一週間がち、一ヶ月が経ち、半年が経ち……あられが、洋人ようとからの残酷な仕打ちによって負った傷は、少しずつ快復かいふくしていった。しかし、心身のどこかに大きなあなが空いているかのような不在感は、いつまでも消えてくれなかった。

 わたしは洋人を愛しているの?――と、霰は自分に問うてみる。すると「そんなことはない」という答えが即座に返ってくる。


 だけど、問い方を変えてみると、この不在感が根治こんちしない理由が分かってくる。

 洋人が別のオンナと付き合っていていいの?――その問いに対しては、こんな答えが生まれてくる。


(そんなの、悔しくてたまらないに決まってる)


 いつまでもまってくれない、心身にできた空白を、なにかで埋めようとして、他のオトコと付き合ってみたけれど、長くは続かなかった。

 新しい趣味を見つけようともしてみたけれど、しばらくすると、洋人と一緒にこれをしていたら……などと思ってしまう。


 あんな最低なオトコのなにがいいんだ。クソみたいなことをしてきやがって。

 そういう怒りが込み上げてきても、「いいところもなくはないし、クソみたいなところも、自分と付き合い続ければ直ってしまうんじゃないか」などと、霰は考えてしまう。


 いまだに消すことができない、洋人の連絡先。ここに電話をかけたならば、どれだけ見すぼらしいことだろう。プライドはへし折られて、粉々になってしまうことだろう。

 それでも、洋人の不在により生じる苦しみは、洋人で埋めるしかない。そう覚悟を決めて、電話番号をタップした。


 何度も繰り返されるコール音よりも速い、心臓のリズム。呼吸が乱れていくのも、はっきりと分かる。

 早く出てほしい。そうしないと過呼吸で倒れてしまう。霰は、洋人の声がするのを、苦しい思いで待ち続けた。


 しかし洋人が電話に出ることはなかった。

 あんなダメなオトコなんかにこだわらなくてもいい、もうあきらめるべきだ。霰には、そんな声が聞こえてくるようだった。家族の声でも、友人の声でもあるような、とがめるような、あきれたような声が、霰の頭に響き渡る。


(黙ってて! わたしのすることに口出ししないで!)


 何度も電話をかける。絵に描いたような、未練たらたらの情けない元カノみたいだ。そんな風に思われるのは、しゃくで仕方がないはずなのに、どうしても洋人の電話番号をタップしてしまう。

 四回、五回、六回……八回目に、洋人の声が聞こえてきた。


「霰の『あめかんむり』って、八画だったよね。だから、八回目で出てみたんだけど」


(なんだそれ。じゃあ電話がかかってきていたのは、最初から知ってたの?)

 霰はその事実に、いまにも大声をあげて泣きそうになった。そして、酷い言葉をいくつもぶつけたかった。


「ぼくがいないとダメなの?」と、洋人は言う。

 普段なら、そんな痛々しい言葉には失笑をしてしまうことだろう。でもいまの霰は、おぼれているところに、浮き輪を投げてもらえたような気分だった。


「うん。ダメっぽい」

「じゃあ付き合ってやるよ。ちょうど彼女のストックがないところなんだ」

 クズ、最低、消えてしまえばいいのに――という罵詈雑言ばりぞうごんは、声にならず胃の中でけてしまう。


「うちに来いよ。住所を送るから」

「うん」

「かわいがってやるよ」

「うん」


 電話を切った後、洋人から連絡がくるのに、しばらくの時間があった。霰は思わず、もう一度電話をかけそうになった。

 すると、それを見越したかのように、決して近いとは言えない場所の住所が送られてきた。


 今日、明日、明後日……これから先、たくさん予定があるし、したいことも、しようと誘われていることもあるけれど、それらをかなぐり捨ててでも、洋人のために生きてみよう。

 そう決めた霰は、身支度みじたくを整えて、最寄もより駅へと早足で向かっていった。


     *     *     *


 竹藪たけやぶを後ろに背負った一軒家いっけんやに、洋人は住んでいた。辺り一帯の家々の明かりは、どこか弱々しかった。それでも霰には、洋人の家だけが、一等星のように輝いているように見えていた。

 大量の本を納めた本棚に囲まれた、二階の部屋に招かれた霰は、どことなく落ち着かない気持ちでいた。


「ひとりで住んでるの?」

「うん、ひとり。二年前に、家族はみんな死んだんだ。なにも言わずに、ぼくだけを残してね。一階の居間でだよ。帰ってきたらみんな倒れてた」

 玄関の横にあるのが居間なのだと洋人は言った。それは、ふたりのいる部屋の真下でもあった。


「みんないなくなったけど、小さいときからこの家に住んでるから、取り壊すのが嫌なんだよ。だから、ひとりでもここにいる」

 そういう事情があったから、洋人はこんな性格になったのだろうかと、霰は邪推してしまった。すると途端に、すべてのことをゆるしてもいい気がしてきた。死というものは、怒りを浄化する作用を、一面には持っている。


「シャワーをびてきな。めちゃくちゃにかわいがってやるから」

 風呂場に行くには、居間を通るか、仏間から台所に抜けていくか、どちらかしか選択肢せんたくしがないという。霰は、一緒に行こうよと言った。しかし洋人は、もう身体を清めてしまっていた。


「じゃあ、付いてきてよ。ご家族には悪いけど、ひとりで行くのは怖いから」

「イヤだよ。ここに寝転がって、怖がってる霰を感じていたいんだ」

 洋人は半裸のまま、たたみの上に寝転がった。


「行けよ。一時間くらいは待っててやるから」

 霰は逡巡しゅんじゅんした後、部屋のふすまを開けたまま、死のふちに追い込まれた小動物のように、おびえながら階段を下りていった。

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