第3話 予兆の灯光

二人が辿たどり着いたのは、はいアパートの一室だった。


がれた壁紙ときしゆかこわれかけた家具とあとは、外のさわがしさだけだった。


私は部屋のはしすわり、エイドリアンは反対側のかべにもたれていた。


二人の間には、物理的にも、心理的にも、色々な意味で、微妙びみょうな距離が存在していた。


「こんな場所、よく知ってたな」


ジャケットを脱ぎ、ゆるめたネクタイのまま、こちらを見た。


私は答えなかった。

沈黙ちんもくは、最も安い武器ぶきだと教わったから。


「君、明らかに素人しろうとじゃない。だけど、殺し屋でもない」


「……そう思う根拠こんきょは?」


「殺し屋なら、俺をってる」


彼は肩をすくめた。


「助けてくれたのは事実だ。いのちりは簡単に返せない」


「じゃあ、返さなくていい。借りたままでいて」


彼に私は速攻そっこうで返事を返すと、彼が息をのんだのがわかった。


私の声に、自分でも少し驚いた。


彼の視線しせんが、わずかに変わった。

探るような、そしてほんの少し、優しくなった。


「……変わってるな、君」


「よく言われる」


「感情を見せないようにしてるのか? それなら、裏には“本当”があるってことなのかな?」


分析ぶんせき好きなの?」


「職業病だよ。観察してたほうが、だいたい安全だから」


そう言って、彼はポケットから小さなロケットを取り出した。


古びた銀のふたを開くと、中には少女の写真が収められていた。


「妹か、恋人?」


私の問いに、彼は答えなかった。


けれど、私にはその少女に見覚えがあった。

資料の中に、彼の妹として記載きさいされていた顔だ。

そして、彼の持つ“機密情報きみつじょうほう”は、その妹ののこした研究けんきゅうデータだった。


「軍に悪用されるくらいなら、俺がすべてを背負せおう」


ぽつりとつぶやく声に、私の胸がめつけられた。

その沈黙が、私自身の孤独と痛みをうつしたかのようだった。


彼の手の中で、少女の微笑ほほえみがかすかに光って見えた。


やがて彼はその眼差まなざしを私に向け、問い返してきた。


「君は、どこまでが“本当”なんだ?」


「全部が“任務”ってわけじゃない」


「じゃあ、“うそじゃない”部分を教えてくれ」


私は少しだけ笑った。


それは緊張きんちょうをごまかすための笑みであり、同時に挑発ちょうはつの笑みでもあった。


「……この街を出たいと思ったのは、本当よ」


彼も笑った。だが、その笑顔の裏には、警戒けいかいりついたままだった。


「君の本名は?」


「……“ミラ・カレル”でいいじゃない」


教えると彼までねらわれると、心の奥で警報けいほうが鳴った。


「いいかどうかを決めるのは、俺じゃない」


「じゃあ、あなたは? “エイドリアン・ヴァルナー”が本当?」


その瞬間しゅんかん、彼の目が一瞬だけ、光を失った。


ほんの一瞬の反応——だが、それで十分だった。


「君、どこまで知ってる?」


「どこまで答える?」


二人の間に、空気がめた。

それは銃をきつけ合う代わりに、言葉でさぐり合う戦場せんじょうだった。


それでも、少し感じた同調どうちょう


——この人、私と同じくらい、孤独かもしれない。


沈黙の中、彼がふとつぶやいた。


「こんな風に夜を過ごすのは、何年ぶりだろう」


「緊張の中で眠れる?」


「人を信じてないわけじゃない。ただ、自分のうそかずを思い出すと、眠れなくなるだけさ」


「……私も、よく似てる」


そう言って、私は少しだけ彼のとなりに近づいた。

信頼しんらいではない。観察かんさつ距離きょり


けれど、彼は何も言わず、それをこばまなかった。


明かりのない部屋の中で、私たちはかすかな体温だけを頼りにしていた。


心の中では、互いにまだ銃口を向け合ったままなのに——

なぜかそれが、妙に安心できた。


暗闇くらやみの奥で眠れないままのけようとしていた。



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