ヴルタヴァの鐘

ぱぴぷぺこ

第1話 揺らぐ視線

プラハ旧市街の朝は、秋の冷気をまとって静まり返り、つか静寂せいじゃくに包まれていた。


ミラはいつものようにカフェの開店準備をしていた。彼女は幼い頃から育ったこの街で、今は諜報ちょうほうの活動をしていた。


それは、任務開始から、ちょうど6日目のことだった──。



エイドリアン・ヴァルナー。

その名は、私の任務ファイルに記載きさいされていた。


ファイルには、彼の経歴けいれき簡潔かんけつに添えられた。

妹を事故で亡くした研究員——それが彼の経歴だった。


その彼から情報を奪取だっしゅするよう指令がりた。


「信用するな。感情をはさむな。情報こそがすべてだ」


そう告げた上司の声が、まだ耳の奥に残っていた。


……けれど、実際に彼と向き合うたび、その言葉は少しずつかすんでいった。



午前9時ちょうど。

カラン、とドアベルが鳴った。


「おはよう、ミラ。冷えるね。もう冬がすぐそこだ」


その笑顔で店内が少しあたたかくなったように感じた。


「おはようございます。ホットワインを……?」


私は少し首をかしげ、自然に無理なく笑った。けれど、胸の奥で何かがゆっくりと波打っていた。


「うん。君がれると、香りが違う」


エイドリアンはそう言ってカウンターのいつもの席についた。


グラスから立ちのぼるシナモンの香りが、彼と私の間の空気をわずかにふるわせた。


「ミラ、君って……この街にずっと昔からいるの?」


「どうしてそう思うんです?」


「わからない。ただ、誰かを待ってる人の目をしてる」


その言葉に、心臓が一瞬止まった気がした。


彼の視線が、私の仮面の裏側をのぞこうとしていると感じた。

探っている――そうわかっているのに、目をらせなかった。


かすかに息をのみ、任務を思い出せ、と自分に言い聞かせた。

でも、彼の声の温度が、それを曖昧あいまいにしていった。


銃よりも笑顔が武器。

そう教えられてきたのに、今はその笑顔が、自分をもろくしている気がした。


「そうね……普通じゃないから……」


私は思わず曖昧に答えた。


彼の沈黙ちんもくにも、微笑ほほえみにも、私はもう警戒けいかいよりも別の感情を抱いていることに戸惑った。


秋の空気のように冷たくんだはずの心が、いつの間にか、熱を帯び始めていた。


彼はいつものように一杯目のホットワインを飲み干すと、ノートPCを開いて仕事を始めた。


店内で微睡まどろむコーヒーの香り。時折ときおり入る秋風の冷たさ。その中で、仕事と、私自身を分ける線が、少しずつにじんでいくのを感じていた。



昼を過ぎ、街は少しだけざわめきを取り戻していた。


店の外では観光客がい、落ち葉がブーツの音に混じって転がっていく。


カウンター越しに、私は彼の手元を、目で追っていた。


彼のノートPCの画面には、暗号化されたデータ転送のログ。見慣れた通信フォーマット。私たちの機関が使うものと、ほとんど同じだった。


けれど、ひとつだけ違っていた。その違いに心臓がねた。


宛先のコードが、存在しない部署のものだった。


──敵組織「オルテン」の名が脳裏のうりに浮かんだ。彼らは東欧とうおうの地下組織で、目的も同じ、PC内の機密情報搾取さくしゅだった。


そう感じると、胸の奥がわずかに冷たくなった。


「……あなた、それ、仕事関係ですか?」


思わず声が出た。

彼は視線を上げ、少しだけ微笑ほほえむ。


「好奇心は、時に危険だよ。特に、君のように観察がするどい人にはね」


その瞬間、息が止まった。


まるで彼の方が、すべてを把握はあくしているかのような口調だった。

軽い冗談に聞こえるのに、笑えなかった。


「……私はただ、心配しただけです。いつも、そのPCを大事そうにしているから」


「そうか。君が“心配する”なんて、少し意外だな」


言葉の端々はしばしが心を突いた。全てに憶測おくそくが入ってきた。いたたまれなくなり思わず目をせた。

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