第38話
兵士たちは前へ出られなかった。
剣を構えたまま、足が震えている。
領主の兵とは名ばかりで、ほとんどが農民、無頼、囚人上がり。
「殺していい相手」にしか強く出られない連中だ。
自分たちの仲間が突然、幻に追い詰められ自害した。
それを見せつけられた彼らに、次へ踏み込む理由などなかった。
ヒエンは理解した。
──イケる。
自分ひとりで、里を守れる。
胸の奥で小さな勝利の光が灯った、その時だった。
「ヒ〜〜ッヒッヒッヒッ。怯えることぁないぞ、皆の衆」
耳を汚すような甲高い笑い声が、炎と煙の中をくぐり抜けて響いた。
ボロ布のようなローブをまとった老人が、ゆっくりと前へ歩み出る。
乾いた死体のような指が、杖を引きずっていた。
──魔法使いだ。
「幻影魔法など、気を張っていればかからん。
わしに言わせれば能のない低俗な“子供だまし”よ」
その声を聞いた瞬間、兵士たちの怯えが霧散した。
老人の言葉を“真実”だと思い込むように、表情が変わる。
それほどまでに魔法使いの言葉は重かった。
「なんだ、そういうことか! つまりビビる必要なかったのか!」
「脅かしやがって!」
さっきまで後ずさっていた兵士たちが、一斉に武器を構え直す。
ヒエンの背筋に冷たいものが走った。
──自治を許されたのは何故か?
それは、蝙蝠族が飛行をし、幻影魔法を操るからだ。
ならば、それに対応できるものがいれば?
そう、容易に対処し、好きな時に処分できるのだ。
其の為の魔法使いだった。
雑兵だらけの彼らが、蝙蝠族を殺せたのは、この老魔法使いのおかげだった。
ヒエンは膝が笑いそうになるのを、歯を噛み締めて押し殺す。
「……っふざけ……るなよ」
翼を広げる。
逃げも隠れもできないなら、立つしかない。
「師匠! 前に出すぎです、危険です!」
老人の前に、同じローブをまとう弟子が二人、慌てて立ち塞がった。
「ぬかすな小童ども! わしがこの程度の
老人は杖で従者の頭を軽くはたいた。
まるで孫を叱るような仕草だった。
──その瞬間。
ヒエンは全身の血が沸き立つのを感じた。
(今しかない──!)
蝙蝠の指先が滑らかに空を切り、いくつもの
一族の奥義。幻影系統の中でも、指折りの呪詛。
「
魔力の奔流が、黒い波となって老人へ叩きつけられた。
今までこれを破った敵はいない。
これを受けたものは、抗うことなく幻影の檻に落ちていく──はずだった。
「
杖が地面を軽くコツ、と叩いた。
空気が破裂したような音。
次の瞬間、ヒエンの魔法は煙のように消えた。
何も起こらなかった。
「……な」
膝が抜けそうになる。
自分の最強の一撃。その手応えすらなかった。
老人は鼻で笑った。
「小童。一つ教えてやろう。幻影魔法はのぅ、不意打ちでしか成功しないのじゃ。
不意を突き、心を捉えねば効果はない。
幻影魔法を専門にする魔法使いがいないのはそういう理由じゃ。
戦闘では使い物にならん」
まるで料理のコツでも語るような平坦な声。
兵士たちの顔から恐怖が消える。
代わりに、安堵と嘲りが浮かぶ。
「あいつ、ハッタリだけだったのかよ!」
「なんだよ〜、ビビらせんなよなァ蝙蝠野郎!」
「魔法がなけりゃ、てめえなんて、怖くねぇんだよ!」
老人がゆっくり杖を掲げる。
「さあ皆の衆──安心して殺れ。
幻影使いなど、なんの脅威でもないわい」
ヒエンは理解した。
守れると思ったのは、ただの錯覚だった。
喉が震え、声にならない息が漏れる。
(……勝てない。)
その一言が、胸の奥に重石のように落ちた。
震える足に噛みつくように力を込め、ヒエンは走った。
迷いも誇りも投げ捨てて、ただ生き延びるために。
──逃げることは恥じゃない。
蝙蝠は死んだ時にだけ負ける。
木肌を駆け上がる指先は正確で、翼は夜気を孕むように大きく広げられた。
風さえ掴めれば、あとは空だ。
空にさえ出られれば、誰も追いつけない。
生きられる。仲間を救える。まだ終わっていない──
「また、それかのう」
老人の声が、ささやきながら、呆れて背中を掻いた。
杖がひと振り、空気が揺れた。
風が、変わった。
「──っ!?」
掴んだはずの風が、指の間からこぼれ落ちる。
翼の下を支えていた浮力が、砂のように崩れる。
飛べない。
理解した瞬間には、地面が肩に叩きつけられていた。
肺の中の空気が全部抜ける音がする。
「どうした? 飛ぶのは得意なのじゃろう?」
老人は笑った。優しく子をあやすように。
「ほれ、翼を広げればええ。
飛びたいのであろう? まぁ、無理じゃろうな。
お前らは風を少し変えるだけで、飛べんじゃろう?」
その言葉が、刃より深く刺さる。
飛べない蝙蝠は、ただの無力な獣だ。
逃げることすら許されない。
空は、彼らの最後の逃げ道だった。
ヒエンの指先は泥を掻いた。
翼は震えるだけで風を掴めなかった。
──空が届かない。
それが、屈辱よりも先に胸を抉った。
「さあ、そろそろ終わりにしようかのう。いつまでも生かしておくほど、
わしらは、暇では無いでの」
老人は、気安い口調のまま、殺意だけを乗せて笑った。
翼を折られたヒエンは、泥を掻きながら後退る。
逃げることに誇りがあった蝙蝠に、逃げ道すら残されていない。
「おっと──どこへ行くつもりだ?」
兵士が踏み出して、行く手を塞ぐ。
剣の切っ先が、どこまでも冷え切っていた。
「……なんで、だよ……」
ヒエンの声は震えている。
怒りでも恐怖でもなく、それは理解できないものを前にした子供の声だった。
「オレたちは……税も払ってた。人間の言う通りに働いた。
必死で気を遣って……!
それなのに、一度別の土地と取引しただけで、こんな仕打ちかよ!!」
森に声が響く。
だが返ってくるのは──
兵士たちの、笑い。
「はっ……何言ってんだ、
「気に入らなきゃ殺されるのは当たり前だろ!」
「奴隷が口答えするなよ!」
ヒエンの顔色が変わる。
怒りも恐怖も通り越した、理解の崩壊。
老人がそれを楽しむように杖を鳴らした。
「ほんに、おめでたい連中よ。
お前ら
声は静かだった。
しかし、残酷な真理だけが突き刺さった。
「税を納めた? 言う事を聞いた?
当たり前じゃ。奴隷は主人に従うものじゃろう。
神がそう作ったのじゃからの。」
兵士たちが一斉に頷きあう。
その姿は信仰のようでもあり、思考停止のようでもあった。
ヒエンは喉を震わせた。声にならない声で。
──全部、無駄だったのか。
「もうよい。主人との関係を履き違えた下僕に、
これ以上の価値などない」
老人が手をかざす。
兵士たちが剣を振り上げる。
夜風に鉄の光が走った。
「まったく、手こずらせおって……
夜更かしは肌に悪いと言うのにのう」
荒れた頬を優雅に撫でながら、
老人はうっとりと笑った。
そのとき──
「本当にその通りね──夜更かしはお肌の大敵よ?」
ヒエンの絶望の中に、異質な声が滑り込んだ。
冷たく、愉快で、狂気を隠しもしない調子。
兵士たちが一斉に振り向く。
その先に立っていたのは、黒衣の女。
炎に照らされてなお、影のように暗く──
背後には三体の獣人を従えていた。
──ヴェロニカだった。
老魔法使いが杖を鳴らす。
「何者じゃ? ここは戦場じゃぞ。通りすがりなら立ち去るが吉じゃ」
女は肩をすくめて笑った。
「馬鹿なの? こんな修羅場に好き好んで近づく女が
“通りすがり”のわけ、ないじゃない」
ゆっくりと横に歩き、後ろの獣人を前に押し出す。
その仕草は、獲物に犬をけしかける女王そのもの。
押し出されたのは──杖を構えた猫の少年。
「カーターくん。やってちょうだい」
ただのイタズラを指示するかのような軽い声音。
だが、少年の杖先にはすでに魔力が凝り、渦巻いていた。
カーターが囁く。
「──《燃えろ》」
光が弾ける。
次の瞬間、炎の渦が兵士たちの列を包んだ。
悲鳴が上がるより早く、熱風が夜を裂く。
女は微笑みながら、呟いた。
「さ、夜更かしはここまでよ。寝なさい──永眠って意味だけど」
倒れていく兵の瞳には、
炎よりも容赦のない黒衣の女が映っていた。
──続く。
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