寂莫を払って

紫鳥コウ

 女性がひとり夜道を歩くのは危ないからと言って、霧島霰きりしまあられと一緒に最寄り駅に向かう秋島洋人あきしまようとは、なんの話もしようとしなかった。ただ、黙って歩いているだけだった。

 洋人と並んで歩きながら、彼が「黒田梨沙くろだりさとも付き合っている」という情報の真偽しんぎを、問いただすきっかけを得られなかったことに、霰はもやもやとした気持ちを抱えこんでいた。


 霰は、ブラウンのコートを羽織り、クリーム色のベレー帽をかぶり、さらりとした黒髪は腰まで降り、明るい服の色に反したダウナーな雰囲気をまとっている。

 パッとしないと言われることもあるけれど、それゆえにひとをきつけるところのある顔は、いまは一切、表情が変わることはない。


 文学少女然とした、ふちの太い黒の眼鏡が目立つ、涼やかな顔つきをした、ちょっとこだわりが強そうな感じの梨沙のことを、好きになるひとは多いと聞く。

 自分とはただの「遊び」でも不思議はない。もう三十歳の霰は、そう考えた。


 遊んできた女性の数は、百人はくだらないのだと、洋人は、どこか自信ありげに言っていた。みんな、マッチングアプリを通じて関係を持った女性たちだという。もちろん霰も、その中のひとりだった。

 同じ職場の梨沙とも繋がっているのを知ったとき、マッチングアプリをしている知り合いはみな、洋人と遊んだことがあるのではないかと、霰が疑念を抱いたのは、不思議ではない。


 駅の改札の前で、「じゃあ、ぼくはここで」と洋人に言われたとき、霰の自尊心は傷つけられた。洋人も電車で帰ると思っていた。だからホームまで一緒に来てくれるだろうと高をくくっていた。

 だけど洋人は……いやきっと、このまま別の女の子と会いに行くのだろう。霰はそう勘ぐらずにはいられなかった。


(わたしといるのはつまらなかったんだ)

 彼氏がいたのは一度だけ、それも、長くは付き合っていない。そのときも、すぐに飽きられて終わりだった。


(つまんないオンナなんだな、わたしって)

 そう決め込んでしまう。すると、だんだん悔しくなって、霰は一刻もはやく、駅の構内に入りたいと思った。


 それなのに――

(えっ……?)

 ――突然、洋人に抱きしめられて、おおいかぶさるようにして、唇をふさがれてしまった。彼の熱っぽい唇が、霰の冷たい唇を奪ったのだ。


 会社や学校帰りのひとたちだけでなく、家族連れやカップルなどもいる、都内の駅。人の眼を気にしないではいられない。

 霰は、いつまでもこうしていたいと思ってしまった。周りのひとたちに見られてしまっているのだから、いま離れてしまえば、自分たちに向けられる視線を、じかしまう。


 全身が熱い。頭がぼんやりとしてきた。どんどん彼を受け入れる身体になっている――霰はもう、なにも考えることができず、求められながら、自然と、自分からも求めていた。

 洋人を手放したくないという感情が、霰のこころを支配していく。目尻に浮かんだ涙は、よろこびに輝いている。


(このひとがいないと、わたしは生きていられない……)

 さっきまで憎んでいた洋人のことを、いまはもう、愛してしまっている。影の落ちたこごえた大地に、暖かい風が吹き込んで、陽が差していくかのように。


(誰にも、このひとを渡したくない)

 嫉妬や独占欲が、自然とき上がってくる。いつの間にか霰も、両手を洋人の背中に回している。


 霰は、燃えたぎる愛の地平へと堕ちていく気持ちだった。

 このひとも、一緒に業火ごうかに焼かれてくれるだろうか?――霰には、一抹いちまつの不安もあった。


     *     *     *


 翌日、霰は会社に出勤すると、一階にある自販機に向かった。珍しく、水筒すいとうを持ってくるのを忘れてしまった。昨日の「あの件」で動揺しているのだろう。

 たくさんのひとが行きうところで、堂々とキスをしていた自分を、野次馬の立ち位置から眺めているのを想像してしまう。すると、顔が真っ赤になって、ても立っても居られなくなる。


 いつもなら買わない微糖のアイスコーヒーのボタンを押した。やはり、あのあとでは眠れなかった。電車の吊革つりかわつかまりながら、ずっととしていた。

 かがんで温かい缶を手に取ったとき、「おはよう」という声が、後ろからりかかってきた。それは間違いなく、黒田梨沙のものだった。


「おはよう」

 霰は振り向いて、挨拶あいさつを返した。

「霧島さん、なんだか眠そうね」

「ええ、少し」

「わたしもちょっとでね、エナジードリンクを買いにきたの」


 小銭を投入口に入れて、迷いなくボタンを押した梨沙は、さらに霰に話しかけた。それは、他の誰にも聞かせたくないという思いのこもった、ひそひそ声に近いものだった。


「昨日の朝まで、オトコのひとと遊んでたの。マッチングアプリで知り合ったひとなんだけどね」

 その言葉に、霰の心身は一気に冷えていった。

「ほかのオンナとも遊んでるひとだから、恋人っていうわけじゃないけど、もう何度も会ってるわ」


 もしかしたら、その相手というのは洋人ではないだろうか?――霰の猜疑心さいぎしんは、一日のうちにこらえきれないくらいに肥大化していった。

(わたしだけを、愛してくれるんじゃないの?)

 いつもはすんなりとこなせる仕事も、今日はまったくと言っていいほど手につかなかった。


     *     *     *


 家に帰るのも待てず、会社を出るなり洋人に電話をかけたが、なかなか出ない。霰は何度も何度も、洋人の電話番号をタップした。

 すると、ようやく洋人に繋がった――と思うと、なれなれしく彼に語りかける女性の声が聞こえてきた。


「霰か?」――洋人の声が耳を刺す。

 余裕の笑みを浮かべているのが目に見えるようだ。

「いいものを聞かせてやるよ」

 受け入れられない現実。身体中が一気に固まっていくのを感じる。


「ほら、言ってごらん」

「ごめんねえ、彼女さあん。愛してる彼氏さんのことを盗っちゃってえ」

 霰は衝動的に電話を切った。スマホを掴んだまま、薄暮はくぼに涙声を響かせながら、駅とは反対の方向に走った。人目を気にしている余裕はなかった。


 走り疲れると、肩を落とし嗚咽おえつをしながら、あちこちをトボトボと歩いた。なかなか家に帰ることができなかった。

 明日も出勤しなければならない――その義務感だけが、霰をアパートの入り口にまで導いた。階段で眠ってもいい。そう思いはしたけれど、なんとか布団ふとんいて、枕を抱いて眼をつむった。


 彼を信じてしまった自分のことを責め、彼のことをうらみ、名も知らないあの女性に嫉妬し……霰の胸中きょうちゅうは、あらゆる感情でぐちゃぐちゃになっていた。

 それなのに、迎えた朝の空は、雲ひとつなく綺麗に晴れ渡っていた。

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