2章 あいりのための呼吸



8日目:理解


いつもより早く目が覚めた。あいりはまだ部屋にいない。

それだけで、部屋がいつになく広く思えて落ち着かない。


「おはよう、お兄ちゃん。」

その一言だけで、呼吸が整う。

あいりは髪を結び直しながら、こちらをちらりと見る。

「今日はね、何もしなくていいよ。」

何もするな、とそう言ってくれないことに胸がザワザワする。

「……わかりました。」


「うん、いい子。」

短い言葉が、思考を止める。

褒められるのが嬉しい。でも、その嬉しさが怖い。


何を言うでもなく、あいりはソファで雑誌を読んでいる。

僕は隣に座るでもなく、離れるでもなく、ちょうど“指示されそうな距離”を保つ。

「ねぇ、お兄ちゃん。」

「そうやって黙って待ってるの、最近多いね。そういうのが嬉しいんだ。」

言われて、はっとした。そうだ。待っている。

命令を、言葉を、視線を。


「……気づいた?」

あいりが微笑む。

「それでいいんだよ。」


その言葉のあと、部屋の空気が変わった気がした。

沈黙が命令みたいに重たくて、

それに従うことが、妙に心地いい。


寝床に入る前にあいりがぽつりと言った。

「お兄ちゃん、最近考える前に動いてるよね。」

少し笑って続ける。

「それ、悪くないよ。だって、あいりのほうを見てれば、間違えないでしょ?」

その言葉に返事をしようとして、できなかった。

声に出すよりも、ただ頷くほうが自然だったから。


9日目 旋律


あいりがカーテンを開ける音で目が覚めた。

眩しい光の中で、あいりの影だけがはっきり見えた。

「お兄ちゃん、起きてる?」

「おはようございます。あいり様」

「じゃあ今日は、あいりが何か言うまで静かにしてて。」

その声は優しくて、どこか施しのようでもあった。

言われた瞬間、胸の奥のざわめきが消える。

“静かにしてて”という言葉だけで、体が落ち着いた。


あいりは何も言わない。テレビの音だけが流れている。

でも、僕はもう、あいりの一挙手一投足に意識を向けていた。


視線を向けると、あいりは軽く目を合わせて微笑んだ。

「ねぇ、お兄ちゃん。」

「……なに?」

「あいり、何も言ってないのに動くの、好きだよ。」

その一言で、息が止まった。

何も言っていないのに動いた自分を、あいりはちゃんと見ていた。

その“見られていた”という安心感が、

思っていた以上に心地よかった。

「いい? “静かにしてて”っていうのはね、

“あいりのリズムに合わせて生きて”ってことなの。」

冗談めかして言うその声が、どこまでも優しい。

けれど、その優しさの中にどこまで溺れていいのだろうか。

笑っているのに、まるでその笑顔の中に自分が溶けていくようだった。


あいりがソファに沈み込みながら本を読んでいる。

僕は床に座り、ただその時間を共有している。

ページをめくる音。

髪が肩に落ちる音。

それだけで、世界が満たされていく気がした。

「お兄ちゃん。」

「ねぇ、最近さ……自分のこと、あいりに任せてるでしょ?」

「……はい、そうかもしれないです。」

「いいよ、それ。あいりが決めるから。お兄ちゃんは、ちゃんと見てて。」

その瞬間、

“支配”でも“命令”でもなく、

“安心”という名の鎖が静かに絡みついた気がした


「お兄ちゃん……あいりがいないと、少し困るでしょ?」

「……たぶん。」

「うん、いいね。そのままでいいよ。」

あいりは微笑み、灯りを消した。

暗闇の中で、あいりの声がまだ耳に残っていた。


10日目 境界


あいりは机の上に手をついて、少しだけ僕の方に身を寄せた。

笑っているようで、笑っていない。

その距離の近さに、僕の呼吸が浅くなる。

「ねえ、お兄ちゃん。今日もちゃんと頑張った?」

何気ない言葉。けれど、問いの裏には確かな“確認”がある。

僕はそれを理解しているから、素直に頷くしかない。

「そっか。えらいね。」

短い褒め言葉。

けれど、褒められたというより、許されたような感覚。

あいりは椅子に腰かけ、視線だけで僕を縫いとめた。

その瞳には温度がある。でも、それはあいりの意思で与えられるものだ


「最近、素直だよね。お兄ちゃん。」

あいりはそう言って、紅茶を飲む。

「素直っていうのはね、自分で考えないことじゃないんだって知ってる?」

その言葉に、胸の奥がざらつく。

あいりの優しさが、まるで試験のように感じた。

「でも、あいり様の言うことが正しいから……」

口に出した瞬間、あいりが笑う。

「それも違う。正しいかどうかなんて、あいりは考えたことないよ。」

あいりの声には波がない。

穏やかで、まるで眠気を誘うようなトーン。

でも、心の奥ではその均一さが狂気に近かった。

「“素直”ってね、都合がいい言葉だよ。

 でも、お兄ちゃんがそう呼ばれたいなら……別に止めない。」

優しい言葉。でも、どこか遠くに突き放されるような感覚。

僕はその距離感に、安らぎと不安を同時に感じていた。


「ねえ、お兄ちゃん。あいりが言ったこと、ちゃんと守れてるよね?」

その問いかけの優しさの中に、支配がある。

僕は「はい」とも「うん」とも言えず、ただ頷く。

あいりは静かに微笑んで――少しだけ息を吐いた。

「いい子。」

それはまるで、世界の真ん中で肯定されたような響きだった。

けれどその“肯定”が同時に檻の鍵でもあることをに、まだ気づいていない。


11日目 境界


あいりはその日、何も言わなかった。

朝も昼も、ただ家の中に漂っている。

沈黙はいつもより長く、濃かった。

空気がゆっくりと凝固していくような感覚。

僕は声を出すことができなかった。

音を立てた瞬間、何かが壊れる気がしていたからだった。


目をむけても、返事はない。

代わりに、ゆっくりと顔を向けて――ただ見つめてくる。

何も言わず、何も教えてくれない。

僕は混乱する。怒っているのか、試されているのか、それともただ無関心なのか。

けれど、どれも違う気がする。

「……あいり様、なにか……」

言いかけた瞬間、

あいりは椅子から立ち上がり、静かに僕の前を通り過ぎた。

そのすれ違いざま、かすかに香るシャンプーの匂い。それだけで胸の奥がざわめく。

言葉ではない、無音の命令。


僕は理解する。

優しさも冷たさも、どちらも“与えられている”のだと。

そして今日は、そのどちらも“与えられない日”。

沈黙の中で、あいりの背中を見送る。

それなのに、なぜか心臓が速くなる。


(……どうして、何も言ってくれないんだろう。)

(……なのに、離れられない。)


自分でも理由がわからない。

けれど、あいりの沈黙の奥に、確かな存在を感じてしまう。


夜になっても、あいりの顔が浮かぶ。

言葉を交わさなくても、確かにあいりは僕を支配している。

その“無音の支配”が、もはや安らぎに変わりつつあった。

“無関心”が、罰のようで、報酬のようで。

その境界が溶けていく。

あいりの気まぐれが世界を支配し、

僕はただ、その中心に跪くしかなかった。


12日目 静寂


まるで、言葉というものがこの世界から消えたように。

あいりの口から声が紡がれることはなかった。


食卓に並んだ皿の音だけが響く。

ナイフとフォークのわずかな金属音が、妙に鋭く耳に刺さる。

あいりは、顔も向けずに紅茶を口に運ぶ。

その仕草が、美しいというより、完璧すぎて怖かった。

呼吸のリズムすら、あいりの世界に合わせないと崩れてしまいそうだった。

僕は言葉を探した。

けれど、壁のように立ちはだかっている沈黙を前に思考が進むことはなかった。


「あいり様……」

思わず漏らした声に、あいりの指が一瞬止まる。

でも、顔を上げない。漏らした声に続きなんてないことを見抜かれているように。

ただ、胸の奥から漏れ出た情けなさが答えを求めただけ。


けれどあいりは、何も言わない。

ただ静かに、指先で机をとん、とん、と叩くだけ。

その小さな音が、命令のように響く。

意味を探そうとするほど、思考が渦を巻く。


あいりは目を伏せ、軽く息を吐いた。

まるで退屈そうに――それでも、確かに意図的に。

「そんなに難しく考えなくていいのに。」

ようやく出た一言。

優しさも冷たさもなく、ただ“あいりの世界の温度”で告げられる。


僕は理解する。求めているのは、罰でも許しでもない。

あいりの沈黙に触れたい、ただそれだけなのだと。

その静けさの中で、自分の存在がかすかに震える瞬間を感じていたい。


あいりがゆっくりと顔を上げる。

「……明日、ちょっと話があるから。」

それだけ言って、立ち上がる。

理由も、内容も告げずに。

その背中が見えなくなっても、

僕の頭の中では、その声が何度も反響していた。

音のない音。

それが、この関係の新しいかたちだった。


13日目 選択


「ねえ、お兄ちゃん。」

あいりの声は淡々としていて、温度がない。

けれど、その音が胸の奥に直接落ちてくる感覚に

僕は自分でもわからない震えを覚える。


「最近、何か考えてるんでしょ。」

僕は視線を落とした。

「……あいり様に、決めてほしくて。」

「決める?」

淡い声が、少しだけ空気を震わせる。

「うん。何をすればいいのか、わからなくて。」


表情は変わらない。

けれど、目の奥に小さな光が宿っていた。

「そうやって何も選ばないのは、楽でしょ。」

静かな声。

叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を述べるように。


「でもね、あいりは“代わりに選ぶ”つもりはないよ。」

「……どうして?」

「だって、それって“支配”じゃないもん。」

その言葉に、胸の奥がざわめく。

「お兄ちゃんは自分で選ぶ責任から逃げたいだけ、だもんね。」

「でもね、”委ねる”っていうのはね、自分の意思を渡すことじゃない。」

「捨てること、なんだよ。」

その言葉に、胸の奥で何かが溶ける音がした。


あいりは続ける。

「わたしは誰かの代わりに決めたりしない。

わたしは、ただわたしの気分で決めるだけ。」

意味は、わかっていない。

でも、その“拒絶”の中に、不思議な甘さがある。


「……あいり様……」

名前を呼ぶだけで、体の奥に痺れが走る。

拒まれ、突き放されるほどに、その声が僕の全身を満たしていく。

あいりに拒まれること――

それが、なぜか“存在を認められたように”感じた。


支配は、命令ではなく、理解の拒絶へと変わっていく。

あいりの沈黙の奥に、僕は居場所を見出しつつあった。

「……どうでもいいの。お兄ちゃんがどうしたいかなんて。」

「わたしは、わたしの気分で決める。」

冷たい音が降り注ぐたび、僕は自分の中の輪郭が溶けていくのを感じる。

恐怖ではない。消えていくその感覚が、むしろ甘く、熱い。


あいり様の“気まぐれ”の中にだけ、

自分があると知るその瞬間が――たまらなく、幸福だった。


14日目 空白


朝、あいりは何も言わなかった。

挨拶も、命令も、視線すら。

その沈黙が、どんな言葉よりも重かった。


「あいり様……」

小さく呼んでみても、返事はない。

ただ、ページをめくる音だけが部屋に響く。

それでも、その音が合図のように思えて、呼吸の仕方を整えようとする。

勝手に息を乱してはいけない。


何も命じられていないのに、身体が命令待ちの状態に固まっていく。

あいりは何も命じない。何も期待しない。

ただ、そこにいる。

なのに、僕はその静けさの中で、

自分のすべてが“あいりの存在”の一部に吸い込まれていくのを感じた。


音もなく、世界が小さく閉じていく。

そこにあるのは、沈黙と視線だけ。

あいりが黙っていることが、すでに意味を持っている。

その“無音の支配”の中で、僕は自分の意識をゆっくりと手放していく。


時間が止まったような静寂。

でも、その静寂が心地よかった。

声を出す必要も、考える必要もない。

あいりがただ存在するだけで、

世界は正しい形を保っていた。


あいりは本を閉じた。

顔を上げるでもなく、ただ、気配だけがこちらを向く。

「……お兄ちゃん、どうしたの?」

ようやく出た声。でもその響きには、関心の温度がまるでなかった。


「い、いえ……その……」

「何も言ってないでしょ。だから、何もしちゃダメなんだよ。」

その一言に、喉が詰まった。

叱られているわけでもない。ただ、事実を告げられただけ。

それなのに、胸の奥が震えた。

――命じられたい。

――許されたい。


けれど、あいりはもうこちらを見ていない。

その横顔の輪郭が、遠い。

だけど、離れるほどに惹かれていく。

沈黙が長く続く。

時計の音すら、あいりの意思の一部のように感じられる。

僕は、静かに目を閉じた。


この沈黙も、あいり様の中の一つの言葉だと錯覚しながら。

そして、理解する。

――支配は、声ではなく、存在そのものなのだと。


あいりが何も命じない“空白”が、

僕にとっていちばん強い命令だった。

あいりが作り出す空白が、世界のすべてだ。




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