閑話休題
今、屋上の柵に足をかけた。
昨日の深夜に降っていた雨は止んでいた。朝方の澄んだ空気が、刺すように襲いかかる。外気が冬を痛いほど感じさせた。 風が顔、耳、髪を撫でる。
買ったばかりの毛玉のないダッフルコート。切ったばかりのショートカット。 今日このために僕は生まれてきたのではないかと思う。生まれて、やがて生を全うする。それが早いか遅いかの違いなど、所詮は誤差だ。
両足を掛けて、柵の外側に立つ。 ビル風が下からやってくる。短い髪がふわりと浮かぶ。 大通りからはトラックが通り抜ける音が響く。誰かの日常が動いているのを感じた。
片手でポケットから指輪を出した。朝日に向かって、小さなダイヤモンドが煌めく。 その煌めきに、彼女の笑顔が浮かぶ。キラキラとした笑顔で、少し大きな笑い声を響かせる。そんな笑い方が愛おしかった。
ダイヤを輝かせる朝日が、僕の顔も照らす。 眩しさに目を細めれば、世界が霞んで荒く見える。 この先に何があるのか。彼女がいない人生のキャンバスは、無色のままではないか。 ただ、柵の向こうに立っている。
じっと指輪を光に照らして見続けた。 冷えた指にも気にせず、見つめる。
その時、下から大きな風が吹き上げた。 驚いて柵にしがみつくと、誤って指輪を離してしまった。 あっと思うも、スローモーションのように目の前からゆっくり落ちていく。 そして、一度きらりと輝き、奈落へ落ちた。
ダイヤモンドを磨くのは、ダイヤモンドだけ。 落ちた指輪は、己を磨いてくれる相手を探しに行ったのだろう。
二度目の婚約破棄を受けた気分だった。人間は、人間同士でなければ磨き合うことが難しい。それが真実。
目線の先は、遠く離れた下の道路。 流れる車は、僕を置き去りにする。 柵を強く掴む。そのまま、柵を超え、屋上の地面に足をつけた。
サイドポケットから、今度は結婚届を出す。 四つ折りのそれを開くと、半分記入がされていない。 指先で破り、そのまま撒き散らした。
照らす光が、僕の心に影を落とし続ける。 影に落ちた、破り捨てた真っ白な欠片を拾い上げた。 そのまま、室内への扉へと向かう。
婚姻届の余白に、飛び込んだ。
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