3章 あいりという名の存在証明
15日目 順応
朝の空気が、やけに穏やかだった。
僕はいつものように目を覚まし、洗面所へ向かう。
何をどうすればいいか考えるまでもなく、
あいりが望む形で一日を始めることが、すでに体に染みついていた。
窓際の光の中、あいりが座っている。
小さな膝に本をのせ、指先でページをゆっくりとめくる。
僕が目線を投げかけても、すぐには顔を上げなかった。
永遠にも思える沈黙のあと、あいりは視線だけを上げた。
その瞳は静かで、何の色も宿していない。
「お兄ちゃん、最近落ち着いてるね。」
その声色は、まるで感心しているようで、多分に試しがはいっている。
僕は胸の奥でざらつく感情を覚えた。
支配が日常になっていくのが、怖くもあり、心地よくもある。
あいりの視線は軽く、命令の響きを帯びていない。
なのに、どんな言葉よりも強く心を縛る。
「……あいり様、最近雰囲気が変わりましたか?」
あいりは本を閉じた。
ぱたりという音が、部屋に響く。
「そう? 私は何も変わってないよ」
その声は柔らかくも、遠かった。
感情の温度がどこにもなく、ただ言葉だけがそこに置かれているようだった。
僕は、わずかに息を詰める。
“変わっていない”――それが、なぜか恐ろしく響いた。
まるで、あいりの方が一歩ずつ遠くに行っているような気がした。
「“あいり様”って呼ぶの、もう当たり前になっちゃったね。」
そう言われて、僕は気づく。
呼称はもう儀式ではなく、呼吸のようなものになっていた。
その音を口にするたび、僕の心は安心に満たされていく。
あいりの微笑みが、その依存を静かに肯定していた。
僕は自分で考えることをほとんどやめていた。
あいりが小さく息をつくだけで、体が勝手に動く。
声をかけられれば、反射的に答える。
そうするたび、心が軽くなっていく。
何も選ばずに済むことが、こんなにも楽だとは思わなかった。
けれど今朝は違った。
あいりの無関心が、いつもよりも深く沈んで見えた。
その沈黙が、僕の胸を締めつける。
あいりのそばには、あの日の契約書がある。
あいりは僕の視線に気づくと、指先でその紙の端をなぞった。
「ねぇ、契約、ちゃんと守ってる?」
「はい。もちろんです」
「ふぅん。なら、いいけど」
それだけ言って、あいりは再び本を開き、そちらに目を戻す。
僕の存在を、もう特別扱いする気配はない。
その無関心が、僕の中でひどく甘く疼いた。
その夜、僕は眠れなかった。
まぶたを閉じるたびに、あいりの声が響く。
「もう当たり前になっちゃったね。」
その言葉が、思考の底を支配して離れない。
気づけば、僕の中にある“あいり”という存在そのものが、
意思を包み込み、支配しているのだと感じた。
16日目 確認
あいりはいつも通り無表情で僕を見る。
「昨日の態度、ちょっと違ってたね。」
その言葉の意味を探すように僕は沈黙する。
責めるでも、褒めるでもない調子。
ただ、あいりがそれを“気づいている”という事実だけが、胸の奥を焼いた。
会話の端々に、見えない線が引かれていく。
その線を越えないようにと、僕は自然と自分を律する。
何を命じられずとも、あいりの無関心が命令のように響いていた。
夕暮れ、あいりが小さく笑って言った。
「ちゃんと我慢できるの、えらいね。」
その優しさが、褒美よりも強い束縛だった。
あいりは机に向かい、淡々とノートを開いている。
指先がページをなぞる音だけが部屋の中に響く。
「最近、静かすぎない? お兄ちゃん、考えすぎてるでしょ。」
言いながら、あいりはペンを置く。
その仕草が合図のように、僕の背筋が伸びた。
「……そんなことないよ。」
「ふうん。じゃあいいけど。」
淡々と返す声。でもほんの少し、意地悪な笑みが混じったようにも見える。
数秒の沈黙。
あいりがふと、僕を見た。
「ねぇ、お兄ちゃん。あいりに嘘、ついてないよね?」
「え……?」
「約束したでしょ。
嘘をつかないこと。
破ったら……どうなるかも、ちゃんと覚えてるはずだよ。」
あいりは言葉を止め、視線だけを僕に向ける。
そのまま何も言わない。言わせない。
追及でも慈しみでもない、ただ静かな視線。
「……覚えてる。」
何とか振り絞った声は少し震えていた。
「ならいいの。……ねぇ、お兄ちゃん。」
あいりはまたノートに視線を戻す。
まるで、もう話すことなどないというように。
その冷たさの中に、なぜか安堵を感じた。
見放されていない。まだ、そこに“あいり”がいる。
僕は小さく息を吸う。
あいりの筆の音が、部屋の静けさを満たす。
それがこの日常のすべてだった。
17日目 流転
午前の光はやわらかく、まるで何も起きない日常の一部のようだった。
けれど、僕の胸の奥では何かが軋んでいた。
言葉にならない予感。この穏やかさが、どこか不自然に感じられて仕方がない。
あいりは机に向かってノートをめくっている。
いつも通り、静かに、規則正しく。
僕はその背中を見つめながら、
自分がどこまであいりの中で「特別」でいられているのか、確かめたくなる衝動を抑えられなかった。
「あの……」
声をかけた瞬間、空気の密度が変わる。
「なに?」
あいりの声は穏やかで、温度がなかった。
「いや、なんでもない。」
あいりは小さく息をついて、
一度だけ僕の方を見た。
「お兄ちゃんって、どうしてそんなに考えてばっかりなの。」
微笑のような、嘲りのような、その境界線の言葉。
「……考えてるわけじゃない。ただ、なんか、気になって。」
「気になる?」
あいりは少しだけ首をかしげた。
その仕草がどこか演じられたもののようで、僕の胸を刺す。
「私が、どうしてお兄ちゃんにこうしてるのか。とか?」
その問いに返す言葉を見失う。
肯定すれば何かが壊れそうで、否定すれば嘘になる。
沈黙。
数秒後、あいりがゆっくりと視線を戻した。
「ねぇ、お兄ちゃん。……あいりがね、もし他の人を同じように支配しようかな、
って言いだしたらどうする?」
「……え?」
「支配っていうか……ううん、違うな。 誰かに“従ってもらう”のって、
たぶんお兄ちゃんじゃなくてもできると思うんだ。」
「だからね、ほかの人ともこうやって契約してみようかなって……
お兄ちゃんはどう思う?」
その言葉は淡々としていて、残酷さよりも現実味があった。
まるで、朝食の献立を話すような気軽さ。
僕の心臓が強く跳ねた。呼吸が少し乱れる。
「……あいり様の好きなようにしていただくのが一番だと思います。」
かろうじてそう答えた声は、掠れていた。
「そう思うの? 本当に?」
あいりは顔を上げずに聞いた。
声に笑みの影はない。ただ、観察している。
僕はその笑みに答えられなかった。
沈黙のあと、喉の奥から小さく絞り出す。
「……うん。そう、思う。」
それが嘘だと、自分でもすぐにわかった。
あいりが別の誰かに同じ視線を向けることを想像するだけで、胸の奥が焼ける。
それでも、口では認めてしまった。
部屋の空気が変わった。
少しだけ、冷たい風が入ったような感覚。
「……そっか。」
あいりは短くそう言って、ノートを閉じた。
それ以上、何も言わない。
僕は、あいりが何かを決めたことだけを悟った。
静寂。机の上に置かれたペンの音がやけに大きく響く。
やがて、あいりはゆっくりと立ち上がる。
そのまま僕の方へ歩み寄ると、何気ない声で言った。
「ねぇ、お兄ちゃん。……二日、延ばすね。」
それだけ。
淡々と、まるで宿題の締切を告げるように。
僕は何も言えなかった。
反論も、謝罪も、懇願も、意味を持たないとわかっていた。
あいりはそのまま部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる音が、胸の奥に長く残る。
残された空間に、僕の呼吸だけが小さく響いた。
二日という数字が、思考の中でずっと回り続ける。
“延ばす”という言葉が、
どこか救いのように感じられたのは、なぜだろう。
18日目 戸惑
朝の光が刺さるように白かった。
あいりに「二日、延ばすね」と言われたときの声が、まだ耳の奥に残っている。
罰の理由は、結局何も告げられなかった。
僕は、それを問いただす勇気を持てなかった。
――というより、もう理由を知ること自体が恐ろしくなっていた。
あいりは変わらず静かだった。
食卓に座り、スプーンを手に取り、何もなかったかのように朝食を口に運ぶ。
僕はその向かいで、ただ見ていた。
「……食べないの?」
あいりがふと顔を上げる。その瞳に責める色はない。
それがかえって痛かった。
「うん、今はいい。」
「そっか。」
それだけで会話は終わった。
それきり、あいりは視線を戻し、再びスプーンを口へ運ぶ。
僕は自分でもおかしいと思う。
――罰を受けたのに、嫌悪も、反発もない。
むしろ、この“普通のあいり”がそばにいることが、罰よりもずっと救いのように思えてしまう。
あいりが無関心でいればいるほど、心がざわつく。
そこに在る“静けさ”が、支配そのもののように思えた。
昼、机に向かうあいりを背にして、僕はぽつりとつぶやいた。
「……あいり様。」
呼んだ瞬間、あいりの手が一度止まる。
けれど、振り向かない。
「なに?」
その一言に、息が詰まる。
声は冷たいわけじゃない。
ただ、何の感情も乗っていない。
「……なんでも、ありません。」
「そう。」
小さな間。
それきりまた、紙の上にペンの音が戻る。
その音が一定のリズムを刻むたび、僕の心臓がわずかに反応した。
それは、もはや命令を待つ鼓動に似ていた。
――二日、延ばすね。
あいりのその言葉が、思考の奥で何度も反響する。
それは決して赦しではない。
けれど、終わりを遠ざけられたことが、なぜか嬉しい。
自分の時間が、あいりの中に縛られていること。
その事実だけが、僕に生を感じさせていた。
19日目 永劫
朝、あいりの姿を見ただけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
昨日と何も変わらない。けれど、それが安心だった。
あいりは静かに紅茶を飲み、いつものように何も言わない。
僕はただ、それを見つめていた。
会話がなくても構わない。
言葉がなくても、あいりの呼吸がそこにあるだけで、世界が形を保つ。
あいりがあたえてくれる罰もまた、僕を作る一部なのだと思い知らされる。
ふと、あいりがカップを置いた。
「……お兄ちゃん。」
たったそれだけの呼びかけに、心臓が鳴る。
「昨日、眠れた?」
「うん、少しだけ。」
「そっか。偉いね。」
穏やかな言葉なのに、なぜか褒められた気がしなかった。
“偉い”の意味がわからない。
けれど、聞き返す勇気もなかった。
あいりは短く息をつき、再び視線を外す。
それだけで、空気の流れが変わる。
何も言われなくても気づかされる。
あいりの沈黙の中にある、目に見えない命令。
――あいりに命令されることを期待するな。
――でも、目は逸らすな。
あいりは言葉では命じない。
その代わり、存在そのものがルールだった。
白むようなの光が差し込む部屋で、僕はひとり、あいりの影を追う。
あいりが椅子を引く音。
紙をめくる音。
それらすべてが、呼吸の代わりになっていた。
どれくらいたっただろうか、ふいにあいりが立ち上がる。
「ねぇ、お兄ちゃん。……いま、幸せ?」
唐突な問いに、胸の奥がざわめく。
「うん。たぶん。」
「たぶん、ね。」
軽く笑うような声。
それが、優しいのか冷たいのか、判別できない。
僕はその瞬間、自分が完全に“あいりの時間の中”にいることを理解した。
あいりが見つめる限り、世界は続く。
あいりが目を逸らせば、すべてが止まる。
沈黙が戻る。
時計の音だけが響く。
その静寂の中、僕はひとつの確信を抱く。
――もう、自分は選べない。
あいりの言葉が、あいりの沈黙が、自分の心の形を決めていく。
そして、そう思った瞬間。
ほんのわずかに、安堵している自分に気づいた。
20日目 価値
その日、あいりはいつもよりも遠くにいた。
距離にして、ほんの数メートル。
けれど、その間に見えない壁があるようだった。
僕は黙って机に向かうあいりの横顔を見ていた。
昨日までと同じ部屋、同じ朝の光。でも、空気の密度が違う。
あいりの存在が、どこか透明になっている。
あいりは何も命じない。
ただ観察するように、ときおり視線を向けるだけだった。
ノートの上に走るペンの音。
ときどき、ページをめくる小さな音。
それだけが世界の音になっていく。
僕は、沈黙をどう扱えばいいのか分からなかった。
ただ、その沈黙が壊れるのを恐れて、息をひそめていた。
「ねぇ、お兄ちゃん。」
不意に、あいりが口を開いた。
視線はノートに落としたまま。
それでも、声ははっきり届く。
「わたしが何も言わなくても、ちゃんと動ける?」
「……どういう意味?」
「さっきからずっと止まってるよ。」
そう言われて、僕は自分の手が空中で止まっていることに気づいた。
指先がわずかに震える。
「ごめん、考えごとしてた。」
「ふうん。」
あいりはページを優しく閉じると、ペンを置いた。
静かに椅子を引き、立ち上がる。
その動作のひとつひとつが、異様にゆっくり見えた。
あいりは窓際に立ち、外を見る。薄曇りの空。
その灰色の光が、あいりの横顔を淡く照らす。
「お兄ちゃん、わたし、少し考えてたの。」
「……なにを?」
「支配ってさ、見張ることは必要じゃないんだよね。」
「あえて見ないでいられること。
でも、見ようと思えばいつでも見えること。」
あいりの声は淡々としていた。
まるで分り切ったことを説明しているだけのように。
「わたしね、いまお兄ちゃんのこと“見てない”の。
でもちゃんと、ここにいるのは分かる。それで十分。」
僕は、答えを返せなかった。
その“見てない”という言葉に、奇妙な安堵を覚えていた。
――存在を確認されることよりも、
――見られていないのに存在を感じ取られていることの方が、
なぜか深く心に沁みた。
その感覚が怖かった。
けれど、それ以上に落ち着いた。
そう言って、あいりは振り向かずに微笑んだ。
その笑みは、見えないのに、確かに伝わった。
僕は、胸の奥に静かに刻まれる感覚を覚えた。
それは支配というよりも――証明だった。
“見られていなくても、ここにいられる”。
そのことが、今の僕にとって何よりの救いだった。
21日目 贖罪
部屋に沈む夕暮れの光は、まるで色を失ったみたいに薄かった。
あいりはいつもの椅子に座り、ページを指先でなぞっている。
僕はその姿を床に座って見上げていた。
その距離は、ほんの数歩。けれど、埋めようのない深さがある。
息を吸う音さえ、あいりの支配下にある。
僕は無意識に、膝の上で手を重ね、背筋を伸ばした。
それが自然と出るようになったのは、いつからだっただろう。
「ねぇ、お兄ちゃん。」
あいりが本から視線を上げた。
柔らかい響きなのに、胸の奥を突く。
呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
「あれ、嘘だよ。」
その一言で、空気が変わった。
僕は瞬きすることすら忘れあいりに見入ってしまう。
あいりは立ち上がり、僕の目の前までゆっくりと歩み寄る。
裸足のまま、床を静かに踏みしめる音がする。
いつしか視線を合わせていられなくなり、床に目を落とす。
「ほかの人に“あいり様”何て呼ばせるわけないじゃん。」
その声には怒りも優しさもなく、ただ事実を述べる冷たさがあった。
僕の喉がかすかに鳴る。
あいりの口が開くたび、身体の奥で何かが疼く。
「あのとき“いいよ”って言ったお兄ちゃんの顔……嘘つくの下手すぎ。」
笑みを浮かべるあいり。
それは、見透かした者だけが浮かべる自信の笑みだった。
僕は唇を噛んだ。言葉は何も出てこない。
ただ胸の奥に、奇妙な安堵があった。
――あいり様が、まだ自分を見ている。
――嘘でも試してくれている。
そのこと自体が、どうしようもなく嬉しい。
「だから、罰だよ。お兄ちゃん。」
静かに、落ちるような声。
僕は反射的に顔を上げる。
「言ったよね。二日延ばすって。」
まるで天気の話をするように、あいりは淡々と告げた。
その瞬間、僕の胸に走ったのは恐怖ではなかった。
何かが終わらずに続くという、その感覚――
それは痛みではなく、奇妙な快楽だった。
「あいり様……ありがとうございます……」
自分でも驚くほど自然に、口がその言葉をこぼした。
頭を下げるような場面ではない。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
あいりはわずかに眉を動かし、僕の顔をのぞきこむ。
その目は、笑ってもいないし、怒ってもいない。
ただ、ほんの少しだけ興味深そうに光った。
「……お礼、言うんだ。変なの。」
小さくそう呟いて、ふっと視線を逸らす。
その仕草が、僕には赦しのように見えた。
支配の中で人はどれだけ壊れているのか、試されているようにも感じた。
僕はそれに気づかないまま、再び深く頭を下げた。
「お兄ちゃん。」
あいりが小さく呼んだ。
その声に反応して、僕の背筋が反射的に伸びる。
「あいりの前では……そのお顔、隠さないでね。」
それだけ言って、あいりは背を向けた。
カーテンの向こうで、夜が落ち始めている。
僕はしばらくその背中を見送っていた。
罰という言葉が、もはや苦ではない。
むしろ、あいり様の世界の中にまだ“居させてもらえる証”に思えた。
――延長という名の罰。
それが、自分にとっての褒美だと気づいたとき、
僕はようやく、完全にあいりの支配の意味を理解し始めていた
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