第2話 微睡みの影

そんな私に気づかない素振そぶりで、彼はカップを手に取り、ホットワインを一口飲んだ。


その様子をうかがいながら、私はカウンターの下で、通信装置のスイッチを軽く押した。


接触進展せっしょくしんてん。対象が暗号通信使用。確認待ち〉無音むおんで送信が動き出す。指先がかすかにふるえていた。


「ミラ」


「はい?」


「君は、この街を出たいと思ったことは?」


不意に問われて、言葉を失った。


任務とは関係のない、ただの会話のように聞こえた。

けれど、胸の奥にみょう期待きたいが広がった。


「……考えたことはあります。でも、理由がないと出られません」


「じゃあ、もし理由ができたら?」


彼の目が、真っすぐに私を射抜いぬいた。


そこに敵意てきいはなかった。なのに、逃げられなかった。


――まるで、見透みすかされている。

――そして、どこかで望んでしまっている。


通信装置つうしんそうちのランプが静かに点滅てんめつし始めた。


会話に夢中にさせている間に、気づかれずに送信する──今日も成功。


だけど、私の心はもう、命令よりも別の何かに反応していた。


外のかねが午後を告げていた。


その音が、冷たい空気の中に長くひびいた。



冷めた赤いホットワインがカップにしずんでいた。


店じまいの時間。カフェの照明を落とし、私は静かに戸締とじまりを始めた。


見慣れた石畳いしだたみの通り。観光客はすっかり引き、静寂せいじゃくが戻っていた。

だけど、胸の中だけがみょうにざわついていた。


——あの人は、今日いつもと違った。


ノートPCに視線を落としながら、何度か店の窓越まどごしに視線を投げた。


そして帰る間際まぎわの言葉。


「ミラ。もし、誰かが君を見ていたとしたら、どうする?」


冗談じょうだんのような声色こわいろだった。けど、目だけは笑っていなかった。



その数分後、私はカフェの裏口から出て、いつもの帰路きろ辿たどっていた。

寒さは夜風よかぜのせいじゃなかった。足音が後ろからかさなってきた。


角を曲がった瞬間、反射はんしゃ的に身を引いた。

建物の影から通りの奥をのぞき込んだ。


黒いセダン。ナンバープレートはなかった。

男が二人、車から降りて、通りのはしに立つ人影ひとかげに向かって歩いていくところだった。


相手は、エイドリアンだった。


ポケットに手を入れたまま、じっと立つ彼に、男たちは何かを言い寄っていた。


やがて彼らは、無言むごんの彼をはさみ込むように立つと、動きだけで「れ」と命じていた。


——これは尋問じんもんじゃない。

拉致らちだ。


気づいたら、私は走り出していた。

彼の腕を、強く引いた。


「こっち!」


「……君?」


返事を待たず、私は裏路地うらろじへ飛び込んだ。

追ってくる足音。銃声はまだないけれど、それは時間の問題だった。


「君、まさか——」


「話は後! 走って!」


プラハの路地裏ろじうらは迷路のように入り組んでいた。

幼い頃から覚えている地形感覚ちけいかんかくが、足元できた。


追手をいたのは、3ブロック先の廃倉庫跡はいそうこあとだった。

息を殺し、壁際まどぎわに背中をつけると、エ彼も隣に腰を下ろした。


「……君、カフェの子じゃないの?」


「言ったでしょ。普通の子じゃないって」


彼は口角を上げた。だが、その目には緊張きんちょうの色が残っている。


「誰が君を動かしてるんだ?」


「それを聞く資格、あなたにあるの?」


途切れる息のまま答えると、しばらくの沈黙ちんもくが訪れた。その沈黙が、やけに心地ここちよく、やけに危うかった。


ようやく収まった息のあと、彼がたずねて来た。


「……どこか、隠れられる場所は?」


「あるわ。万が一のために、ちゃんと用意してるの」


私が立ち上がると、彼も黙ってついてきた。


彼の信頼は、まだ私の正体を知らないからこそ、成立している。


遠くでトラムの線路せんろたたく音がかすかにひびいた。それは、心臓の鼓動こどうかさなって消えた。





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