シーン9 手紙と指令書

 後になって聞いたところでは、熱が引くまでに二日かかったらしい。


 その間、ユエは真冬の夢を見ていた。白い景色と、白い女王の夢だった。


 たぶん、寝かされていた寝台に使われていたのが上等なきぬだったからだろう。故郷を追われてからこっち、野宿続きで夢を見られるほど心地よく眠れていなかったし、町に着いた途端に牢に放り込まれた。


 まともな部屋で眠れたのはずいぶん久しぶりのことだ。


「……すぅ」


 目覚めたときに誰かの寝息が聞こえるというのも、同じく懐かしいことだった。


「誰……」


 が、ベッドに寄りかかるようにして眠りこけているのは知った顔ではない。淡い桃色の赤毛を編み込みにした侍女のような服装の人物で、ユエと同じくらいの年齢に見える。


「ん……?」


 と、彼女の指先がひどく乾燥して、ささくれているのが目についた。詳しくないユエでもわかる。これは意識を手に集中し対象に直接触れて魔道を使う人間、治癒術師の手だ。


「んゆ……?」


「おはよう」


 ユエの気配を感じたのか、目を覚ました彼女のぼうっとした顔と目が合う。


 数瞬の間があった。


「――!!」


 ぶわ、と裾が膨らむほどの速度で後ずさった。ほとんど突っ伏しているような姿勢から一気に五、六歩も後ろに下がるのだからすごい。


 瞬発力があるな、と見当違いの感想を抱きながら、ユエは巻き込まれて倒れてしまった椅子に手を伸ばした。


「傷を治してくれたんだろう? 起きたときにまったく痛みがなかったから、しばらく腕が折れていたことを思い出せなかったよ。すごいな。ありがとう」


 とりあえず感謝を伝えてみたが、治癒術師の彼女はついたての後ろに身体を半分隠したまま近寄ろうとしないので、ユエもちょっと反応に困る。アケノにいた頃はユエとツクヨミの関係が公然の秘密だったため、女王に遠慮してか後難を恐れてか軍や宮仕えの女性陣から距離を置かれており、実はあまり同世代の女性と話した経験がないのだ。


「で、殿下にお伝えしてまいります……」


 なんとか聞き取れるぎりぎりの大きさの声で告げられ、丁寧にお辞儀までされるので、なんとなくこちらも神妙な面持ちでお辞儀を返し、お互い微妙に気まずいまま無言の数秒が過ぎる。


 結局、話が進んだのはアイリスネシア王女の快活な声が響いてからだった。


「おっはよう!」


 ユエは即座に頭を下げ、左手を胸元に添え、右手を見えるように身体の横に開く。エンディム式の挨拶作法だが、武器を持っていないことを示すこうした動作は女王近衛として一通り教え込まれた。


「アイリスネシア王女殿下、このたびはご尊顔を拝する光栄を賜り恐悦至極に存じます。とこに就いたままでご挨拶申し上げる無礼、なにとぞご容赦いただきたく――」


「あー、そういうのはやめてほしいの。楽にして頂戴」


「は……」


 心底うるさそうに手をひらひら振る王女に困惑するが、楽にしろと言われて従わないほうがまずい。ただ、最低限の礼儀として、謝意は述べておく。


「牢から解放していただいたこと、まずはお礼を申し上げます。また、そちらの治癒術師様の手を煩わせてしまったようで……」


 そちらの、とアイリスネシアの背後に隠れるようにして身体を縮こまらせていた赤毛の侍女の方に手を差し向けると、本人は「見つかってしまった」と言わんばかりの絶望の表情でますます所在なさげにしていた。


「でしょ? ニコラはあたしの自慢の友達なの。もちろんとっても優秀よ。離宮の医務官をお願いしてるくらいの……あ、悪かったわね。この子ちょっと男性が苦手だから、なにも失礼がなければよかったのだけど」


 ニコラの襟をむんずと掴んだアイリスネシアが、水に濡れた猫のようになっている医務官を自分の前に突き出してけらけらと笑っている。自慢の宝石を見せびらかしたくて仕方がない貴族の令嬢のようだが、あいにくこの宝石には羞恥心しゅうちしんというものがある。


 あけっぴろげな貴人に仕える大変さはユエにもわかるので、内心ニコラに同情する。「お互い大変ですね」と声にしない視線を送ると、やっと少しだけ苦笑してもらえた。


 だが、王女アイリスネシアはここにユエを見舞いに来たのでも、臣下を褒めに来たのでもない。


「それで、貴方がユエ・タカナシなら、アケノには女王近衛兵の名目で公式には存在しない隠密部隊があるっていう噂は本当なのね」


 世間話のような調子で問われるが、はいそうですと言えるわけもない。ただ、アイリスネシアほどの地位にある人間が他国の諜報ちょうほう活動についてまったくの無知というのもあり得ない。


 ユエは曖昧に笑って返事を差し控えたが、それで充分だったようだ。


「これはあたしたちの密偵が手に入れ……あー、ええと、町の衛兵が不審なやからの荷をあらためたときに見つけたの。貴方なら、これがなにかわかるでしょう」


 折りたたまれた紙片のようなものを渡され……そうになったが、ニコラが横から銀の盆を差し出して、その上に紙が置かれた。王族たる者が手ずから物品を貸し与えるなど、そんな気軽に行ってよいことではない。


 受け取った紙を開いて、ユエは少しだけ顔がほころびそうになった。


 そこに書かれていたのは大雑把に言えばアイリスネシア王女の暗殺計画についての人選であり、実行犯はアケノ国の隠密から選定するという内容であるにもかかわらず、だ。


 なぜなら、それはユエがかつてカガリから渡されたものと同じ符丁ふちょうが使われ、同じアケノ軍の印璽いんじが捺してあったのだから。


「それが正式なアケノ国軍の印と一致する、というところまではあたしたちも調べが付いているの。そういうわけで隊長は市壁に網を張っていた。祭が近くて人の出入りも多いし、何かが起きるならいかにもって時期だから」


 他国の暗殺者に狙われているということを、まさにその暗殺者本人の疑いがあるユエに説明しているのにまったく言葉選びに迷いがないのは、王侯にありがちな無根拠な自信なのか。


「知りたいのは、確度」


 それとも、本物ではないと見抜いているからか。


「一つだけよろしいでしょうか」


「二つでもどうぞ」


 お茶目に指を二本立ててぴょこぴょこさせる王女に、ユエは少し考えてから問いかける。


「なぜ、俺をそこまで信用なさるので? もしかしたら本当に殿下を狙っているかも」


「ツクヨミがあたしを殺す理由がない」


 今度はアイリスネシアが待たせる番だった。


 たっぷりと間を持たせて、懐から一通の封筒を取り出した。


「ツクヨミとは文通をする仲だもの。意外? それじゃあ、あたしからも一つ訊くけど、貴方の名前を知ってるのはなぜだと思うの?」


 なぜだと思うの、と問われて馬鹿正直に考えるようなユエではない。


 アイリスネシアの顔が、うっすらと、にまにまと、王族に対して使ってよい最大級下品な形容を選べばいやらしい笑みになっていくのとは対照的に、ユエの顔からは表情が抜け落ちていった。


「ツクヨミが書いて寄越すのは名前だけじゃないわよ。特に陽が落ちた後の話なんてとても詳しくてあたしはいつも顔が熱くなるのを我慢しながら――」


「わ、わかりました。もう結構です」


 穴があったら入りたい。


 王族の女性どうしのそういう会話に自分の名前が出てきているなんて知りたくなかった。というか、年頃の少女の虚栄心というか、自慢したいという欲求を見誤っていた。女王ツクヨミといえども他人に惚気のろけを言いたくて仕方がないのだ、などという発想がそもそもユエの中にはない。


 考えてみれば当たり前の話で、ユエ当人に惚気ても仕方がないし、周囲の人間は「女王ツクヨミ」の言葉を聞いているのであって、色恋に浮かれる少女と話しているわけではない。隣国の、それも自分と同じ王族で年齢も近い王女など、格好の話し相手だ。


「あら? 残念ね。貴方がツクヨミに閨で囁いた睦言むつごとならそらで言えるのに」


「そ、それで、この指令書ですが……」


 無理矢理に話題を戻すと、はしたない王女は名残惜しそうにしながら手紙を懐にしまっていた。


「まず偽物です」


 つん、と顎を上げて見下ろされる。


 理由を言え、ということだ。


「紙です」


「紙……?」


 ユエは少しだけ躊躇うが、アイリスネシアの青色の目は続きを急かしている。本来は機密なのだが、明かさないことには話が進まない。


「印璽はたしかにアケノのもので間違いありませんが、偽造でしょう。様式や使われている符丁、語彙もよく似せてあります。しかし、本物の指令書はアケノ王室にのみ納められている特上紙を使用します」


 国内にわずか数名しかいない熟練の職人による、雪のように白く空気のように軽い紙だ。山林が大部分を占める東方四国の製紙業は芸術の域に達している。


「それに比べると、この紙は厚すぎる」


 紙のつくりは東方のき方なので、東方製であることは間違いない。そこまで伝えると、アイリスネシアはもうユエを見ていなかった。深く沈みこむように思考の内に潜り、顎に手をやった姿勢のまま微動だにしない。


「その話の根拠は」


「王女殿下はツクヨミ陛下からのお手紙を受け取っておられる」


 封筒は頑丈な三等紙でも、中の便箋は特上紙のはず。


「それに、こんな低級の紙で指令書を出すのは隠密にとっても命取りです。処分が大変ですから」


 厚い紙は、燃えにくい。


 ましてや隠密は人に見られてはならず、もし敵方の手に落ちても指令を知られてはならない。極薄の紙は火にくべれば瞬く間に灰になり、水に濡らせば溶けて読めなくなる。なんとなれば、丸めて飲みこんでしまえばいい。腹を裂かれても見つかるのは血を吸った紙屑だけだ。


 だとすれば、粗悪な紙を使う目的は逆になる。


「わざと、なのではないでしょうか」


 もし本気で王女の暗殺を計画しているとしたら、指令書などというものを残しておく意味がない。


にせ情報ということ?」


「はい。本当の狙いが別にあるならば、アケノの密偵が王女殿下の命を狙っている、と思わせるだけでよいのです」


「離宮はそれを無視できず、警備を固めることになる……町から兵を引き上げさせて……それなら狙いは、町中にある?」


 再び自分の内にこもりそうになったアイリスネシアだったが、ニコラになにかを耳打ちされてため息をついた。彼女の嫌そうな顔からすると、おそらく公務を抜け出せる時間はこれくらいが限界なのだろう。


「もう少し話していたいけれど、可愛い従者に仕事をしろと怒られたわ。ユエ、ゆっくり休んでね」


「アイリスネシア殿下のお心遣いに感謝いたします」


 痛みがないので忘れそうになってしまうが、重傷から快復かいふくしたばかりなのだ。


 ちょうど迎えの兵士が来て、アイリスネシアはニコラに二、三の指示を出して部屋を出る。


「ああ、それと」


 と、身体の半分以上が廊下に出たところで立ち止まり、顔だけを扉から出して、


「アイリスでいいわ。呼びにくいでしょう」


 という一言を残して去っていった。東方人にはなじみのない名前だから、という意味なのかと思ったが、迎えの兵がユエにいぶかしげな視線を向けていたので、わざとだろう。


 親しげに愛称など使えばあいつは何者だということになり、しかし頑なにアイリスネシアと呼べば王女殿下の機嫌を損ねることになる。


「たしかに、呼びにくいな……」


 ぽつりと呟いたユエに、悪戯好きの主を持ったニコラが深々と頭を下げたのだった。

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