居間に足を踏み入れるくらいなら、遠回りをした方がいい。あられは仏間の方へと恐る恐る歩みを進めた。

 静寂を破るのは、風になぶられる竹のそよぎだけだった。いや、霰が踏むたたみきしみも、彼女の耳を脅かしていた。電灯のひもは、暗がりの中では、すぐには見つけることができなかった。


 蚊を追い払うように手を振り、紐を探した。すると、ひぐらしの音が聞こえてきた。もう少しすれば冬になる季節だというのに。幻聴に違いない。しかし霰のそんな決めつけの中に、懐かしい記憶がまぎれ込んできた。

 まだ小学生の頃に、かまびすしい蝉の音に囲まれながら、縁側えんがわでラムネを飲んでいた時のことが、なぜか思い出されたのだ。


 台所に入ろうというところで、霰はもう足が動かなくなってしまった。引き返そう。そう思ったはいいものの、汗をかいたままの自分を、洋人ようとは愛してくれないのではないかというおそれとらわれてしまう。

 だけどここから先、台所に入ることだけは、どうしてもできなかった。なぜかここだけが洋風になっているドアを開いた時、そこに誰かが待ち構えているような気がしたのだ。


 そんな霰の耳に、竹藪の戦ぎの中から、「入れ……入れ……」と言う女性の声が忍び入ってきた。その声を聞いてすぐ、霰はもうなりふりかまわず、洋人のいる部屋に急いで引き返していった。


     *     *     *


 部屋に戻った霰が目にしたのは、中央のたたみ式のベッドのふちに腰をかけている洋人だった。幽霊を背負っているかのように、身体を前のめりにさせている。


「どうしたの……?」

 先ほど、ドアの前で聞いた声のことといい、目の前の洋人の姿といい、不気味なものを見聞きするのが続き、霰は身構えてしまった。

 月光を受けてあやしく光る竹藪が、夜風にすられる音だけでなく、遠くで犬がけたたましく鳴くのも、霰の耳に届いてきた。


 洋人は、なにかを考えている様子などなく、しばらく、ただうつむいているだけだったが、辺りがいだのをきっかけに、ようやく口を開いた。

「いや……どうしようもなく、寂しくなってきてね」

 霰は洋人の横に腰をかけると、ひざの上で彼の手をぎゅっとにぎった。


「この家にひとがいると、そういう気持ちになることがあるんだ」

 洋人は、なにも言わずに霰を押し倒して、その上にまたがった。しかし寂しさを隠さない洋人の顔を見ていると、霰もなにかいじらしい気持ちになってきた。


「いいよ、めちゃくちゃにしてくれて」

 小鳥は、小鳥に生まれたことにより、自然とさえずってしまう。がけに咲いた花は、ほかの場所に移り住むことのできない宿命を持つ。

 それと同じように、霰はその言葉を、自然に、宿命のように口にしていた。


 霰は洋人の背中に手を回し、彼の胸の中から離れないように、手放されてしまわないように、強く強く抱きしめた。

 もしくは、死の気配が消え失せない一階へと、落ちてしまわないようにと。


 求めあう営みにおぼれる二人の声が乱響している部屋の窓からは、先ほど遠吠えをしていた犬の姿は見えない。しかしその犬はさっき、月の光をびると、無数のオオムラサキに変わり、田んぼの上をすべるように飛んで行った。

 その頃、幽霊がひとり、竹藪の中を彷徨さまよいながら、冷ややかな風に生前の後悔をゆすいでいた。その幽霊の――まだ年若い彼女の周りを、オオムラサキが一匹、ひらひらと回転している。そして、彼女の薬指ではねを休めた。


     *     *     *


 夜明けの空気は、月夜のものより寂しくはかなく感じられた。

 眠っている洋人の腕から抜け出して、窓のカーテンを開けた霰は、朝四時の月の美しさに心を打たれた。星の見えない中、雲間に現れてはまた消えていく月。


 巨人でさえ捕まえることを躊躇ためらうような、気高さがある。あらゆるものの中で、唯一、神のようなものを連想させる力があるのも、あの月だけだ。そんなことまで、霰は想った。

 彼に求められ続けて疲れ切った身体と、彼の身体を感じながら切なくなった心。この一夜のうちに、霰の心身は、制圧され、占領された。彼と同じ色と模様もように染め上げられた。


 霰には、洋人の魅力が分かっている。少なくとも、分かっている気がしている。

 それは、生と死を一斉いっせい謳歌おうかし、その副作用を逃すことなく引き受けているところだ。


(この人に守られたいし、この人のことを守りたい)


 凪いだ朝は、冷え切った空気を眠らせている。まるで風景画のようにも見える目の前の景色に感傷を抱きながら、霰は洋人のことを、そして二人の今後のことを、寂莫じゃくばくとした境地で考えはじめた。

 この家の一階は、まるで死んでいるかのように、完全に沈黙している。


 その時、後ろの竹藪が、風もないのにかすかに揺れた。竹と竹の間をうように、何者かがただよっているのだろうか……と思ったらそれは、朝陽の昇る方角へと羽ばたく鳥の音らしかった。

 その鳥は、地上に眼をやることなく、顔を上げ、空に点綴てんていと散らばる寂莫の欠片かけらを、拾い集めているように見える。


 肌寒くなりベッドの上に戻った霰は、洋人に気付かれないように、彼の胸に唇を押し当てた。



 〈了〉

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寂莫を払って 紫鳥コウ @Smilitary

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