにこの人の存在による。


「ユエの連れが南にいる。女、赤毛、南方人。エンディム第一王女付き医務官だそうだ。身柄を押さえてくれ。丁重にな」


 淡々と告げる夫の言葉に「ふんふん。はーい」と笑顔で応じて、ユエの方を見たときは目が笑っていなかった。


 人づてに聞いた話では、ナデシコは先代の女王に「弓の腕前を見せよ」と言われアケノ宮城の天守から一本の矢を放った。ちょうど、城の北側の丘で見張りをしていた部下が勤務中にこっそり楽しもうと酒のかめを開けていた。盃を口に運んだまさにそのとき、矢が飛んできて甕を砕き、仰天した兵士は酒をすべてこぼし、宮城に走って女王に事の次第を話した。女王が唖然として横のナデシコを見やると、彼女はたおやかに微笑みながら酒の代金は自分が弁償すると申し出たという。


 実話かどうかはともかくとして、細められた目の鋭さを見れば、そういうことをしそうな人ではある。


「それで? その女の子は可愛いの?」


 そして、こういうことを平気で訊いてくる人でもある。


「タカナシ君は陛下のことを忘れてその女の子に乗り換えたの?」


「いえ、決してそのような……」


 これがあるからこの人が苦手だ。


 ニコラを連れてこなかったのは単純に目立つというのもあるし、ユエが使った抜け道をエンディム人に知られないためというのもある。が、一番の理由はこの人、ナデシコ副長が絶対にいい顔をしないからだ。


 先代への恩義か、単純にカガリとの間に子供がいないこともあってなのか、先代が遺した現ツクヨミのことを娘のように溺愛している節がある。その上、職位としてもカガリに次ぐ地位にあり、近衛の新米であるユエが気軽に口を利ける相手ではない。


 挙句の果てにユエは命令不服従で除隊されて国から逃げ出した男なので、ナデシコの胸中に積み上げられた不満はアーシア天山よりも高い。


「陛下の恋人だったのに任務を放り出したんだもんね?」


「……はい」


「それで? 今度は陛下の身に危険が迫っているって? 私たち隠密の情報網もわかった上で?」


「重々承知しております」


「また陛下を救えば国に戻れると思って来たの?」


「まさか。滅相もないことで……」


「じゃあ恋人を助けるために打ち首覚悟で密入国したんだ? わ~すっごい」


 心にもないことをにこにこと笑いながら言われる、というのは、なかなかある経験ではない。皮肉なのは痛いほどわかっていても、ユエにはなに一つ言い返す余地がないのでなお悪い。


「その斬首の命令を出すのが陛下だってこともわかってて、陛下に目の前で恋人が死ぬところを見せることもわかってて、もう二度と会えないとしてもせめてどこかで生きていてほしいっていう陛下のお心も全部無視して、戻ってきたんだよね~?」


 ね~? などと明るく訊ねられるが、ユエが斬首されることになったら喜々として手を挙げそうだ。


 言うことは一々もっともなので、ユエはナデシコの気が済むまで嫌味を言われるがままにした。カガリが助け舟を出してくれないかと少し期待したものの、あろうことか視界の端で「もっと言ってやれ」とばかりに頷いていた。訊いてみたことはないが、二人が夫婦になった理由が「女王を守る上で都合がよいから」でもユエは驚かない。


 だから、次に声が聞こえたとき、それが誰のものなのかユエは一瞬混乱した。


「それくらいにしておけ」


 細められていたナデシコの目がぱっと開き、即座にユエに背を向けて部屋の入口に一礼する。


 薄暗い階段の上から覗いたのは、幽玄な白。


「久しいの、我が刃。愛しのそなた」


 第二十五代アケノ国女王ツクヨミが、つやっぽく小首をかしげたのだった。

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