シーン8 追憶:冬
約1年前 アケノ国王宮 兵舎 ユエの自室
アケノでは、目覚めて最初に飲む物がその人物の地位を表す、ということわざがある。
水を飲むのは平民。酒を飲むのは成金。そして貴族は使用人に淹れさせた熱い茶を飲む。
だがユエは息を呑んだ。
目に入ったものが、あまりに美しかったからだ。
「……」
一糸まとわぬツクヨミが、窓を開けて外を眺めている。
ここは兵舎の二階であり、外を通りかかる人間がいれば簡単に肌が見えてしまうというのに、恥じらう様子もない。だが、もしそんな人間がいたとしても目を伏せて足早に立ち去るだろう。アケノ国女王の素肌は色気を超えて、どこか神聖さすら漂わせる。
と、白い彫像のようなツクヨミが振り向き、こいこいと手招きした。ユエは寝台を出て、彼女の後ろに立つ。外では、大粒の雪が音もなく降っていた。
「ユエ」
「へい――」
言いかけた唇を、指で押さえられる。
「ツクヨミ」
「うん」
臣下としてではなく、ただの男として彼女の名を呼ぶ。また一日が始まり女王と近衛に戻る前の、二人の蜜月の時間だった。
ユエは手伸ばして、床に脱ぎ散らかされた上着をツクヨミの肩に掛ける。
「冷えますよ」
「雪を見ていた。冬は良いな。雪が積もると、民も家に
窓から見えるのは、白。そしてツクヨミの肌も髪もまた、白い。遠近感の消滅した広大な空間に、ユエとツクヨミ、二人だけが裸で立っている。
「世界に私たちだけしかいないようだ」
ツクヨミの一人称が「妾」でなくなっているのは、親しい相手と話すときの癖だ。
それは同時に、女王としての重責をしばし忘れられる相手、ということでもある。
「もしできるなら、俺と……」
逃げたいですか。
そこまでは言葉にしなかった。
言わなくとも伝わるからであり、本気の質問ではなかったからだ。だから、柔らかく笑うツクヨミの赤い瞳が細められているのを見て、ユエは軽い気持ちで訊いたことを少し後悔した。
「うん、逃げたい」
だが、そこで終わるツクヨミではないし、もしそうなら今頃こんな関係になっていない。
「なんて、言えぬわな」
流石だ。
「母が病に倒れ、私が女王となった。その直後、
アケノの北、ヒオカが攻め入ってきたのは、先代の二十四代ツクヨミ女王が他界した、国葬のさなかだった。二十五代ツクヨミが即位の儀を省略して女王の名を襲名、混乱するアケノ軍をまとめヒオカを撃退したこの戦は、東方内乱、と大陸一般では呼ばれる。当事国であるアケノにとってみれば内乱でもなんでもないのだが、大陸の他の地域から見れば東方諸国を区別する意味は薄い。
ユエたちアケノの民は、この戦を
「民を見捨てて逃げるような腰抜けの女では、恋人に嫌われる」
ユエがツクヨミに見初められたのも、この戦だったのだ。
不安に震えるツクヨミを背中にかばい刀を握ったときのユエは、まだ新兵だった。
だが、あれから少しの月日が過ぎ、経験も積んだ。
「嫌いになどなりませんよ。まあ、たしかに責務に背を向けない気高いところが美しいと思っていることは認めます」
それから少しばかり意地が悪くなった自覚もあるので、ツクヨミの細い肩を後ろから抱き、形のよい耳にささやいた。
「それに、腰抜けと言うなら毎晩足腰立たなくして差し上げているでしょう」
もっとも、それはツクヨミの好みに合わせた結果なのだが。
雪が音を消し、朝の城内は驚くほど静かだ。誰かが起きてくるまでは、まだ少しばかり時間がある。
腕の中のツクヨミが身体の向きを変え、ユエと目が合う。長いまつ毛がそっと伏せられ、吸い寄せられるように二人の顔が近づく。そして、柔らかな唇の感触が――
「 」
来なかった。
「ユエ、近衛のカガリ隊長がお前を――――こ、これは陛下! 失礼を……」
早朝の鍛錬の折にでも言伝を預かってきたのだろう、同僚が扉を開け、直後に室内の状況に気付いて頭を下げた。
「よい、よい。用件はわかっておる。下がってよろしい」
「はっ!」
部屋を辞する足音が遠ざかってから、ツクヨミは大きくため息をつく。
「やれやれ、おちおち
そのときには、もう女王ツクヨミの口調だった。
ユエは苦笑して、抱きしめていた腕を解き、高貴な主人に
「そなたを妾の近衛に任じておいた。部隊長のカガリから、教えを受けるがよい――――」
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