寂莫を払って
紫鳥コウ
一
女性がひとり夜道を歩くのは危ないからと言って、
洋人と並んで歩きながら、彼が「
霰は、ブラウンのコートを羽織り、クリーム色のベレー帽をかぶり、さらりとした黒髪は腰まで降り、明るい服の色に反したダウナーな雰囲気を
パッとしないと言われることもあるけれど、それゆえにひとを
文学少女然とした、
自分とはただの「遊び」でも不思議はない。もう三十歳の霰は、そう考えた。
遊んできた女性の数は、百人はくだらないのだと、洋人は、どこか自信ありげに言っていた。みんな、マッチングアプリを通じて関係を持った女性たちだという。もちろん霰も、その中のひとりだった。
同じ職場の梨沙とも繋がっているのを知ったとき、マッチングアプリをしている知り合いはみな、洋人と遊んだことがあるのではないかと、霰が疑念を抱いたのは、不思議ではない。
駅の改札の前で、「じゃあ、ぼくはここで」と洋人に言われたとき、霰の自尊心は傷つけられた。洋人も電車で帰ると思っていた。だからホームまで一緒に来てくれるだろうと高を
だけど洋人は……いやきっと、このまま別の女の子と会いに行くのだろう。霰はそう勘ぐらずにはいられなかった。
(わたしといるのはつまらなかったんだ)
彼氏がいたのは一度だけ、それも、長くは付き合っていない。そのときも、すぐに飽きられて終わりだった。
(つまんないオンナなんだな、わたしって)
そう決め込んでしまう。すると、だんだん悔しくなって、霰は一刻もはやく、駅の構内に入りたいと思った。
それなのに――
(えっ……?)
――突然、洋人に抱きしめられて、
会社や学校帰りのひとたちだけでなく、家族連れやカップルなどもいる、都内の駅。人の眼を気にしないではいられない。
霰は、いつまでもこうしていたいと思ってしまった。周りのひとたちに見られてしまっているのだから、いま離れてしまえば、自分たちに向けられる視線を、
全身が熱い。頭がぼんやりとしてきた。どんどん彼を受け入れる身体になっている――霰はもう、なにも考えることができず、求められながら、自然と、自分からも求めていた。
洋人を手放したくないという感情が、霰のこころを支配していく。目尻に浮かんだ涙は、
(このひとがいないと、わたしは生きていられない……)
さっきまで憎んでいた洋人のことを、いまはもう、愛してしまっている。影の落ちた
(誰にも、このひとを渡したくない)
嫉妬や独占欲が、自然と
霰は、燃え
このひとも、一緒に
* * *
翌日、霰は会社に出勤すると、一階にある自販機に向かった。珍しく、
たくさんのひとが行き
いつもなら買わない微糖のアイスコーヒーのボタンを押した。やはり、あのあとでは眠れなかった。電車の
「おはよう」
霰は振り向いて、
「霧島さん、なんだか眠そうね」
「ええ、少し」
「わたしもちょっとくたくたでね、エナジードリンクを買いにきたの」
小銭を投入口に入れて、迷いなくボタンを押した梨沙は、さらに霰に話しかけた。それは、他の誰にも聞かせたくないという思いのこもった、ひそひそ声に近いものだった。
「昨日の朝まで、オトコのひとと遊んでたの。マッチングアプリで知り合ったひとなんだけどね」
その言葉に、霰の心身は一気に冷えていった。
「ほかのオンナとも遊んでるひとだから、恋人っていうわけじゃないけど、もう何度も会ってるわ」
もしかしたら、その相手というのは洋人ではないだろうか?――霰の
(わたしだけを、愛してくれるんじゃないの?)
いつもはすんなりとこなせる仕事も、今日はまったくと言っていいほど手につかなかった。
* * *
家に帰るのも待てず、会社を出るなり洋人に電話をかけたが、なかなか出ない。霰は何度も何度も、洋人の電話番号をタップした。
すると、ようやく洋人に繋がった――と思うと、なれなれしく彼に語りかける女性の声が聞こえてきた。
「霰か?」――洋人の声が耳を刺す。
余裕の笑みを浮かべているのが目に見えるようだ。
「いいものを聞かせてやるよ」
受け入れられない現実。身体中が一気に固まっていくのを感じる。
「ほら、言ってごらん」
「ごめんねえ、彼女さあん。愛してる彼氏さんのことを盗っちゃってえ」
霰は衝動的に電話を切った。スマホを掴んだまま、
走り疲れると、肩を落とし
明日も出勤しなければならない――その義務感だけが、霰をアパートの入り口にまで導いた。階段で眠ってもいい。そう思いはしたけれど、なんとか
彼を信じてしまった自分のことを責め、彼のことを
それなのに、迎えた朝の空は、雲ひとつなく綺麗に晴れ渡っていた。
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