シーン3 女王ツクヨミ

 ユエの足音が聞こえなくなっても、ツクヨミは謁見の間の扉をじっと見つめていた。


 夜明け前の肌寒さのなか、侍女じじょたちが甲斐甲斐しく香を焚き、文箱ふばこを持ち、すだれを上げる。その音に紛れて、壮年の男が静かにツクヨミの傍らに控えた。


「よろしかったのですか」


 気遣わしげな問いかけは、長年仕えてきた彼の優しさだ。


「差し出がましいようですが、あの者は陛下の……」


「よい。言うな」


 遮って、息を一つ吐く。


「ここも寂しくなってしまうな」


 王宮には二万からの人間が仕えている。


 女王ツクヨミの近衛隊長であるカガリだけではない。側仕そばづかえの侍女たちに、女王指揮下にある国軍は言うに及ばず、それを支える兵站へいたん要員、会計要員、王宮付きの職人たち、国政のための大臣たちと秘書官、その下に就く大勢の文官、下男下女……。


 ユエは、その中のたった一人、数十名いる近衛部隊の一員に過ぎない。


 それでも、その存在はツクヨミにとって、他の全ての部下とはかりにかけても釣り合うほどのものだった。


 ユエを前にして簾を上げなかったのは、彼の顔を見たらとても追放などできなかったから。


「カガリ、いや、父上と呼ぶべきか」


「陛下、お許しを」


 カガリは父と呼ばれるのを好まない。それでもわざとそうしたのは、女王である以前にただの少女として、寂しかったのかもしれない。


「なに、母とそなたのことは周知だ。伝統にものっとっておる。誰も気にはせぬ」


 だが、甘えてなどいられない。女王は、女王なのだ。


「二年だ」


「は……」


「母が崩御ほうぎょし、妾が国を継いだ。「女王ツクヨミ」の名を」


 それがしきたりであり、血筋であり、義務だった。まだ十代半ばの少女、まだ名前を持たない王女だった自分が、ツクヨミの名前を引き継がねばならなかった。


 民の期待、臣下たちの忠誠、国土を守る重圧、なにより、自分の采配によって他人の生き死にが決まってしまう恐怖。


 耐えられたのは、ユエがいたからだ。


「今でもふとした瞬間に、母がまだこの座に腰かけているような気がする。簾を上げれば、そこに母がいるような……」


「……はい」


「しかし、だ。母はいない。もう死んだ。二度と会うことはない。母上の声、手の温かさ、匂い、なにもかも喪われた。そなたにとっても辛い時期であっただろう」


 今度は、カガリはなにも口にしなかった。先代女王への愛情の深さでいえば、彼は娘のツクヨミ以上かもしれない。


「それを思えば、妾はなんと恵まれているのかと思う。妾の想い人はまだ生きていて、どこかにいるのだからな。愛しい人が生きているというだけで、満足だ。ま、今夜からは一人寝の寂しさに枕を濡らすことになるであろうがな」


 娘の情事についての露骨すぎる愚痴に、カガリは複雑な顔で咳払いをした。


 だが、それは言いにくいことを諫言かんげんするためでもあったらしい。


「先代ならば、情に流されたりはいたしませんでした」


 それが暗に、ユエを国外追放処分で済ませたことをとがめているのだということはすぐわかった。本来なら、女王直属の近衛が命令不服従など一族郎党まとめて首をねられる。


 だがツクヨミは、臣下でもある父の小言こごとへの切り返しをとっくに用意していた。


「それはそなたがそういう男だったからだ。母が情に流されて判断を誤りそうなとき、そなたが補佐してくれたからだ」


 そしてそれは、カガリが今も女王近衛の隊長にして補佐役に任じられている、最大の理由でもある。


「陛下は、その二十四代ツクヨミ様の血を引いていらっしゃいます」


「ああ、わかっているよ。私は――妾はツクヨミ、この国を治めねば、な」


 侍女が持ってきた紙に、女王からの勅命をしたためる。


「さ、皆に報せてくれ。女王近衛のユエは任を解かれた、以後、国内への立ち入りは認められぬ、とな」


 カガリに勅書を渡す直前、そこに記された追放者の名前が目に入る。


 ユエ。


 この名前を、ツクヨミはずっと忘れない。


 きっと、自分は彼がいなくてもやっていける。やっていけてしまう。


 そうでなければ、いけないのだ。


 喉元までせり上がった苦いものを飲み下すのには、もう、慣れなければいけなかった。

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