あいり

ぺんぱす

1章 お兄ちゃんは、もうあいりのもの

1日目 契約


「ねえ、お兄ちゃん、ちょっと見てほしいものがあるの」

あいりは勉強机にノートを広げたまま、軽い調子で呼びかけてくる。

いつものように小首をかしげ、無邪気に笑っている。

「最近のお兄ちゃん、なんか変なんだもん。ずっと落ち着かない顔してさ、なに考えてるの?」

兄が曖昧に笑って誤魔化すと、

あいりの笑顔がほんの少しだけ、静かなものに変わった。

「……ねえ。あいりね、なんとなくわかるんだ」


その言葉はとても奇妙なくらいに優しかった。

「お兄ちゃんって、誰かに“決めてもらう”と安心するんでしょ?」


けれど次の瞬間、あいりの瞳の奥に光が灯る。

それは無邪気ではなく、確信を持った眼差し。

あいりは机の引き出しから、一枚の紙を取り出すと、細い指で紙の端を整え、兄の前にそっと差し出す。


《契約書》

第1条 兄(以下、契約者)は、契約期間の30日間、

    あいり(以下、管理者)の言葉に従い、

    自己の行動および意思の管理を委ねるものとする。

第2条 管理者は、契約者の心身を監督し、

    必要に応じて観察・制限・指示を行う。

第3条 契約期間終了後、両者の合意により契約を延長することができる。

第4条 契約者は管理者に対して、一切の嘘、隠し事、

    ごまかしを行ってはならない。

    発覚した場合、契約者の信頼は即時に失効する。

第5条 契約内容または管理者の指示に背いた場合、

    その都度、契約期間に日数の追加を行うものとする。

    追加日数は管理者の判断に一任される。

       (署名)

     契約者 _________

     管理者  あいり


「ふふっ、ちょっと本格的でしょ?」

あいりは紙を軽くたたきながら笑う。

無邪気に見えるその仕草の奥に、どこか得意げな気配がある。

「……これ、冗談?」

思わずそう言うと、目の前のあいりは顔を上げ、首を傾けた。


「冗談に見える?」

その声に、いつもの無邪気さはなかった。

小さな微笑が口元に浮かんでいるのに、目だけが真っ直ぐで……

どうにか視線をそらそうとしたができなかった。


「30日間だけ。あいりが、お兄ちゃんの《決める人》になるの」

あいりの言葉には、いたずらの軽さと、何か計算された響きが同居していた。

あいりは声を落とし、顔を少し近づける。優しいのに、どこか抗えない空気を帯びた声が頭の中身をクラクラと揺らす。


「明日ね。もし本当に覚悟があるなら――」

「ここに、名前を書いてあいりのところまで持ってきて。そうしたら、もうお兄ちゃんの《自由》は、あいりの中にしまっておくね」

その言葉のあと、あいりは一瞬だけ子どものように笑った。

だがその笑顔の奥には、確かに“支配者”の影が潜んでいた。

「――じゃあ、明日。ちゃんと考えておいてね、お兄ちゃん」


2日目 誓約


「……ほんとに書いたんだ、お兄ちゃん」

まるで、子供のすることをほほえましく思うかのような雰囲気で、

あいりが笑っている。

手には俺が机に置いた契約書。

たった一枚の紙――それなのに、見ているだけで胸がざわつく。

「軽い紙だね。でも、これ一枚でお兄ちゃんの《自由》なくなるんだよ?」

「……分かってる。それでもあいりになら……」

「そっか」

あいりは小さく頷いて、指先で紙の端をなぞる。その仕草が妙に大人びて見えた


「ねぇ、お兄ちゃん」

「……ん?」

「“あいり”って呼び方、ちょっとズルくない?」

軽く首をかしげて、いたずらっぽく笑う。

「ズルいって?」

「だって、あいりが優しく見えちゃうもん。

 これから支配するのに、それじゃ雰囲気でないでしょ?」

あいりの声が一段階低くなる。

瞳の奥に、昨日はなかった命令の光が宿っていた。

「ねぇ、呼んでみて?“あいり様”って」

「……あいり様?」

「そう、それ。言ってみて、もう一回。ちゃんと、あいり様って」

言葉が喉に引っかかる。それでも、逃げられない。

「……あいり様」


その瞬間、何かが胸の奥で弾けた。

恥ずかしさでも、屈辱でもなく、説明のつかない熱が体を支配する。

愛梨はその反応を見て、ゆっくりと瞳を細めて笑う。


「うん、いいね。今の声ちょっと可愛いよ。ねぇお兄ちゃん、自分の声聞いた?ちょっと震えてたよね。でもね――それがいいの」

わざと軽く言う声。けれどその余裕が、まるで鎖のように絡みついて離れなかった。

それなのにあいりは何事もなかったように契約書を見せびらしながら、言葉を落とす。


「じゃあ、改めて宣言ね」

あいりは契約書を胸の前で軽く持ち上げる。

「あいりとお兄ちゃんの契約、今日から有効。

 期間は30日。

 嘘ついたら罰。

 約束を破ったら、日数が増える。

 今日から、あいり様の言葉は“命令”ね。 

いいよね、お兄ちゃん?」

「……はい、あいり様」

「ふふ、いい子」

あいりは契約書を軽く折りたたみ、机の中にしまった。

たったそれだけの行為であるのに、妙に静かに響く。

 

「ねぇ、お兄ちゃん。あいりの《言葉》、ちゃんと守ってね?」

無邪気に笑うその顔は、

もう僕が知る“あいり”のものじゃなかった。


3日目 従属


あいりの部屋の戸をノックすると、少し遅れて言葉が返ってくる。

「……入っていいよ。」

中に入ると、あいりは机に向かっていた。ペン先の音だけが、規則的に響く。

「あいり、ちょっと……話が──」

言いかけた瞬間、あいりのペン先からはなたれるリズムが一瞬停止する。

こちらを振り返ることもなく示されたそれは静かに、けれど確かに「黙って」と命じる仕草だった。

「ねぇ、お兄ちゃん。昨日、約束したよね?」

その声は穏やかで、けれど底が見えない。

笑っているように聞こえるのに、笑っていないそんな声。

「おはようございます、あいり様。」

その声に、あいりの手が止まる。そしてゆっくり振り返り、淡く微笑んだ。


「ちゃんと呼べたね。……よし。」

その“よし”の一言に、思考が吸い取られていく。

ただ褒められただけなのに、胸の奥が熱くなる。


あいりは立ち上がって、軽く背伸びをした。

視線の高さは、ほとんど変わらない。

それでも、どこか見下ろされているように感じた。


「ねえお兄ちゃん、我慢できてる?」

その一言で、息が詰まる。

我慢が何の事なのか分からない、それでもできているはずがないことだけはわかる。

あいりと視線を合わせるだけで、胸の奥がざわつく。

「何も言わなくてもね、顔に出てるよ。」

「ねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは自分の中の“意思”を、

 あいりに預けたんだよね?」

小さな声なのに、逃げ場がない。

その声を聞くたびに、胸の奥が勝手に反応してしまう。

「もし我慢できないって言うなら、ちゃんと理由を言って?」

喉が動くのに、言葉が出ない。

あいりの瞳が、まっすぐに射抜く。冷たくて、でもどこか優しいそんな

眼差しだった。


「ねぇ、お兄ちゃん。“支配”って、怖い?」

「……わからない。」

「うん。たぶん、最初はそうだと思う。でもね、怖さが、だんだん“安心”に変わるんだよ。お兄ちゃんも絶対にそうなっちゃうからね」

その言葉に対して、僕は何も答えられない。


「命令があると、人は迷わない。あいりが“決めて”あげる。」

「お兄ちゃんは、それに従うだけ。」


あいりの声が、頭の中で何度も反響する。

「ほら、また顔に出てる。本当に、正直だね……お兄ちゃん。」

そう囁いて、あいりは微笑む。

その笑みは温かく見えるのに、どこまでも冷たかった。


4日目:静令


朝一番で部屋を訪れると、あいりは窓際に座って、カーテンを少しだけ開けていた。

陽の光が髪を透かして、茶色っぽい髪が淡く光っている。

「お兄ちゃん、昨日はルール、ちゃんと守れた?」

あいりはいつも通りの声でそう言った。

責めるでも、褒めるでもない。

ただ、確認するように。

「……うん。守ったよ。」

返事をすると、あいりは少しだけ目を細めた。

「そ。えらいね。」

それだけ。

でも、その言葉だけで、心の奥がじんと熱くなる。


「お兄ちゃん、今日はね、命令しない。」

思わず顔を上げる。

けれど、あいりはすぐに続けた。

「でも、“あいりの視界から外れないでね”っていう命令は出す。」

それだけ言って、また外を見た。

その横顔に言葉をかけられなかった。


昼になっても、何も命じられない。

ただ、沈黙の中で、自分が“待っている”ことだけを感じていた。

命令がないことが、息苦しかった。


夜、ようやくあいりがこちらを向いた。

「お兄ちゃん、今日はよく我慢できたね。……ねぇ、我慢するのって、苦しい?」


「うん。」

「命令されないのが苦しいんだ、変になっちゃったんだね?」

その問いに、ただ頷くしかなかった僕を見て、あいりは微かに笑う。

「よかった。あいりの“思った通り”だね。」


「お兄ちゃん、なんか言いたいこと、ありそうだね?」


「新しいルール、作らないの?」

気づけば、自分からそんなことを言っていた。


「どうして?」

どうして、なんて。自分でもわからない。

ただ、何かに縛られていたいという感覚が、もう離れなかった。

その様子に、あいりは小さく笑った。

「そんなこと言うの、変だよ。ルールって、あいりが決めるものでしょ?」

「……うん、そうだね。」

「それにね、増やす必要なんてないよ。

 もう、十分効いてるみたいだし。」

その言葉の意味がすぐにわかって、息をのんだ。

視線を落とす僕を、あいりは静かに見つめていた。

「お兄ちゃん、自分で考えて、自分で縛られてる。それって、あいりが命令するより怖いことだと思うよ?」

そう言って、あいりは笑った。


優しく、けれどどこか遠くの方で。

「ねぇ、ちゃんと続けられるよね?」

その声を聞いた瞬間、胸の奥が震えた。

安心なのか、恐怖なのか、もう区別がつかない。

ただ一つわかるのは──

あいりが何も命じなくても、

すでに“支配される感覚”が息をしているということだった。


5日目 融解


「お兄ちゃん最近、顔が変わったね。なんか……“あいりのもの”って感じ。」

そう言いながら、あいりが指をゆっくりと持ち上げる。

うつむきがちだった顔が、自然と持ち上げられていき、目が合った瞬間、胸の奥が

熱くなる。

「ねぇ、お兄ちゃん。あいり、何も言ってないのに我慢してるんでしょ?」

図星だった。ただ、見られているだけで全身が反応してしまう。

命令がなくても、勝手にあいりの支配を感じている。


「いいよ、今日はあいりの足元に座ること、許してあげる。」

ソファに座り本を読んでいるあいりが、ついと足先で場所を示す。


「ここ、落ち着くでしょ?」

あいり様の足先が、軽く髪を撫でる。

ただそれだけで心拍が速くなる。


「気づいてる?お兄ちゃん、もう“自由”のほうが怖くなってるよ。」

あいりの声が、静かに沈む。

それは諭すようで、祈るようでもあった。


「もし、あいりがいなくなったら……どうするの?」


息が止まる。

想像しただけで、胸の奥が焼けるように痛む。


「ね、考えなくていいよ。」

あいりが小さく笑いながら、諭すように語りかける。


「もう、あいりが全部してあげるから。

お兄ちゃんは、あいりの中で生きてればいいの。」

その瞬間、何かがに崩れた。

恐怖も羞恥も消えて、ただひとつ──安堵だけが残った。


「……あいり。」

思わずそんな風に名を呼んだ瞬間、あいりが微かに笑う。

「違うでしょ?」

息を呑む。喉が震える。

「……あいり様。」

その音を口にした瞬間、世界の輪郭がほどけていった。


あいりの足先が頬をなぞる。

「うん。そう、いい子。……もう、それでいいの。」

薄暗い光の中、あいりの笑みだけが鮮やかに残る。

それは慈悲ではなく、完全な支配の証だった。


6日目 呼吸 


あいりの部屋のドアは、少しだけ開いており光が漏れ出している。

ごく自然にノックをして、返事を待つ。

けれど、あいりの「どうぞ」が聞こえる前から、もう身体は勝手に動いていた。


「おはようございます、あいり様。」

あいりはベッドの上で本を読んでいた。顔を上げて、少しだけ目を細める。

「おはようお兄ちゃん。……ねぇ、もう自然に言えるんだね。」

「……うん。」


あいりは立ち上がって、ゆっくり近づいてくる。

その足音ひとつひとつが、喉を締めつけるように響く。

「不思議だね。あいり、もう何も言ってないのに、

 お兄ちゃんの方から自然に“あいり様”って言うようになってる。」


少し笑って、あいりは俺の胸に指を当てた。

「ねぇ、これが“慣れ”なの? それとも“洗脳”?」

「……どっちでもいい。」

そう答えると、あいりは目を見開いて、すぐに微笑んだ。

「そっか。そういうの、嫌いじゃないよ。」


「ねぇ、お兄ちゃん。“従う”ってさ、どういうことかわかる?」

あいりの言葉は問いかけではなく、返事を求めていない。

「“任せる”ってこと。お兄ちゃんはなにも決めなくていい。」

「あいりが決める。だから、安心してていいの。」


「ねぇ、お兄ちゃん。」

「なに?」

「もし、あいりが何も言わなくなったら、どうする?」

言葉が出ない。けれど、頭の中では答えは出ていた。

命令がなくても、あいりのために動くんだろう。

「……きっと、同じように過ごすと思う。」


あいりはゆっくり頷いた。

「うん、たぶんそうだろうね。もう、言葉なんていらないもん。」

部屋の中に、静かな呼吸だけが残る。

その呼吸のリズムさえも、あいりのものだった。


「ねぇ、お兄ちゃん、今、あいりのこと考えてるでしょ?」

ドキリとした。否定できなかった。

「……顔、赤いよ。言葉にしなくても、もう全部わかるんだね。」

あいりは一歩、距離を詰めて、耳もとで囁いた。

「そういうとこ、可愛いよ。“あいりのお兄ちゃん”になってきた感じ。」


その言葉に、胸の奥がとろけるように熱くなる。なのに、背筋は冷たくて震えていた。

──息をするだけで、支配されている。

その感覚に気づいた瞬間、あいりの声がもう一度、柔らかく落ちてきた。


「ねぇ、今日もいい子でいてね。」

それだけで、震えはぴたりととまる。

支配なのに、救われるような感覚。それがあいり様のやり方だった。


7日目 沈降


どれだけ時間が流れようとも、あいりは何も言わなかった。

視線すら、こちらに向けてこない。

その沈黙が、部屋の空気をゆっくりと締めつけていく。

昨日まであれほど鮮明だった声が、今日はどこにもない。たったそれだけで、世界の輪郭がぼやけていく。


あいりはソファに座り本を読み続ける、ページをめくる音だけが響く。

それを聞くたびに、喉がひりついた。


「おはようございます、あいり様。」

二人の間で交わされた言葉はそれしか存在していない。

胸の奥に、ざらざらしたものが広がる。

“命令されない”ことが、こんなに不安だとは思わなかった。

昨日まで“支配”だと感じていたあの関係は、もしかすると……

“存在を確かめるための儀式”だったのかもしれない。


――支配がないと、空気が止まる。

その事実に気づいた瞬間、僕は初めて「沈黙」という形の支配を理解する。

あいりは何も命じていない。けれど、その沈黙こそが、最も強い命令になっていた。


日が沈むその時間になって、ようやくあいりが口を開いた。

「ねぇ、お兄ちゃん。……今日、静かだったね。」

その言葉ひとつで、全身の緊張がほどけていく。呼吸が戻り、鼓動が整う。

そしてようやく気づく。

――あいりが“支配者”であることに、もう疑いようがないことに


部屋の電気を落としたあと、あいり様の声だけが暗闇に浮かんだ。

「お兄ちゃん、最初の日のこと、覚えてる?」

「うん。」

「契約って、紙のことだけじゃないよ。

お兄ちゃんの“中”にも、ちゃんと書かれてる。」


静かな声。でも、その言葉が体の奥に沈み込むように響いた。

「この一週間で、あいりがどこにいるか、わかったでしょ?」

思わず闇に染まった天井を見上げる、気配だけがあいりに伝わったようだった


「そう。でもね、それでいいの。あいりが上で、お兄ちゃんは下。

それが、ふたりの形だから。」

少しの沈黙。あいりが今日初めて小さく笑ったような気がした。

影の奥行きが少し喉を潤してくれた。


「ねぇ、お兄ちゃん。これから、もっと深くなるよ。」


その声が、夢と現の境をなぞるように響いていた。

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