シーン7 投獄

 最初に気づいたのは、後ろ手に手枷てかせをはめられていること。


「う……」


 呻いた息が冷たく跳ね返るのは、自分が頭から石の床に突っ伏しているから。


 暗く、湿っていて、恐ろしく寒い。


 だが、それは単に今いる場所が牢獄だからというだけではなく、折れた左腕のせいで発熱しているからだろうというのも察しがついた。


「目覚めたな」


 床に顔をつけたまま声がする方に目を向けようとすると、右肩に激痛が走る。濃い血の匂いからして、最低限の止血しかされていない。


 おおかた、死んでも構わないという扱いをされているのだろう。


 声をかけてきた人物の背後に松明があり、顔は逆光になっていて見えないが、体格と立ち姿からあの赤毛の隊長だろうとあたりをつける。


「ここは……」


「お前の仲間はどれだけいる」


 ユエの言葉を遮るように問いが重ねられる。


「知らない、なんの話を――」


「正直に吐けばすぐに死ねるが、口を割らなければ苦しみが長引く」


 自分で言った言葉を裏付けるように、隊長は牢番に短く「鍵を」と指示した。耳障りな音とともに鉄格子が開くが、それがユエを開放するためでないのは明らかだ。


 筋肉質な人間が歩くとき特有の足音がして、ユエの腹に革のブーツのつま先がめり込んだ。


「お前はアケノの密偵だ。王女殿下を狙っていることはわかっている」


「ちが、う。俺は――」


 再び同じ個所に同じ蹴りが入る。それは、まるで水車仕掛けの機械がそうしているような、慈悲や人間性というものを一切排した動作だった。


「仲間の数は。どこに隠れている」


「俺はただ、アケノ軍を除隊されただけ――」


 同じことが繰り返される。


 ユエの胃の中には吐くものなどなく、血の混じった液体が口から飛び散っただけだった。


「どうやって殿下を襲う。計画を話せ」


 ユエは答えなかった。


 無駄だ。この人物は完全にユエがエンディム王女の命を狙っていると確信しているし、否定すればするほど、密偵として情報を隠そうとしていると思われるだけだ。


 隊長はひどく冷静だし、王女への忠誠も厚い。おそらくはユエを暗殺者だと断定するに足る証拠が見つかっているのであり、ユエはどこの誰かもわからない暗殺者の身代わりに仕立て上げられたのだろう。真相は王宮の内部政治が絡んでいるのか、それともエンディムに敵対する北の大国、ドルン神聖王国の陰謀なのか。そんなことはわかりようがなく、証明する手立てもない。


 自分は、殺されるのだろうか。


 ユエは、痛みと熱の中でぼんやりと思う。


 ここで死ぬことになったとして、それは仕方がない。そもそもが、ツクヨミの温情がなければカガリの手で首を刎ねられて罪人として埋められていた。アケノには不名誉な死を遂げた軍人のための無縁墓地がある。そこには墓碑銘もなければ、埋葬者の名前も記録されない。親類縁者がそこを訪れたとしても、どこに自分の息子や父や夫が埋まっているかわからないようにするためだ。


 一つだけ心残りがあるとすれば、自分の死が故郷に知らされることはないだろうということだ。エンディムはユエを王女暗殺を企んだ者として殺すだろうし、そんな人間の名前がアケノに伝えられることはない。ツクヨミは、せめてもう会えなくなるとしても、生きていてほしいと思ったからこそユエを国外追放処分にしたというのに。


 あるいはそのほうが、ツクヨミの心の傷は浅くなるだろうか。ユエがエンディムで死んだ後も、ツクヨミはそんなことは露知らず、どこかでユエが生きているのだと思ってくれるのならそうかもしれない。


 年月が過ぎ去れば、ツクヨミも世継よつぎを生むために別の男を迎えるだろう。いや、世継ぎを作るため、というのはユエの希望的観測でしかない。単に、新しい男に惚れることだってありうるのだ。


「は、はは……」


 ユエは、自分でも笑ってしまう。


 腕を折られ、肩には矢を受け、何度も蹴られて、もうすぐ死ぬ。


 そんなときにもう会うことができない女のことを思っている自分は、滑稽であり、器の小さい男なのだと思う。


 自分には相応しい最期ではないか。


 曖昧な意識の中でそんなことを考えたらしい。


 らしい、というのは、気がついたときには隊長はすでにおらず、ユエは牢の中で放置されていたからだ。


「――」


 なにかが聞こえたと思って顔を上げると、牢の入口に誰かがしゃがみ込んでいた。薄暗い松明の灯りの中では、小柄だ、ということくらいしかわからない。


 そんなはずがないのに、ユエは一つの名前を呟いている。


「ツク、ヨミ……?」


 だが影は立ち上がり、こう言っただけだった。


「食事よ」


 簡潔だが綺麗な発音で、アケノ国女王ツクヨミの声ではありえない。雇われの人間なのだろう。兵士と呼ぶには線が細いし、アクセントには少し高貴な印象がある。もしかすると、この牢を所有している貴族の従者かなにかかもしれない。


 だが、ユエにはどうでもよいことだ。


「悪いんだが、下げてもらえるかな」


「なぜかしら」


 疑問を投げかけられと思っていなかったので、素直に驚いた。罪人が食事を拒めば普通は無理やり押し込むか単に捨てられるかだ。見れば、盆に載せられているのは目方めかたの重い黒パンと薄いスープのようで、王女の暗殺者に出すにはずいぶんまともな内容だ。


「生憎だが、俺はもうすぐ死ぬ。それにご覧の通り手が使えない。食べ物を粗末にする必要はない」


「ならあたしが食べさせてあげてもいい」


「はあ?」


 意外と言うにもほどがある提案に思わず呆れたような声を出してしまうが、そいつは意に介さずに蜜蝋みつろうの蝋燭を掲げて自分の顔を照らす。


「あたしが誰かわかるかしら?」


「……すまない、本当にわからない」


 食事を持ってきた女は、一言で言えば整った顔をしていた。


 南の貴族がうらやむような金髪に、知的で好奇心旺盛そうな薄青の瞳には学者の雰囲気がある。だが尊大なところはなく、ここが陽の当たる軒先であれば楽しく会話して別れられそうな相手だ、ということしかわからない。


 過去に任務かなにかで会った者だろうかとも思うが、東方人の顔立ちではないし、知人なら見間違えようがない。どこかで見たことがあるようにも感じるが、アケノ出身のユエには南方系の人種は正確に区別できない。


「ふぅむ……」


 彼女は細い顎にこれまた細い指を当て、うんうんと頷くような仕草でなにかを確かめている。


「さっき誰かの名前を呼んだわね。どういう関係?」


「それは……」


 言いよどんだのは、単純に混乱しているからだ。この女はなんのためにそんなことを訊いてくるのか? もしかして、これも尋問の一環であり、油断させてユエに情報を喋らせようとしているのでは?


 だが、ユエの警戒もよそに「家族……ではないわね。かといって上下関係を感じさせる呼び方でもなかったわ」と勝手にあれこれ考えている彼女が、なにか裏の意図があるようには思えない。あるとしたら質問の仕方が下手すぎる。


「もしかして恋人かしら?」


「!」


 元隠密の意地として絶対に表情は変えなかったと断言できるが、それでもわずかに反応したユエに向かって、金髪の女はぱっと顔を輝かせる。


「当たりね? じゃあやっぱり貴方がそうなんだ。ツクヨミの恋人でしょう。名前はたしか――ユエ・タカナシ?」


「なっ」


 誰一人縁者がいない異国の地の牢獄で、初対面の女がユエの名前を知っている。


 異常なできごとと言えばそう。だが、次に起きたことはもっと異常だった。


「まずはここから出なくてはね。隊長! 今すぐここに来なさい!」


 彼女が声を張り上げると、階段の方からなにやら返事があり、ぞろぞろと数人の足音が聞こえてくる。金属のこすれる音はその集団が武装していることを示しているが、金髪の女は怯えも恐れもしない。


 そこでやっと気が付いた。彼女が現れてから、牢の前には他に誰もいない。牢番さえいないのだ。


 王女暗殺犯が収監されている牢から人払いをできるほどの権力者。おそらく、それは……。


「この方を開放して。彼は違う」


「で、ですが……」


「あたしは命令しているのよ隊長。知っての通りあたしは他人に命令するのが大嫌いなの。これ以上あたしに嫌なことをさせないで。彼が暗殺者なら、標的の顔さえ知らない間抜けということになる。そんなことあり得る?」


 主人の厳命に苦い顔をしながら、隊長が牢番に頷く。ユエは失血と熱で朦朧としながら、自由が再び自分の手に戻ってくる音を聞いていた。


「初めまして? ユエ・タカナシ。エンディム王国第一王女、アイリスネシア・エステル・フォン=エンディムよ、よろしくね」

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