シーン5 王女と侍女
同時刻、エンディム王国・離宮都市ペルディア 離宮東棟
その朝、ニコラ が身支度を済ませて廊下に出たところで、後ろから声をかけられた。
振り向くと、
離宮内でも最低限の武装を解かないのは、武官としての責任感と自負からであり、女中用のお仕着せを着て背中を丸めているニコラとは正反対の人物と言ってよい。
「あ、隊長……。おはようございます」
「ああ。殿下を見なかったか」
挨拶も抜きに要件を尋ねられたが、無作法を咎めることはしなかった。というより、できなかった。本来の身分なら平民出身のエルダは貴族のニコラに頭を垂れなければならないのだが、職位は血筋に優先する。
なにより、それを強く言うのは身分を笠に着ているようで嫌だったし、そもそも他人になにかを主張するというのが自分の性分に合っていない。
「ええと……まだ、お目覚めの時刻ではない、と思います」
「それが寝室にいらっしゃらないのだ」
「……また、ですか」
呆れたような声が出てしまい、堅物の隊長にじろりと睨まれる。
「いえ、見当は付きます。わたしが起こしてきますから、隊長さんはどうぞ、ご心配なく」
首肯してのっしのっしと歩いていくエルダに聞きとがめられないよう、小さくため息をつく。ニコラはまだ静かな早朝の離宮を、礼を失しない程度に急いで走った。
王女が寝食を忘れて没頭するようなものなど、書物しかない。
書庫は本という本を全てひっくり返したのではないかという有り様で、足の踏み場もない。空になった棚に囲まれて一際うずたかく本が詰まれているかと思えば、その中から安らかな寝息が聞こえてきた。
「殿下……お目覚めを。殿下」
「ぅあぇ」
王族にあるまじき声が朝の日差しの中に響き、エンディム王国第一王女であらせられるアイリスネシア殿下の金髪が、本の山の中から突き出した。
「殿下、おはようございます」
臣下の当然として頭を下げるが、視界にとらえていなくともアイリスネシア殿下が眠そうに目をこすって伸びをしているのがありありとわかる。
「ん、んん~~……。おはよう、ニコ。その殿下っていうの、やめてちょうだい」
「あ、あの……毎朝寝室にいらっしゃれば……わたしがこうして起こして差し上げる必要がなくなるのですが」
「わかった、悪かったわよ。王都から送ってもらった最新の研究が面白かったから、ちょっと過去のものと比較したくなっただけだったの」
「王都から……?」
ニコラが聞き返すと、アイリスの寝起きの目が一気に全開になる。
しまった、と思ったときには遅かった。
「聞きたい? 聞きたいわよね! それがね、魔道制御についてのこれまでの歴史的理解ではエンディム建国にまで遡って理論研究がなされてるのは知ってると思うけど、そこでは魔道の発動過程と作用過程は別の機序を持ってるというのが定説だったの。実際に術理分析でもそういう結果が出てるし。でもこの最新の歴史研究によれば、そもそも古代帝国時代の魔道は発動過程を不可知化することに重きが置かれていたから、作用過程に内部化させる方向で理論化されていたはずだということが示されていて。もし仮にこれが正しいとすると――もちろん古代帝国時代は魔道自体が特権階級のものだったことがわかってるから発動過程を見せないために不可知化しようとする努力がされていたはずだという前提に立てば正しいはずなんだけどね――あたしたちが当たり前だと思ってる発動過程の独立が歴史のどこかで開発されたものだっていうことになるわけ。そこで関連がありそうな本がたしか三つか四つあったはずだと思って探してたんだけど、これが全然見つからなくて。あたしが思うに西部同盟の中でも歴史が古いウィングラム家にならもう少し史料が残ってるはずなの。でもほら、あそこは北と繋がりが強いしエンディムから研究のためだけに史料の閲覧なんて頼んでも理由を付けて断られちゃうと思うんだよね。だからどうにかお父様を説得して同盟領に行って実地で調べたいんだけどいい口実が――」
「殿下」
ニコラが遮ると、アイリスの口が半開きのまま止まる。
「殿下が寝室にいらっしゃらないので、エルダ隊長がお困りでした」
ふい、とそっぽを向くアイリスに、ニコラは語気を強めて繰り返す。
「とても、お困りでした」
ちら、と目線がニコラを向いた。
「殿下はやめて。友達なんだから」
「……アイリス」
幼馴染として呼ぶと、アイリスが頭をがしがし掻きながらため息をつく。
「ま、怒るの苦手なニコが精一杯がんばって叱ってくれたんだし、明日からは気を付けるけど」
ほっと息をつくニコラだが、元気いっぱいのアイリスネシア王女殿下が大人しく言うことを聞くわけがない。
「それじゃニコ、隊長への言い訳考えておいてね」
「えっ?」
「目当ての本あったから。あたし今日は公務とかする暇ない」
「え」
ふわ、と長い髪が浮き上がるほどの速さで駆け出したアイリスを呆然と見送る。子供のころから彼女とのかけっこで一度も勝てたことがないニコラにはどうすることもできない速度だった。このままでは次に王女を見つけるまで、どんなに早くても二日はかかる。この王族の責務が嫌いで魔道研究にしか情熱を燃やせない女の子が、たった一日で満足するわけがないからだ。
とそのとき、全速力のアイリスがなにかにぶつかって止まる。
そこにあったのは、壁。
「あ、あーっと、エルダ。おはよう」
ではなく、エルダ隊長の筋肉質な胸板だ。
「おはようございます、殿下。お急ぎでどちらへ?」
「い、いやぁ、ちょっとそこまで、ね? 朝だし陽の光を浴びようと思っただけなの。全然、ホントに。ちゃんと朝食までに戻るつもりなの」
十人が聞いたら十人とも呆れるような言い草だが、いつものことと言えばそう。アイリスも小言をいくつか頂戴するだけだとわかった上での弁明だった。
だが、今日はいつもの一日ではなかった。
「殿下の身に危険が迫っております」
険しい顔つきのエルダは、主を前にして入口から一歩も動かない。
ニコラはようやく、朝の日差しの中にチリチリと肌を刺すような緊張が漂っていることを察した。
「暗殺者が放たれました」
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