シーン6 離宮都市

 ユエは目が回りそうだった。


 二重になっている市壁しへきの一つ目をくぐり、馬を預けて歩き出した時点で、思っている以上に大きな町であることはわかっていた。まだ昼前だというのに人の列ができ、木箱を満載にした荷馬車や、身体とほとんど同じ大きさの鞄を背負った商人、あるいは丸太のようなごつい腕の遍歴へんれき職人などが順番を待っていたからだ。


 だが、二つ目の市壁を越えて町の中に入ったときの衝撃は想像を超えていた。


 まず人。立錐りっすいの余地もないとはこのことで、お互いの足を踏まないように気を付けながら歩かなくてはいけないほど大勢が行き交っている。その誰もがただなんとなくペルディアを訪れたという感じではなく、商売なのか、自分の腕を売り込みに行くのか、あるいは所属している組合に呼び出されたというふうに各々の目的地に向かって歩いていた。


 あたりから聞こえてくる会話では祭が近いこともあって人の出入りが多いようなことも言っていたが、だからといって単なる見物客だけでこんなふうになるわけでもないだろう。日常的にものすごい数の人が集まるような都市なのだ。


 次に目を奪われたのは建築で、目抜き通りには石組みのしっかりした建物が並び、かといって都市の繁栄を誇示しているとか、特別きれいにしているわけでもなさそうだ。建築様式はアケノとまったく違うにしても、装飾はむしろ質素で、これが当たり前、という雰囲気がある。


 なによりすごいのは丘の上に見える宮殿だ。離宮都市という名の通りエンディム王族の子息が暮らす場所だが、規模はアケノの宮城と変わらない。だがアケノに宮城が一つしかないのに対して、エンディムにはこんな都市がほかにいくつもあって広大な土地を治めている。それもこれも大陸の南の豊かな穀倉地帯が支えているというのだからすごい。


 陽気で忙しない都市の空気に、どちらかというと静かな国から来たユエは少しばかり気圧けおされてしまう。人ごみを離れるために路地に入ると、ようやく息が吸えた気がした。


「ふぅ……」


 人気のない細い道でも、やはり足元の石組みは隙間一つなく、ゴミひとつ落ちていない清潔な都市、という印象を強くする。浮浪者や物乞いが見当たらないのはそれだけ統治がしっかりしているという証拠だ。


 ということは、夜中に通りをほっつき歩いていると衛兵に見咎められることになるに違いない。


「早いとこ宿をとらないとまずいかもな……」


 しかし、後ろをふり返れば濁流のような人だかり。


 この中に戻っても行く先々の宿はとっくに満員だろう。そんなことを思ったときだった。


「――」


 例えるなら、窓の隙間から冷たい風が吹き込んで肩に触れた、という程度の感覚。


「すぅ……」


 ユエは、深呼吸を一つして、無言のまま路地を進む。


 つきあたりの三差路を右に曲がり、さらにその先の十字路を左に折れる。そんなことを、都合四度繰りかえす。


「これは……」


 しまった、と思ったときには、路地の先に広い空間が見えてきていた。中央に井戸があり、周囲を建物の壁に囲まれているので、この地区の住人たちが使う生活井戸だろう。祭の準備に忙しいのか、建物の扉や窓はどれも閉まっていて、逃げ込める場所はない。


 それ以上に、ここで今からなにが起きようと目撃者はいない。


「……」


 誰かに見られている気配を感じ、避けようとした結果ここにたどり着いた。いや、追い込まれたのだ。


 後ろを振り向くと、武器を持った一団が路地から出てきたところだった。


「何者だ」


 問いかけるが、答えを聞くまでもない。えんじ色の外套がいとうの下に、要所を鋼鉄で補強した革鎧。腰から提げた剣の柄には、質素だが見事な銀の装飾もある。どれも日常的に手入れされ、すぐ使えるようになっていることが一目でわかる。儀礼用ではなく実戦用の装備であり、しかも肩あてには、白い丸を五角形が取り囲む紋章が染め抜かれていた。それは王都と五つの要衝都市からなる南の大国を示す意匠であり、今まさにユエが踏みしめている場所は、五角形の最上部の頂点を占めている。


 問題は、なぜエンディム王国正規軍の部隊がユエを取り囲んでいるのか、ということだ。


「アケノ国女王近衛だな」


 ざっ、と人の列が割れ、奥から一人の女性が歩み出た。ユエは決して小柄ではないが、彼女はさらに頭二つ分は高い。鍛冶場の炉が燃えるような赤毛の髪を束ね、女丈夫と呼ぶに相応しい体格で、それに見合う長柄の大斧をごんと敷石に打ちつける。


 隊長格と思しき女が片手を挙げると、左右の兵が槍を構え、さらにその横の兵たちが弓に矢をつがえた。


「貴様を連行する」


「罪状は? エンディム王国軍は旅人を牢に放り込むのが趣味なのか? ベッドメイクは毎晩してもらえるんだろうな?」


「抵抗すれば命の保証はない」


「おいおい、少しはこっちの話も聞いて――ッ!」


 びゅん、と風を切る音がした。そう思ったのはおそらくすべてが終わってから。突き出された槍を、上体をひねって回避したユエは、そのままの勢いで身体を半回転。踏み込んで後ろ回し蹴りを兵士の顔面にめり込ませた。


「ぼぶッ!」


 と、声にならない声を上げて最前列の兵士が石畳に突っ込んだ時点で、もはや穏便にことを収められる段階は過ぎてしまった。


「散開!」


 隊長の号令に、兵たちが散ってユエを取り囲む。


「ちっ!」


 舌打ちして、腰の短刀を抜く。逆手に構えるのはそうしたほうがより深く突き刺せるからであり、それは暗殺者の構えに他ならない。


 一瞬、ユエの脳裏を分類しがたい感情がよぎる。


 女王を守るため軍役に就き、近衛として、また暗殺者として、無辜むこの民を斬ることができずに国を離れた。それなのに、結局こうして刃を握ってしまう自分は、どうにも流血沙汰から離れられないらしい。


 時間にすれば一秒未満の後悔とも呼べない逡巡を終えて、ユエは地面を蹴った。


 そこから先の展開は早かった。


 突き出される槍を捌き、脇腹を蹴り抜く。そこに斬り込む長剣を短刀で受け、足払いをかけて転倒させる。放たれる矢を短刀で斬り飛ばしたところに別の矢が差し込まれ、危ういところでのけぞってかわす。


 振り降ろされる剣、抉るように飛び込んでくる槍の穂先、矢が空気を割く音、いずれもユエを捕らえられず、反対にユエの拳が、肘が、膝が、兵士たちの腹と腕とみぞおちに突き刺さる。余裕さえ感じさせる演武のような殺陣たてをこなしながらも、ユエの胸中に闘争の高揚はない。ただ正確に、最も適した動きをする。カガリに教えられたとおりに。


 かつての上官の顔が浮かび、その娘である、一人の女王の赤い瞳を思い出す。


「ふん――ッ!!」


 その一瞬の隙に、ユエの望郷を砕き折るような重い一撃がぶつけられた。


 横なぎに振り抜くような大斧の一振りに、ユエの身体が宙を舞い、民家の壁に叩きつけられる。


「ぐ……ぁ……?」


 脳まで響く衝撃で思考がまとまらない。


 右手が、なにかを握っていたような形に閉じている。近づいてくる足音が友好的なものでないことはわかっているのに、膝が震えて立ち上がれない。


 がごん、と地面が揺れるような音がして、そちらを見れば見上げるばかりの女丈夫が身の丈ほどはある長柄斧を手にこちらを睥睨へいげいしている。あの斧でやられたのだ、と理解が追いつき、左半身の焼けるような痛みがようやく感じられた。刃を当てないように斧の側面で叩かれたのだろう。腕が折れている。


 ふらふらと立ち上がり、短刀を構えようとするが、殴られたときに吹き飛んだらしく井戸の横に落ちていた。ユエの視線を遮るように兵士が短刀との間に割って入る。


 兵士たちがじりじりと間合いを詰める。槍兵は警戒してか近づかず、弓兵たちが弓を引き絞る。


 彼我の距離はおよそ四歩半。


 躱して剣を奪うなりなんなりできると思うのは、少々楽観的すぎる見方だろう。


「殺すな。生け捕りにしろ」


 隊長の事務的な命令に弓兵が目配せし合う。狙うのは脚か、あるいは反撃を封じるため肩か。だが、隊長の口調にはどこか押し殺したような雰囲気がある。本当ならこの場で殺してやりたいが、仕方なく命じているというのが滲む態度だった。


 額に矢が突き立てられても不思議はない。


 死を前にして思い浮かぶのは、一つの名前。


 ツクヨミ。


 果たしてその祈りが届いたのか、それとも単なる偶然だったのか。


 ぎ、と木の軋む音が響いたのは、ユエの背後からだった。


 民家の窓が空き、町の住人が顔をのぞかせたのだ。まだ十代の子供といってもよいような、あどけない少年だった。


 たぶん、ほんの好奇心だったのだろう。もしかすると、たまたま家に帰ってきたが両親がおらず、不審な物音がしたので窓を開けてみただけなのかもしれない。


「は、え……」


 間の抜けた反応に思わずその場の誰もが緊張を緩めた。ユエも、隊長も、殴られた鼻を押さえている兵士たちも。


 そしてもちろん、弓兵たちも。


 思わず矢から指を放してしまった者の数は、少なくなかった。


「伏せろ!」


 それは、ほとんど反射だった。


 ユエの意識にのぼったのは、思考とも呼べないような細切れの単語だけだった。


 民。


 守らねばらないもの。


 叫びながらユエは大きく両腕を広げる。わずかでも窓を塞げるように、自分の身体が盾になるように。


 ユエが最後に聞いたのは、肉に鏃が食い込むときの、鈍い音だけだった。

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