第5話 挑戦者
高校生になったばかりの4月が終わりに近づいた頃だった。制服の生地にはまだ新品の硬さが残っていて、窓から入る午後の光は少しだけ長くなり、教室の空気には昼下がり特有の緩さが漂っていた。黒板の上を移動するチョークの粉っぽい匂いや、プリントを重ねる紙の擦れる乾いた音が、まだ"一年生"という肩書きの新しさをはっきり保っている時期だ。
そんな授業中に、担任が教卓の前から離れて机の間を順番に歩き、印刷したてのプリントを配っていった。足取りは急がず投げやりで、けれど慣れた手つきだった。プリントが机に触れる度、紙の乾いた擦過音が連なり、同時に担任の口から行事名が落ちる。
俺はペン先を止めたまま、その言葉の意味を確かめる。
「いいかー?お前ら1年生は再来週に宿泊研修があるからな。ちゃんと持ち物とか準備しとけよー」
声は気怠そうにのびて、語尾が少し甘く潰れる。眠そうな放課後みたいな声色で言いながら、担任──羽柴先生は、最後の列の生徒にまでプリントを配り終えた。
羽柴先生は、ワイシャツの第二ボタンあたりまでが少し緩んでいて、ネクタイも形だけ締めている感じだった。シャツの裾もきっちり整っているわけじゃない。学校指定のスラックスは履いてはいるが、きっちり感よりは、動きやすさ重視のゆるさが勝っている。きっちり刈ってくださいと生徒指導が言いそうな無精髭が頬から顎にかけて薄く残っていて、それがわざとなのか、それともただ剃るのが面倒なだけなのか、俺には判断がつかない。
黒板の前にずっと立って授業を進める教師というより、教室に寄りかかった大人、という印象だ。
「⋯⋯」
宿泊研修か。泊まりが伴う学校行事はてっきり2年以降の出番だと思っていたのに、1年の一学期から前倒しで来るとは少し意外だ。けれど、やることは大差ないだろう。
「何か質問のある奴はいるかー?」
「先生ー!研修って何するんですか!?」
「プリントに書いてある。以上」
羽柴先生は教卓の裏の椅子に腰を落とし、背もたれに浅く体を預けた。淡白なやり取りが終わると、教室の空気は再び紙の列車みたいに小刻みに走り出す。
「先生!バスの座席と泊まる時の部屋はどうやって決めるんですか?」
「両方ともこっちで決めるが、まぁほとんど決まってるようなもんだ。酔いやすい奴だけ後で教えてくれ。それじゃあとっとと授業始めるぞ」
「えー!?」
教室の空気がわずかにざわついた。机を指先で小さく叩く音、椅子の脚が床を擦る音、隣同士で顔を寄せる仕草。耳に入ってくるのは、期待と不安の入り交じった気配だ。
恐らく一部のクラスメイトはこういう行事の前では、どの班にするか話し合いましょうとか、誰と同じ部屋にするか決めましょうとか、そういう名目でこの時間の授業が潰れると思っていたのだろう。班決めだのレクリエーションだの、そういう言葉を期待していたやつもいるはずだ。
だけど、現実はそう甘くなくて、そういう自由裁量の余地は生徒側にないらしい。座席も部屋も、基本的には学校側で割り振り済み。酔いやすいかどうか程度の申告欄を残して、残りは全部大人の都合で既に組まれている。
「さっさと教科書準備しろよー」
そこから先は本当にいつも通りだ。黒板には新しい単元のタイトルが書かれ、教科書の該当ページを開けという指示が出て、クラスの視線が一斉に下へ落ちる。シャーペンの芯が紙の上をこする音が一斉に立ち上がって、先ほどまでのざわつきはすぐに授業中の静けさに吸い込まれていった。あとはノートを取るだけの役割に戻るだけだ。
しかし、俺は黒板ではなく、配られたプリントの持ち物欄をぼんやりとなぞった。洗面用具、筆記用具、常備薬、歩きやすい靴。並べられた単語はどれも当たり前で、だからこそ現実感がある。遊びではなく学校の行事として泊まりに行くという実感が、少しずつ胸の奥に落ちてくる。
さて、と俺は心の中で区切りをつける。
まだ出発までは日数に余裕があるとはいえ、帰ったら準備を始めないとな。こういう宿泊を伴う学校行事は、家に帰って親に相談して、忘れ物がないように詰めておけばとりあえず安心、みたいな段取りが一般的なんだろうけど俺の場合はそれが使えない。
俺は今ひとりで暮らしている。
だから、忘れ物がないか確認してくれる人はいないし、足りない物があったとしても簡単にどうにかなるとは限らない。そう考えると、準備ってやつは少し早めに整えておくべきだ。
正直に言えば、宿泊研修そのものよりも、そっちの方がよほど気を遣う。
そうして授業が一通り終わり、昼休みのチャイムが校内の空気を緩めた頃、俺は廊下を歩いていた。教室から吐き出された人の流れは廊下や中庭へ分散していくが、俺はその流れに混ざらず購買へ向かうつもりだった。今日は白雨と一緒に昼を食べる約束もないし、わざわざ誰かと席を探して座る気分でもない。適当にパンでも買って、静かなところで手早く腹だけ満たしておきたい。それくらいの雑さでいい日だった。
今日、弁当を作っていないのには深い理由なんてない。ただ単純に面倒だったからだ。眠気と勝負してまで台所に立つ気力がなかったし、腹が満たせればそれでいいという日もある。そういう妥協は俺の中では別に悪いことじゃない。
そんなことを考えながら歩いていると、向かい側から冬木がやってきた。視界の端で俺の存在に気づいた冬木はわかりやすく笑って、迷いなく距離を詰めてくる。
「よぉ志遠!これから昼飯か?」
「まぁな」
冬木には本来向かう途中の場所があったはずなのに、当然の顔で進路をくるりと変えて、気づけば俺の隣に並んでいた。そのまま歩幅を合わせてくるから、気がつけば俺たち2人の進路は購買へと自然にまとまった。冬木はこういう距離の詰め方がうまい。押しつけがましくないのに、一緒に行動する形になっている。
「あ、そういえば朝比奈から聞いたぞ?会えたんだってな!」
この前のあれか、と俺は記憶を掘り起こす。
「偶然な。というか、同じ学校なら教えてくれれば良かったのに」
「いやー、てっきり知ってると思ってたからなぁ」
そんな取り留めのない会話を続けながら廊下を進んでいくと、冬木が本題らしいものを切り出してきた。
「ところで志遠!今日の放課後は空いてるか?」
「なんで?」
「今日部活オフだけどまだ練習したくてな、久しぶりに志遠とやりたいんだけどいいか?」
卓球。相変わらず、冬木はそこに全力を注いでいる。中学の頃からずっとそうで、高校に入ってもぶれない集中力を持ってるみたいだな。そういう真面目さは割と尊敬していたりする。面と向かって言う気はないが。
「⋯⋯」
俺は少し考えた。
ついさっき、宿泊研修の準備を進めようと頭の中で段取りを組んだばかりだったが、だからといって絶対に今日やらなきゃいけないほど切羽詰まっているわけでもないし、今の俺はどこかの部活に所属してるわけでもないから、放課後の時間の使い道はどうとでもなる。
それに、せっかく友達の冬木が誘ってくれているんだ。無理に断る理由も必要性も特にない。そう思う一方で、ひとつだけ気がかりはあるが。
「いいけど、見学する奴がひとりいてもいいか?」
「ん?見学者?」
「そうだ。最近俺の傍から離れてくれない見学者だ」
口にした表現に、自分でほんの少し苦くなる。言い方だけを取り出せば、そこそこ面倒な存在を抱えている人間のぼやきに近い。けれど説明しようとするとそれ以外の言葉が出てこないのも事実だった。
だが、そう言わざるを得ない時点で俺の平穏はもう完全に日常から切り離されているんだろうな。
***
放課後。俺は部活用の更衣室を一時的に借りて、制服から体操服へと着替えを済ませた。白いシャツの布地は一度洗われた柔軟剤の匂いがうっすら残っていて、肌に当たる感触が少しひんやりして気持ちいい。その上から長袖のジャージを通し、同系色のズボンを腰へ落ち着かせる。
半袖とハーフパンツでも支障はないが、今日の空気は校舎の廊下を歩くだけで分かる程度に冷え、汗をかいた後の体温を容赦なく奪っていく種類の寒さだと事前に分かっている。だから俺は最初から長袖を選んだ。余計な不快感はわざわざ拾わない方がいい。
続けて俺はロッカーの下段から体育館シューズを取り出し、かかとを踏まないようにきちんと履く。紐を固く結び直すと、靴底がゴム特有の匂いをかすかに返した。
そうして準備が済んだところで、扉を押し開けて体育館へ向かう。
「やっぱり中学の体育館よりも断然広いな」
体育館に入ると、空気が変わる。ワックスのかかったフロアと、汗と、ボールが床を打った時の音の名残。遠くのコートでは誰かがバスケットボールをつく硬い音が反響していて、その響きが天井からゆっくり降りてくる。
そのまま真っ直ぐには進まず、目的地へ赴くために入り口のすぐ横にある階段へと俺は足を向ける。手すりに手を添えながら二階へ上がっていけば、そこには卓球用に区切られたスペースが広がっていた。
横一列に卓球台がずらりと並び、ざっと見て六台ほどか。青い台の表面はライトを受けて鈍く光っていて、ネットもきちんと張られている。ピン球が弾む軽い音が断続的に響き、空間全体が落ち着いたリズムで揺れているように感じた。
そして、その一角に冬木がいた。冬木は卓球台の片側に立って、ラケットを軽く振りながらサーブ練習をしていた。軽く前かがみになった姿勢のまま、ピン球を手の平から上に浮かせ、短い弧を描いて落ちてくる球を正確に叩きつけていた。やはり普段から打ち込んでいる奴の動きは俺なんかとは違うと分かる。
「待たせたな、冬木」
そうして声をかけると冬木は俺に気づき、手の動きを止めて目を見開いた。反応が大げさに跳ね上がって、ピン球がラケットからこぼれ、台の上を軽い音を立てながら転がっていく。
「少し待ったか?更衣室使うの初めてで時間かかったかも」
「全然大丈────っ!?いや、いやいやいや!なんで白雨さんがいるんだ!?」
その反応は、ある意味では当然と言えた。
冬木の視線が俺の肩越しに吸い寄せられる。何故ならその先には、ぴたりと俺の半歩後ろに位置する白雨がいたからだ。
白い髪は体育館のライトを受けて淡く光っていて、金色の瞳だけが冷えたまま何も揺らさない。長袖のジャージ姿の俺とは違って、白雨の制服は乱れがなく、ボタンの位置一つすら正確で、肩の線も姿勢も崩れない。そういった整い方は、何もしていないのに特別に見える。
そういえば、冬木と白雨は同じクラスだったか。なら白雨のことは既に知っているはずだし、学校内での在り方も日常的に目にしているのか。
教室で誰とも会話をしないこと。誰の誘いにも乗らないこと。人に興味を見せないこと。そして、完璧すぎて近づくきっかけすら掴ませないこと。
そういったものを冬木は全部、目の端で見てきている。それを踏まえた上で、白雨が俺の後ろをぴったりついて体育館二階まで来ているこの状況を冷静に受け止められるはずがない。
「あー、気にしないでくれると助かるんだが」
「無理無理!気になり過ぎて卓球に集中出来ねぇって!」
まぁ、そう返ってくるのも分かるが俺としても説明には少し困る。というのも、白雨と俺の関係は言葉にすると余計ややこしくなるし、変に言えば厄介事が増えるだけだ。
俺が言葉を選びきれずに黙った瞬間、代わりに白雨が口を開いた。
「話すのは初めてだね、冬木君」
「え、名前⋯⋯知ってたんだ⋯⋯」
「勿論、クラスメイトだからね。それで私が黒瀬君の傍にいるのは、黒瀬君と友達になりたいからだよ」
「と、友達?」
白雨はそう言って、本当の理由は伏せながら外向けの説明だけを差し出した。その言い分は俺を守るために組んだ、分かりやすくて聞こえのいい嘘の理由だとすぐに分かる。
いや、厳密には全部が嘘というわけでもないのか。白雨は当面の目標として俺と"友達"になろうとしているのかもしれない。
「⋯⋯」
助け舟を出されたような格好になって、俺は一瞬だけ白雨に礼を言いそうになった。しかし、その思考はすぐ打ち止めになる。
冷静に考えれば、ここまでややこしくなった原因は全部白雨が持ち込んだものだ。白雨が俺のことを好きになろうとしたことが発端で、俺の平穏な日常を掻き回している。そう考えると白雨がこの場を誤魔化すのは、火種を投げ込んだ側としての当然の後始末という見方もできる。つまり、感謝するのは少し筋違いかもしれない。
そういう入り混じった感情だけが胸の底に沈殿して、しばらく動かなかった。
「そ、そうか⋯⋯って!いや志遠!そんな友達になるかどうかで時間かけてるのか!?」
「しおん?それって黒瀬君の下の名前?」
冬木の口から不用意に転がった俺の下の名前。白雨はそれを逃さず拾い上げた。
「お前、名前も教えてないのか⋯⋯」
「う、うるさいな!あぁそうだよ!志遠が俺の名前だ」
「志遠⋯⋯そっか、志遠って言うんだね」
ゆっくり、丁寧に、一音ずつ転がして味わうみたいに、白雨は俺の名前を口の中で扱った。
自分を指し示す二文字なのに、俺の手を離れて白雨のものになっていく感覚さえした。白雨の口の奥で俺の名前は柔らかい舌に押し当てられて、ゆっくり圧をかけられ、溶けるようにほどかれていく。熱を帯びた吐息に包まれて、形ある音だったものが甘い痕だけを残して崩れていく。そうして、白雨だけの温度で溶かされ、白雨だけの湿度で柔らかくされ、外に戻ってきた時には俺の名前は少し別の意味を持っていた。
過保護に扱われて、やたらと優先順位を上げられて、大事なものとして白雨に覚えられる。そんな気がした。
「ねぇ黒瀬君。私も名前で────」
「嫌だ、絶対に」
俺は即答した。食い気味に遮って、逃げ道も例外も与えないまま切り捨てた。冬木から痛い視線が飛んでくるが、嫌なものは嫌だ。そこは譲らない。
「残念。もっと仲良くなったら呼ばせてね」
口では残念だと言っているのに、白雨の表情は静かなままだった。眉も崩れないし、目元も揺れない。誰にでもそうなんだろうと分かっていても、その無色さが却って距離を詰める圧力になる。
けれど、白雨の言い方はあくまで一時停止であって中止じゃないと宣言しているようなものだった。いずれは必ず名前で呼ぶ、それが当たり前の未来になると言われた気がして、胸の奥がじわりと締め付けられる。
「俺と白雨さんのことはいいから、さっさとやろうぜ」
「⋯⋯すまん志遠。先に聞くだけ聞いてみてもいいか?」
「?」
俺が話を切り上げようとしたところで、冬木がわずかに真面目な声音になった。軽口を閉じた時の冬木は、卓球台の前に立つ時と同じ目つきになる。俺はその変化を知っているから、思わず黙った。
冬木の視線が白雨へ向かう。そこには遠慮よりも、確認したいという好奇心が勝った跡があった。
「白雨さん、急なお願いになるのは分かってるんだ。だけど、頼む!俺と1回だけでいいから試合をしてくれないか?」
冬木は言った。逃げも濁しもなく、真正面から堂々と。白雨の実力をただの噂として終わらせず、自分の中に実感として刻みたいという欲が口元と目尻に静かに滲む。
それは、挑戦者としての顔だった。
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