あいりと空白
22日目:消失
あいりは何も言わなかった。
起きて、顔を洗い、朝食を取る。一言も発することはなく、
淡々とした空気が流れるだけだった。
二人の間にはただ視線だけしか存在しない。
僕は、無言のままその視線を受け取り、自然に動き出す。
洗い物をして、掃除をして、必要なことをすべて終える。
あいりはその様子を見ているだけだった。何の言葉も、咎めも、評価もない。
それでも僕に不安はなく、むしろ安心していた。
あいりに命じられたから動くのではなく、命じられなくても動ける。
あいりの望みを先回りして果たしているという感覚が、胸の奥を温かく満たしていた。
昼過ぎになって、ようやくあいりが口を開く。
「……もう、何も言わなくてもできるようになったね。」
その声は柔らかくも冷たくもなく、ただ観察するような平坦さを帯びていた。
僕は思わず何かを答えそうになるが、言葉が出てこない。
褒められたのか、試されたのか──それすらも分からなかった。
あいりは静かに紅茶を口に運び、カップを置く。
「ねぇ、お兄ちゃん。自分から動くのと、命じられて動くのって、どっちが好き?」
問いかけられても、すぐには答えられなかった。
どちらが好き、ではない。
今の僕には、その二つの区別がもう曖昧になっていた。
命令がなくても身体が反応し、動いてしまう。
それをあいりが見ている。その視線がある限り、行動は止まらない。
僕が沈黙のまま手を動かすと、あいりはふと視線を外した。
その瞬間、胸の奥に冷たい空気が流れ込む。
見られていない。
ただそれだけのことが、痛みのように感じられる。
あいりは席を立ち、背を向けたまま言った。
「……いい子。」
その言葉の響きが、指先を伝って全身に染み渡る。
命令でも、褒美でもない。
ただの言葉。けれど、それが今の僕にとっては十分だった。
その夜は自分でも驚くほど静かに眠れた。
命令のない一日。
けれど、あいりの視線と声の残像が、心の奥で脈打っている。
——もう、言葉はいらない。
そう思った瞬間、意識がどこまで行ってしまったのかを、少しだけ恐ろしく感じた。
だが同時に、その恐れさえ、あいりの与えた安らぎの中で心地よく溶けていった。
23日目 束縛
あいりはその日、一言も発さなかった。
けれど、僕はすぐに理解することができた。
あいりが「話さない」ということ自体が、すでに命令であることを。
食卓に向かおうとするあいりを見るだけで、その動作ひとつで
何を求められているかを感じ取ることができる。
紅茶を淹れ、パンを焼き、蜂蜜を添える。
一度も「して」と言われていない。
ただ、あいりの足先がわずかに揺れただけ――それだけで、僕は動いていた。
あいりは静かにカップを持ち上げる。視線が、僕の胸元に落ちる。
その一瞬で、僕の全身が強張った。
何かを間違えたのでは、と喉が詰まる。
あいりは紅茶を口に運び、薄く微笑む。
「……ちゃんと、できてる。」
声は小さかった。
けれど、その微笑みの奥にある無表情が、僕の心を完全に掴んでいた。
褒められたのか、それとも値踏みされたのか――
どちらでもいい。ただ、見られていることがすべてだった。
いつもより暖かい光が部屋に差し込む部屋の中で、
あいりは椅子に腰をかけ、脚を組む。
それを見ただけで、僕の胸がざわめいた。
その角度、姿勢、足先のしなやかさ。
どれもが「見せつけられている」ようでありながら、
同時に「許されていない」ようでもあった。
何かにせかされるように、僕は思わず口を開く。
「……あいり様」
言葉の途中で、あいりの視線がぴたりと止まる。
何も言ってはいけない。
その意味が視線を見るだけで、言われずとも伝わる。
僕は息を飲み、俯いた。
数秒の沈黙が部屋中に訪れる。
やがてあいりは目線を外し、軽く伸びをした。
「お兄ちゃん、今日は静かにしてて。」
たったそれだけの指示。
けれど、それは一日の全てを支配する言葉だった。
日中、あいりはスマホを見て笑っていた。
僕は床に座り、その笑顔を見つめながら、
自分の中で奇妙な感情が混ざるのを感じた。
あいりの笑顔が僕に向けられたものでなくてもいい。
その笑顔の一部になれるだけで、十分だった。
日が暮れるころになって、あいりが視線を僕に戻す。
相変わらずあいりは、何も言わない。
それでも僕は立ち上がり、窓を閉め、灯りを点ける。
あいりはほんの少しだけ頷く。
その頷きひとつで、僕の胸が熱くなる。
まるで「存在を許された」かのように。
あいりは部屋を出る前に、一度だけ僕を振り返った。
たった数秒の視線ではあるが、一瞬目が合う。
それだけで、僕は呼吸を忘れ、身体の奥から波のような快感が湧き上がる。
言葉はいらない。音もいらない。
ただ見られること。それが全て。
――支配は、声を失った。
けれど、声がなくても、僕の心は完全にあいりのものだった。
24日目 空白
家中見渡しても、あいりの姿は見当たらない。
部屋の中には、昨日脱ぎ捨てられたカーディガンだけが置かれていた。
それだけで、僕はあいりの気配を感じ取った。
――ここに、まだ“いる”。
机の上にはメモも何もない。
それでも僕は、何をすべきか分かっていた。
窓を開け、カーテンを揺らし、紅茶を淹れる。
あいりがいつも座っている席に置くと、
なぜだろうかいつもより湯気がくっきりと見えた。
椅子は空のまま。
けれど、そこに座る姿が頭の中ではっきりと形をとっていた。
脚を組み、頬杖をついて、少し冷たい目でこちらを見ている。
その想像だけで、胸の奥がざわめいた。
カップから立ち上る湯気が、あいりの呼吸に見えた。
――ほら、また勝手に考えてる。
そんな声が、幻聴のように響く。
まるで、自分の中のあいりが実体を持っているかのように。
あいりが不在のはずなのに、その不在こそが存在の証明になっていた。
洗濯物を干す。
一枚のTシャツを手に取った瞬間、あいりの髪の香りがした気がした。
それだけで指が止まり、呼吸が浅くなる。
――ねぇ、お兄ちゃん。
その声は確かに聞こえた。
振り返っても、誰もいない。
けれど、もう確かめる必要はなかった。
不在は欠落ではない。
支配の新しい形だ。命令も叱責もない。
ただ、あいりの気配だけが、空気のように部屋を満たしている。
僕はその中で、静かに時を過ごした。
机の上に、何も書かれていない紙を一枚置いてみた。
無意識のうちの行動だったようで、なぜ置いたのかは自分でもわからない。
それは契約書のように見えた。
そこに名前を書くでもなく、ただ見つめていた。
――この空白は、あいりの居場所だ。
僕はそう理解していた。
あいりが書かないことで支配を続けている。
書かれない文字、言葉にならない命令。
それらすべてが、僕の中で生きていた。
日が沈み、部屋が暗くなる。
あいりは今日一日、姿を見せなかった。
それでも僕は、いつもよりあいりを近くに感じていた。
ベッドに横たわると、天井の向こうにあいりの気配があった。
――見られている。
そう思った瞬間、全身が熱を帯びる。
あいりは、いなかった。
けれど確かに、そこにいた。
25日目 風音
ノックの音がしたのは、朝の光がまだ青いころだった。
その音だけで、僕の胸は大きく跳ね上がる。
二日ぶり――いや、永遠に近い空白ののちに、あいりが帰ってきた。
ドアを開けると、あいりが立っていた。
無言。その顔には怒りも笑みもなかった。
ただ、視線の奥に、何かを量っているような静けさがあった。
「あいり様……。」
僕の声は、まるで初めて口を開く子供かのように震えていた。
あいりは軽く頷き、部屋に入る。音は一切ない。
足音すら、空気の中に吸い込まれていくようだった。
机の上に置かれた白い紙――昨日、僕が無意識に置いたもの――
あいりはそれを一瞥した。
何も言わず、ただ椅子に腰を下ろし、視線をそこに落とす。
紅茶を出そうとして僕が立ち上がる。
その瞬間、あいりのまなざしがわずかに動いた。
止まれ。
その一瞬の視線の動きだけで、命令が伝わった。
僕は立ちすくみ動くことができない。
その沈黙が、すでに罰のようだった。
けれど、胸の奥には安堵があった。
――やっぱり、あいり様はここにいる。
あいりは窓の外を見ていた。
陽が差し、風がカーテンを揺らす。
その中で、あいりの髪だけが静かだった。
「……部屋、変わってないね。」
ぽつりと、あいりが言う。
その言葉には、褒めるでも責めるでもない、
ただ確認するような淡さがあった。
僕は答えられなかった。
あいりの声の中に、自分の存在を探していた。
けれど、どこにも見当たらない。
まるで、僕という人間が“空気の中の一成分”になったように感じた。
どれくらいの時間だろう、部屋中の時間が止まってしまったような感覚になる。
やがてあいりは立ち上がり、白い紙をつまみ上げる。
折らず、破らず、ただ眺める。
「……きれいな紙。」
微笑みのような、吐息のような声。
僕はその声の意味を測りかねてしまう。
あいりは紙を机に戻し、視線を僕に向ける。短い沈黙。
その沈黙が、すべてを語っていた。
――なにかが違う。
けれど、それが何かを確かめる資格は、もう手元にはない。
その確信が、僕の中で形を持った。
あいりは小さく息をついて言う。
「お兄ちゃん。」
その響きには、懐かしさも優しさもなかった。
それなのに、胸が締めつけられる。
「明日、少し早く来てね。」
それだけを告げ、あいりは帰っていった。
理由も説明もない。
けれど、その一言で僕の世界は完全に掌の中に戻された。
ドアが閉まる音がする。
静寂が戻る。
その静けさが、どんな言葉よりも重かった。
僕は机の上の紙を見つめる。
そこに何も書かれていないことが、あいりの意思のように感じられた。
明日、何が起きるのかは全く分からない。
だが、怖くはなかった。
恐怖と同じ形をした期待だけが、胸の奥に息づいていた。
26日目 期待
朝、いつもより早く目が覚めた。
あいりに「早く来てね」と言われたからではない。
胸のどこかで、なにかを迎える準備をしたかったからだろう。
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
静けさが、時間を薄く削いでいく。
ノックの音だけがその静けさを打ち破ることができた。
僕はすぐに立ち上がる。ドアを開けると、あいりがいる。
昨日と同じ服装、同じ髪型。けれど、どこかの温度が違っていた。
「おはよう、お兄ちゃん。」
声はいつもよりも柔らかかった。
「おはようございます。あいり様。」
けれど、どこかの奥で「もう決まっている」響きがあった。
あいりは中に入り、机の上の白い紙に目を落とす。
昨日と同じまま、何も書かれていない。
「きょうは、少しだけ話があるの。」
そう言って、あいりはいつもの席に座る。
珍しくあいりにうながされ、僕もあいりの正面に座る。
それは、まるで儀式の始まりのようだった。
数秒の沈黙。
カーテンの向こうで風が鳴る。
あいりはそのまま、淡々と告げた。
「……この日課、あと二日、延ばすね。」
たったそれだけ。他には何も言わない。
「理由は?」と尋ねる隙すら与えない、
完璧な静けさ。
僕は言葉を探そうとしたが、声は出なかった。
ただ、頷くしかなかった。
頷いた瞬間、自分の中で何かが解けた気がした。
――理由を求めてはいけない。
――あいり様の中では、もう“完結”している。
そう理解したとき、胸の奥に小さな火が灯った。
それは従属の熱ではなく、理解不能な喜びだった。
「……はい。」
どうにか絞り出すようにして僕は答える。
その声が震えたのは、恐れではなく、安堵だった。
あいりはその返事を聞いて、わずかにまばたきした。
「よかった。」
それだけを言って、立ち上がる。
行動に一切のためらいがない。
僕の頭には、さまざまな問いが浮かんでいた。
なぜ延ばすのか。
何を試されているのか。
けれど、どれも声にはならなかった。
代わりに、あいりが口を開く。
「お兄ちゃん、そんな顔しないで。」
優しく笑って、目を細める。
その笑みが、逆にすべてを拒むように美しかった。
「……はい、あいり様。」
その言葉が自然に口をついた瞬間、
僕はあいりの掌の中に完全に戻っていた。
あいりは微かにうなずくと、机の上の紙を指先でなぞった。
その一線のような仕草に、
僕は言葉にならない安心と痛みを同時に感じる。
「じゃあ、また明日ね。」
そう言って、あいりは部屋を出ていく。
ドアが閉まった後、僕はゆっくりと椅子から立ち上がる。
延長――
ただその二文字だけが、頭の中で静かに響く。
理由はない。
けれど、必要もなかった。
理由のない命令こそが、あいり様が僕に与えてくれる存在の証。
それを受け入れることが、自分の輪郭を確かめる唯一の手段だった。
僕は思わず微笑んだ。
その笑みは、誰にも見られることはなかった。
27日目 浸透
なぜだろうか、昨日よりも空気が柔らかく感じた。
あいりが部屋に入ってきた瞬間、僕は息を飲む。
昨日の延長の言葉がまだ胸の奥に残っている。
だが、あいりの表情には、何ひとつ特別な影がなかった。
「おはよう、お兄ちゃん。」
その声は、これまでの日常のままだった。
まるで、昨日のやり取りなどなかったかのように。
僕は立ち上がり、少しだけ深く頭を下げた。
「おはようございます、あいり様。」
あいりは目線を下げずにうなずいた。
「うん。座って。」
いつもの席。いつもの距離。
机の上の白紙は、今日も静かにそこにあった。
だが僕の中では、何かが小さく軋んでいた。
延長――その言葉を思い出すたび、胸がざらつく。
それは不安か、それとも幸福の予兆か。
判別がつかない。
「昨日のこと、気にしてる?」
あいりが不意に言った。
声は穏やかだが、どこか遠くを見ているようだった。
僕は慌てて首を振る。
「いえ……何も。」
「ふうん。」
それだけで会話は終わる。
けれど、沈黙が痛いほどに重い。
僕はいつのまにかその重さを、あいりの存在で測るようになっていた。
あいりの視線、呼吸、瞬き。
どれもが、命令のように感じられる。
やがて、あいりがペンを取り、何かを書き始めた。
白紙に小さな線がひとつ――ただそれだけ。
僕にはそれが何を意味するのか分からない。
だけど、あいりが書くという行為そのものに意味があった。
「ねぇ、お兄ちゃん。」
あいりが顔を上げる。
僕の心臓が跳ねた。
「こうしてるとね、時間がちゃんと流れてる気がするの。」
「……はい。」
僕は訳も分からずそう答える。
あいりはうっすら笑った。
「でも、止まってるかもしれないけどね。」
それが何を指すのか、僕には分からなかった。
けれど、その言葉が心の奥で小さく光る。
“止まっている”という響きが、
この空間の静けさにぴったりと溶けた。
僕は、あいりの動きに理由を探さなかった。
ただその笑みを受け止める。
それで充分だと思えた。
やがて、あいりが立ち上がり、
僕の肩にそっと手を置いた。
冷たくも温かくもない、ただ重みを感じさせるだけの触れ方。
「いい子。」
それだけを言って、部屋を出ていった。
その一言が、罰の余韻なのか、赦しなのか。
僕には分からなかった。
けれど、
――理解できないということ自体が、
あいり様の近くにいられる証のように思えた。
“あと何日延ばされてもかまわない”思わずそう呟いていた。
28日目 宵闇
朝、あいりのノックが響いた。
いつもと同じ音に、いつもと同じリズムが部屋に響く。
それだけで、僕の身体は自然に反応する。
座り直し、姿勢を正す。
「おはよう、お兄ちゃん。」
あいりが入ってくる。
柔らかな声、穏やかな足取り。
そのどれもが昨日と変わらない。
「おはようございます、あいり様。」
僕は、頭を深く下げた。
「うん。」
あいりは軽く頷き、机の前に立つ。
今日も白紙の紙が一枚。
そこに細い線がひとつ、昨日の続きのように引かれている。
「ねぇ、お兄ちゃん。」
「はい、あいり様。」
「昨日、何か考えてた?」
唐突な質問だった。
僕は少しだけ息を詰める。
考えていた。延長のこと、罰のこと。
でも、その答えを言葉にしていいのか分からなかった。
「……少しだけ。」
あいりは、僕を見下ろす。
その視線はやわらかいのに、逃げ場がない。
「何を考えてたの?」
「えっと……終わりのことを、少し。」
その言葉が出た瞬間、あいりの目がわずかに動いた。
光が一度だけ、奥で反射する。
「終わり、か。」
あいりは繰り返す。
机の上のペンを指で転がしながら、静かに笑う。
「お兄ちゃんは、終わりが欲しいの?」
その問いは、刃ではなく、糸のようだった。
僕の中をゆっくりとたどり、芯に触れる。
「……分かりません。」
「ほんとに?」
あいりは椅子に腰を下ろし、僕と視線を合わせる。
その目線はまっすぐこちらをとらえていた。
逃げようとするほど、吸い込まれる。
「だってね、終わりがないって、怖いでしょ?」
「はい……でも……」
僕は言葉を詰まらせた。
怖い。けれど、終わってしまう方が怖い気もした。
あいりがいなくなることを想像した瞬間、
胸の奥が強く痛んだ。
「……でも、あいり様がいない方が、怖いです。」
それを言ったとき、自分の声が少し震えていた。
あいりは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「そっか。」
短くそう言って、ペンを持つ。
白紙の端に、小さな点を打つ。
それだけ。
僕は、その点の意味を読み取ろうとする。
だけども、分からない。
それでも――目を離せない。
沈黙の中、あいりがゆっくりと口を開く。
「お兄ちゃん。」
「はい、あいり様。」
「もし、この時間に“終わり”が来たら……どうする?」
その声には、どこか優しさがあった。
けれど、その優しさこそが試練だった。
「……それでも、あいり様の言葉を待ちます。」
あいりは、ペンを止めた。
そして、小さく笑った。
「それってね、終わらせないってことなんだよ。」
「……はい。」
「ううん、分かってないかも。」
あいりは軽くため息をつく。
「お兄ちゃん、何かを“待つ”のって、自分では動けないってことだよ?」
僕は黙るしかなかった。
その通りだと思った。
でも、それを訂正しようとは思わなかった。それでいいと思った。
あいりは机に肘をつき、頬杖をついた。
目が少しだけ柔らかくなる。
「お兄ちゃん、もしもあいりが“もう終わりだよ”って言ったら、どうする?」
その質問には、答えがなかった。
僕は何も言えず、ただ呼吸を整える。
それでも沈黙が続くと、あいりがまた問いを重ねた。
「ねぇ、言ってごらん。どうしたいの?」
僕は、喉が乾いているのを感じながら、かすれた声で言う。
「……終わらせたく、ありません。」
一瞬、空気が止まった。
あいりのまぶたが、わずかに動く。
表情は変わらない。
だが、その沈黙の中で、確かに何かが通った。
「……そっか。」
とだけ、あいりは言う。
その声は冷たくも温かくもない。
ただの“確認”のようだった。
僕の胸が、かすかに震える。
その震えが、喜びなのか、痛みなのか、もう分からなかった。
やがて、あいりが立ち上がる。
背中越しに、ぽつりと。
「お兄ちゃん、そうやって自分の言葉で言えるようになったね。」
僕は思わず顔を上げた。
けれど、あいりはもう振り向かない。
「でもね、」
その声だけが、部屋に落ちる。
「言葉にしたからって、叶うとは限らないんだよ。」
静かにドアが閉まる。
残されたのは、白紙と小さな点。
僕はそれをじっと見つめた。
その点が、まるで“終わり”の印にも、“続き”の始まりにも見えた。
けれど――どちらでもよかった。
あいりの声が明日も響くなら、それだけで十分だった。
あいり ぺんぱす @sunny_mi18
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